沖縄慰霊の日 6月23日は太平洋戦争沖縄戦から77年

沖縄は6月23日、太平洋戦争末期の沖縄戦から77年の「慰霊の日」を迎えました。最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園では朝早くから遺族などが平和への祈りをささげています。

昭和20年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、20万人以上が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。

6月23日は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日で、沖縄県が「慰霊の日」と定めています。

最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた平和の礎に花を手向け、犠牲者を悼んでいました。

多くの親族が沖縄戦で亡くなったという沖縄県南風原町の70代の女性は「祖父母や叔父は沖縄本島南部を逃げ回って命を落としたと聞いている。自分の子や孫に戦争の苦しい思いをさせたくないので、戦争がない平和な世の中を願っている」と話していました。

平和祈念公園では、正午前から戦没者追悼式が行われますが、おととしと去年に引き続き新型コロナの影響で規模が縮小されます。

沖縄戦から77年がたち、体験者は年々少なくなっていて、おととし10月時点では県民のなかで戦後生まれが占める割合はおよそ9割となっています。

また、平和学習の場として活用されてきた自然洞窟・ガマも劣化が進み閉鎖されるケースも出ていて、戦争の記憶の継承が課題となっています。

ことしは、沖縄が本土に復帰して50年となる節目の年でもあります。復帰前に多くの県民が望んだ「基地のない平和な島」は実現せず、沖縄には今も在日アメリカ軍専用施設のおよそ7割が集中しています。

23日は平和への誓いを新たにするとともに、沖縄が抱える重い基地の負担の現状に改めて向き合う日でもあります。

姉とおじ亡くした男性「戦争は二度と起こしてはいけない」

沖縄戦で姉とおじを亡くした、ことし88歳になる那覇市の平川正三さんは、2人の名前が刻まれた「平和の礎」の前で手を合わせていました。

平川さんは、「姉は自分の面倒をよく見てくれる、世話好きな人でした。私は沖縄本島北部のやんばるに避難しましたが、看護に動員された姉がどこで亡くなったのかは今も分かっていません。戦争は二度と起こしてはいけないと思います」と話していました。

太平洋戦争中に疎開するため、沖縄から九州に向かう途中、アメリカ軍に撃沈され800人近くの子どもが亡くなった「対馬丸」で兄2人を失い、自身も沖縄で戦争を経験した南城市の83歳の男性は「那覇市から、沖縄本島北部に避難しましたが艦砲射撃で人が死んでいくのを見ました。戦争は人殺しです。ロシアのウクライナ侵攻は沖縄戦の経験者として、胸が痛くなって何とも言えないです」と話していました。

沖縄県糸満市にある「魂魄の塔」では、朝から遺族などが訪れ、祈りをささげています。

沖縄市から訪れた仲村光子(77)さんは、沖縄戦で、当時27歳の陸軍兵士だった父親の知念牛さんを亡くしましたが、遺骨は見つからなかったということです。

仲村さんは「父には『平和で暮らしているので見守ってほしい』と語りかけました。ウクライナの戦争で子どもが殺された話を聞くとつらいです。この世から戦争がなくなってほしいです」と話していました。

平和を祈る声

父親がアメリカ兵に銃撃されて命を落とした76歳の女性
「私が生まれる直前に亡くなっているので、父の手触り感はないが、私のような思いをする人を出さないような世の中になってほしいと願い、毎年、来ている。アメリカ軍基地のない平和な沖縄になってほしい」

多くの親族を沖縄戦で亡くした70代女性
「祖父母や叔父は沖縄本島南部を逃げ回って命を落としたと聞いている。自分の子や孫に戦争の苦しい思いをさせたくないので、戦争がない平和な世の中を願っている」

祖父母など親戚6人を亡くした50代男性
「これまでは父親が塔に来ていましたが、コロナの感染が心配で私が代わりに来ました。親戚の中には収容所で亡くなった人もいると聞きましたが、悲しい出来事なので詳しくは聞けていません。沖縄が戦争に巻き込まれないことと、ウクライナが平和になるよう祈りました」

沖縄戦で親戚を5人亡くした71歳男性
「孫が学校で平和について学び、きょうの「慰霊の日」に初めて一緒に平和祈念公園を訪れました」

男性の孫の10歳の女の子
「学校で『白旗の少女』について学びました。戦争は怖いと思いました」

男性の孫の7歳の男の子
「戦争が絶対起きない平和な沖縄であってほしい」

祖母が沖縄戦を経験した比嘉陽子さん(41)
「小学生の時に祖母からうじがわいて中指が腐ったことや流れ弾が飛んできたという話を聞きました。もっと話を聞いておけばよかったです。子どもたちには平和について考えるようになってほしいと思います」

平和祈念公園を親子で訪れた30代母親
「いま、ウクライナでも戦争が起きていて、子どもたちもその様子をテレビで見ているので、平和の大切さを知ってほしくて連れて来ました。ずっと平和な世の中が続いてほしいです」

今年バスガイドになり、研修で「平和の礎」を訪れた18歳女性
「亡くなった方々への冥福と平和への祈りを捧げました。沖縄戦を体験された人が本当にいるという事実を今後、バスガイドとして全国の人に伝えていきたいです」

母親と平和祈念公園を訪れた14歳の女の子
「沖縄戦で亡くなった若い子や、戦争孤児の存在を学んで、平和祈念公園に足を運びました。ウクライナでも戦争があって平和は大事だと思います。アメリカ軍基地問題も少なくなってほしいと思います」

平和の礎とは

「平和の礎(いしじ)」は沖縄戦の最後の激戦地となった糸満市摩文仁にある平和祈念公園の中に戦後50年にあたる平成7年に建てられました。

世界の恒久平和を願い、悲惨な戦争体験を継承することを目的に沖縄戦で亡くなった人の名前が国籍や軍人、民間人の区別なく刻まれています。

また、沖縄県出身者については沖縄戦だけでなく、昭和6年の満州事変以降に戦争が原因で亡くなった人の名前が刻まれています。

毎年6月23日の「慰霊の日」を前に新たに申告があった戦没者の名前が刻まれていて、ことしは▼沖縄県の出身者が27人、▼県外の出身者が28人のあわせて55人が追加され、礎に刻まれた人は合わせて24万1686人となっています。

魂魄の塔とは

「魂魄(こんぱく)の塔」は沖縄戦の最後の激戦地となった糸満市の米須に沖縄戦の翌年、昭和21年に県内で初めて建てられた沖縄戦関係の慰霊塔です。

米須地区に収容された今の那覇市、当時の真和志村の住民がアメリカ軍の許可を得て周辺の道路や畑などに散乱していた遺骨を集めたもので、身元が分からないおよそ3万5000人がまつられています。