西日本豪雨から3年
被害の各地で追悼

西日本豪雨から3年となる6日、大きな被害を受けた広島県坂町では地元の小学生たちが町内の慰霊碑の前で犠牲者を追悼しました。

坂町は西日本豪雨で住宅地に大量の土砂が流れ込むなどの被害が出て災害関連死を含む20人が犠牲となり、いまも1人が行方不明となっています。

6日は坂町の小屋浦小学校の児童64人がことし3月に町内に建てられた慰霊碑を訪れました。

慰霊碑の前で児童たちはまず1分間黙とうして犠牲になった人たちに祈りをささげました。

続いて、中下正美校長が児童たちに「私たちは平成30年7月6日の豪雨災害のことを忘れてはいけません。早めの避難をして、大きな被害を起こさないようにするため皆さんが語り継ぎ、大切な命が失われることがないよう願っています」と語りかけました。

このあと6年生の問芝悠矢さんが「大好きな小屋浦があの日、一変しました。これからは大切な命を守り、地域に笑顔が広がってほしい。みんなで協力して未来を変えましょう」と誓いました。

また、6年生の大平万尋さんは「いつ災害が起きるかわからないので、家族で災害時の集合場所の確認や用意している防災グッズの点検をしていきたい」と決意を述べました。

土砂崩れ被害の広島市安芸区 住民が献花台

また、土砂崩れが発生して大きな被害が出た広島市安芸区の矢野東地区では、住宅があった空き地に住民たちが献花台を設け、亡くなった人たちを悼みました。

このうち、地元の町内会長を務める北川哲也さん(56)は「長いようであっという間に3年がたちました。この地区では多くの住民が土砂崩れに巻き込まれて亡くなりましたが、二度と同じ事を繰り返さないよう早めの避難を心がけたいです」と話していました。

また、高校3年生で土砂崩れに巻き込まれて亡くなった植木将太朗さん(当時18)の祖父の神原常雄さん(76)は「孫は友達が多くて優しい子でした。災害が起きたことは絶対に後世に伝えていかないといけないですし、これは残った人にしかできないことだと思います」と話していました。

亡くなった植木さんと中学校まで同級生だった宮原和輝さん(20)は「豪雨のことを思い出すとつらくなります。西日本豪雨をきっかけに砂防ダムの復旧工事などを行う会社に就職したので、地域の復興や復旧に努めたい」と話していました。

呉市で追悼式 遺族「長いようで短い3年」

呉市では犠牲になった人たちを追悼する式典が行われ、参列した人たちが祈りをささげました。

3年前の西日本豪雨で呉市では災害関連死も含めて29人が亡くなり、住宅など3200棟余りが土石流に巻き込まれるなどの被害を受けました。

豪雨から3年になる6日、市役所で追悼式が行われ、まず参列した人たちが1分間の黙とうを行いました。

続いて新原芳明 市長があいさつし「被災した人たちが以前の日常を一日でも早く取り戻せるよう全力で取り組みたい」と述べました。

このあと参列した人たちが花を手向けて犠牲者に祈りをささげました。

父の良治さんを土砂災害で亡くした江澤美由紀さんは献花のあと取材に応じ「長いようで短い3年で、この間、私にとって初めての孫が誕生し父も楽しみにしていたので見せてあげたかったです。当時は父と離れて暮らし、死に目に会えなかったのでまだ生きているような気がします。『元気でやっているよ』と父に伝えたいです」と話していました。

福山 ため池決壊で死亡 女児の遺族が追悼

福山市のため池が決壊して亡くなった当時3歳の女の子の祖父の甲斐恭隆さんが、墓の前で手を合わせて追悼しました。

西日本豪雨では、福山市駅家町向永谷にあるため池が決壊し、近くの住宅にいた当時3歳の甲斐朱莉ちゃんが土石流に巻き込まれ死亡しました。

西日本豪雨から3年の6日、当時一緒に住んでいた祖父の恭隆さんが朱莉ちゃんの墓を訪れ、掃除や花を交換したあとに手を合わせて祈りをささげました。

恭隆さんは「初孫だったので本当にかわいくて、朱莉もなついてくれていた。とても楽しくてにぎやかな日々でした」と話していました。

決壊したため池は、ことし1月に耐震化をして復旧工事が完了しました。

一方、福山市などは市内のため池の安全対策を進めていますが、管理者が特定できていない池が150か所余りに上っていて、対応を決められないケースもあるということです。

恭隆さんは当時自宅があった場所で、「ため池の工事が終わったのは本当によかった。治水など災害対策の基本的なところを優先順位をつけたうえでしっかり取り組んでほしい」と話し、対策の徹底を求めました。

警察などが行方不明者を捜索

広島県内の4つの川では、警察などが今も行方がわかっていない5人の捜索を行いました。

西日本豪雨では広島県内で災害関連死を含めて150人がなくなり5人の行方がわかっていません。

豪雨から3年の6日は、警察などが県内の4つの川でヘリコプターなどを使って行方不明者を捜索しました。

このうち海田町内の瀬野川の上流では、広島県警の機動隊や海田警察署の警察官らおよそ30人が行方不明者を捜索しました。

警察官らは膝のあたりまで水に浸かりながら横一列に並んで前に進み、棒で川底をつくなどして行方不明者の手がかりを探していました。

瀬野川の上流では3年前の西日本豪雨で当時11歳と6歳の姉妹2人が乗っていた車ごと川に落ち、今も行方がわかっていません。

広島県警機動隊の大地勝司中隊長は「豪雨から3年たって行方不明者の家族の思いに応えるためにも丁寧に捜索をしたい」と話していました。

岡山 倉敷 真備町で追悼式「つらい経験教訓に」

甚大な被害を受けた岡山県倉敷市真備町で犠牲者の追悼式が行われました。

3年前の西日本豪雨で岡山県では災害関連死を含めて95人が亡くなり、今も3人が行方不明のままです。

このうち、75人が犠牲となった倉敷市の追悼式が、被害が最も大きかった真備町で行われました。

追悼式は豪雨で被災し、6月に再開されたばかりの文化施設「マービーふれあいセンター」で開かれ、およそ50人が参列して亡くなった人たちの名前が読み上げられたあと、全員で黙とうをささげました。

倉敷市の伊東香織市長は今も600人余りが民間の住宅を借り上げる、みなし仮設住宅などで暮らしていることに触れ「被災した皆様が一日も早く元の生活を取り戻していただけるよう、復興への歩みを着実に進めていきたい」と述べました。

このあと、遺族を代表して84歳の母親を亡くした松村好美さん(58)が「西日本豪雨からはや3年となりますが、心の傷が癒えることはありません。災害はいつ襲ってくるかわかりません。このつらい経験を教訓として、災害から命を守る備えの大切さを語り継ぐことで、母にも気持ちが届くのではないかと思います」と追悼のことばを述べました。

最後に参列者が献花を行い、静かに手を合わせていました。

亡くなった町内会長を悼む

倉敷市真備町では、地域の人たちが亡くなった住民を悼み、静かに手を合わせる姿が見られました。

このうち、箭田地区で犠牲になった高本健吾さん(当時71)の墓には6日朝、同じ地区で暮らす住民が訪れ祈りをささげました。

高本さんは70世帯余りが暮らす「旭町町内会」の町内会長を10年以上務め、豪雨の当日も浸水が始まる中、車の中に取り残された住民の救助に向かい、命を落としたとみられています。

この町内会では被災した多くの住民が避難生活を余儀なくされたため活動を中断していましたが、あの日から3年がたち、ほとんどの住民が戻ったほか、新たな住民も加わり、ことし2月から活動を一部再開したということです。

6日は高本さんと一緒にかつて町内会の役員を務め、地域で喫茶店を営んでいる高本明英さん(68)が好物だったアメリカンコーヒーを供えて線香をあげ、ひとり静かに手を合わせていました。

高本明英さんは「3年がたって地区のコミュニティー活動もようやく少し軌道に乗り始めたので『地域のことは安心してください』と伝えました。人とのつながりを大切にしていた健吾さんが生きていたら、もっと早く町内会が復活できたのだろうと改めて感じています」と話していました。