屋太一さん死去
「団塊の世代」 元経企庁長官

「団塊の世代」などの小説で知られ、平成10年から2年間、経済企画庁長官も務めるなど、政治や経済、文芸など、幅広い分野で活躍した堺屋太一さんが、8日多臓器不全のため亡くなりました。83歳でした。

堺屋さんは大阪市の出身で、東京大学経済学部を卒業後、昭和35年に当時の通産省に入り、昭和45年の大阪万博やその後の沖縄海洋博の開催に携わりました。

在職中の昭和50年に、石油危機を描いた小説、「油断!」で作家としてデビューし、よくとしには1940年代後半に生まれた第1次ベビーブーム世代が将来の日本にもたらす影響を予測した小説、「団塊の世代」がベストセラーになりました。

また、歴史小説も数多く手がけ、忠臣蔵を題材にした「峠の群像」や、豊臣秀吉の生涯を描いた「秀吉夢を超えた男」は、NHK大河ドラマの原作にもなりました。

そして、平成10年から2年間、民間人の閣僚として経済企画庁長官を務めたほか、平成25年には安倍内閣の内閣官房参与に任命されるなど、政治や経済、それに文芸など幅広い分野で活躍してきました。

さらに、歴史を、経済から捉える新たな視点を提示したことなどで平成16年にNHK放送文化賞を受賞したほか、平成24年には旭日大綬章を受章しました。堺屋さんは先月、体調を崩して入院し、治療を受けていましたが、おととい8日、多臓器不全のため東京都内の病院で亡くなったいうことです。83歳でした。

経済企画庁長官としても手腕を発揮

堺屋太一さんは、小渕内閣や森内閣で、2年余りにわたって経済企画庁長官を務め、金融危機で景気が低迷する中、経済対策の取りまとめなどに手腕を発揮しました。

在任中の平成11年度の経済白書では、みずから執筆した序文の中で、右肩上がりの日本経済を支えてきた前提条件が崩れていることを鋭く指摘したうえで、企業が抱える雇用と設備、それに債務の「三つの過剰」を処理する必要性を強調しました。

また、平成12年の年末から開かれたインターネット上の博覧会、「インパク」の開催準備にあたったほか、景気の実態をより的確に把握するため、スーパーの店員やタクシーの運転手といった現場で働く人たちに実感を聞く「景気ウォッチャー調査」も考案しました。

「大阪・関西万博」の誘致にも尽力

また、堺屋さんは、2025年に開催が決まった「大阪・関西万博」の誘致にも力を尽くしてきました。

堺屋さんは、昭和35年に当時の通産省に入省し、昭和45年の大阪万博では万国博覧会準備室などの担当として、企画や開催に携わりました。2025年の「大阪・関西万博」でも、万博誘致に向けて大阪府にアドバイスをしていたほか、去年は、東京 新宿区にある自身の自宅を改築した美術館で万博の歴史をテーマにした展示会を開くなど、国内での機運の盛り上げにも努めていました。

女子プロレス好きな一面も

堺屋さんは生前、女子プロレスの試合を観戦するのがとても好きだったということで、多い時には、毎月のように試合会場を訪れていたということです。また、14年前の平成17年には、東京・新宿に格闘技のイベントも開催できるプロレスのリングを備えたイベントホールの建設にも尽力したということです。

その東京・新宿のイベントホール「新宿FACE」の小川愉可支配人は「堺屋さんは女子プロレスを広めたいという強い思いを持っていらっしゃって、イベントホール建設の時にも、お客さんに楽しんでもらうためにはどういった環境を整えたらよいかなど、多くのアドバイスをくださいました」と話していました。そのうえで、「プロレスの試合を見に来られた時は、一般のお客さんに混じって前のめりになって応援していて、1年ほど前にも元気に観戦されていたので、とても驚いたとともに残念です。ご冥福をお祈りします」と話していました。

田原総一朗さん「豊富なビジョンを率直に話した」

堺屋さんが通産省の官僚だったころから親交があったジャーナリストの田原総一朗さんは、「大阪万博を企画し、大成功に導いた官僚がいると知り、初めて会いに行った。彼には豊富なビジョンがあり、官僚っぽくなくて、極めて率直に何でも話をしてくれる人だった」と当時を振り返りました。

田原さんは、「油断!」や「団塊の世代」など堺屋さんの著作は欠かさず読んできたということで、このうち、堺屋さんが官僚時代に執筆した「油断!」は、日本のオイルショックを描いた作品で、「いかに日本に主体性がなくて、オイルメジャーに石油を頼っていたか、まさに『油断』を迫力を持って描いていて、大変大きな衝撃を受けた」と話しました。

また、歴史を通じて、現代社会へのメッセージを発する作風が好きで、関ヶ原の合戦を題材にした「巨いなる企て」は、「豊臣家の一武将だった石田光成が、全国の大名を集める優れた企画力・戦術を描いていて、関ヶ原の合戦を通じて今の社会を描いている」と語りました。

田原さんは、堺屋さんの先見性を信頼していたということで、IT時代の到来を予言した「知価革命」は、「ものづくりの時代ではなく、インテリジェンスが大きな経済の要素になるというIT時代の到来を、80年代の後半に予言した。それにもかかわらず、日本は意識改革が進まず、結局、IT時代に遅れに遅れてしまった。非常に悔しい思いをしただろう」と話していました。

堺屋さんは、組織を縦割りから水平にすることで、意志決定や情報の流通を早める「水平指向」ということばも、早くから提言していたということで、田原さんは、「日本はいまだに縦割り社会で、水平指向にはなれていない。厚生労働省の統計問題など、縦割りの弊害が今も続いている」と指摘しました。

田原さんが最後に堺屋さんに会ったのは、去年の夏、2人が共に参加する「万年野党」というNPOの、政府を監視し、モノを言おうという集まりだったということです。そこでは、人工知能の台頭による社会の変化について話し、堺屋さんは、「仕事というものの質が変わるだろう。今までは仕事は与えられるものだったがこれからは自分で作っていくものになる」と話していたとのことで、田原さんは、「われわれは彼のようなビジョンを持っていない。惜しい人を亡くした」と堺屋さんをしのんでいました。

三田誠広さん「アイデアと行動力 特異な才能の人」

堺屋さんへの数年間にわたる取材をもとに、大阪万博への関わりなどその半生をまとめた「堺屋太一の青春と70年万博」の著者で、芥川賞作家の三田誠広さんは、「“万博”ということばを誰も知らない時期から、ふるさと大阪の経済的な地盤沈下を食い止めるため、役人としてプランを立て実現にまで至ったことには驚かされます。また、『団塊の世代』など、問題意識をすぐに作品化するという、アイデアと行動力が結び付いた特異な才能をお持ちの方でした。新たな大阪万博に向けてこれからもお忙しくなるだろうと思っていたので、突然の訃報に驚いています」とコメントしています。

自民 岸田氏「本当にさみしい」

自民党の岸田政務調査会長は、記者団に対し、「私の父が、旧通産省出身ということもあり、公私にわたって大変親しくさせてもらい、私自身、いろいろなところで、ご指導をいただいた。本当にさみしいものを感じている。ご冥福をお祈りするとともに、さまざまなご指導に改めて心から感謝を申し上げたい」と述べました。

立民 枝野氏「昭和は遠くなりにけりを実感」

立憲民主党の枝野代表は、長崎県大村市で記者団に対し、「直接には深い接点があったわけではないが、ニュースを聞いて文字どおり、『昭和は遠くなりにけり』ということを実感した。謹んで哀悼の意を表したい」と述べました。

惜しむ声 東京新橋

堺屋太一さんが亡くなったことについて、東京の新橋駅前では、惜しむ声が聞かれました。

東京の51歳の男性は、「時代を的確にとらえた鋭い批評は参考になっていたので、非常に惜しいです。これからも混迷を深める時代のなかで、堺屋さんにご助言をいただきたかったです」と話していました。

鎌倉市の66歳の男性は、「何冊か本を読んでいてファンだったんですが、残念です。いろいろな分野に詳しくて、論点がはっきりしていて分かりやすかった印象があります。一つの時代が終わった感じがします」と話していました。

また、東京の76歳の男性は、「大阪の万博や、役人で活躍したのが印象に残っていますが、残念です。あと10年くらいは生きてもらいたかったです」と話していました。

金沢市の女性は、「惜しい方を亡くしたと思います。団塊の世代ということばは、時代をうまく言い当てたことばだったと思います」と話していました。

大阪 吉村市長「遺志を継ぎ大阪を成長させたい」

堺屋太一さんは、生前、大阪府や大阪市の特別顧問を務めました。大阪市の吉村市長は「突然の訃報に驚いている。東京一極集中ではなく、大阪がもっと頑張らなくてはいけないといろいろなご指導をいただき、2025年の大阪・関西万博の誘致においても支えていただいた。先生の遺志を継いで、大阪を成長させたい。ご冥福を心からお祈りします」と述べました。

関経連 松本会長「関西の発展に多大な功績」

堺屋太一さんが亡くなったことについて、関西経済連合会の松本正義会長は、「堺屋氏は1970年万博の成功に尽力されるとともに、歴史街道構想を提唱するなど、関西の歴史・文化の発展に多大な功績を残された。これから2025年大阪・関西万博の準備を進める中で、数多くの万博に携わってこられた堺屋氏の知見を得たいと考えていたところであり、ご逝去は残念でならない。心よりご冥福をお祈り申し上げる」という談話を出しました。

大阪 街の声「惜しい人」

JR大阪駅前では、大阪市出身の堺屋太一さんを惜しむ声が聞かれました。

75歳の男性は「昭和45年の大阪万博で活躍した人なので、2025年の大阪・関西万博でもアドバイスをくれたのではないかと思う。大阪にとって惜しい人を亡くした」と話していました。

71歳の男性は「経済に関して幅広く発言し、私たちにとっても参考になることを数多く執筆していた」と話していました。

83歳の男性は「役人の出身ながら、庶民の感覚で話すことができる物事のバランスをよく分かった人だった。今はあのような人はいない。昭和や平成ではなく、『堺屋太一時代』が終わったという印象だ」と話していました。

“海洋博が観光地沖縄の発展につながった”

沖縄県浦添市に住む仲里嘉彦さん(80)は地元で経済誌などを発行し、沖縄が本土復帰した翌年の昭和48年に初めてインタビューして以来、堺屋さんの講演を開くなど、親交を深めてきました。

仲里さんは「大阪万博の経験がある堺屋さんが海洋博に関わるということで、沖縄として期待していた。観光の素材が沖縄の伝統文化や地域文化の中に多くあり、これを発掘して世界に売り出すという発想を持っていた」と話し、堺屋さんが携わった昭和50年の国際海洋博覧会がのちの沖縄の観光地としての発展につながったと強調しました。

そのうえで、「もう一度お会いして沖縄がどうすればさらによくなるのか教えを請いたいと思っていたので、亡くなられたと聞いて大変、驚きました。天国から『沖縄の観光は成長している、どうですか、私の言ったとおりでしょ』と言いながら見守ってくれているように感じます」と話していました。

オリックス 宮内氏「もっと多くを語りたかった」

堺屋さんと親交の深かったオリックスの宮内義彦シニア・チェアマンは「突然の訃報に接し、大変驚いております。堺屋氏は広範な興味と旺盛な探究心で、未来の予測や、社会の動きについて鋭い観察と先見性を示してきました。若い世代の育成にも熱意を持ち、多くの経営者を育ててきました。最後の未来予測、あるいは日本社会に対する願いは『楽しい社会づくり』だったのではないでしょうか。もっと多くを語り合い、ご一緒したかった」というコメントを出しました。