日本学術会議 政府との関係
時代背景に応じた役割の変遷

日本学術会議は、政府との関係や時代背景に応じて会員の選出方法や果たす役割を変化させてきました。1997年から2003年にかけて会長を務め、改革を進めた東京大学の吉川弘之元総長(87)によりますと日本学術会議は大きく2回変化してきたとしています。

独立重んじられた設立直後

日本学術会議は、戦前から戦中にかけて大学の人事や研究内容に軍部が介入するのを許したことへの反省から、欧米の学術機関にならって科学者が中心となった組織を作るべきだとする声が高まったのを受けて、1949年に設立されました。

設立直後は、「学問の独立」を強く意識し、会員の選出は全国の科学者による選挙で行われ、「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない」とする決意を示した声明や、大学の人事は政治的な理由で左右されるべきでないとして、学問や思想の自由を尊重するよう国に求める声明などが相次いで出されました。

一方で、政府から政策についての科学的助言を求める諮問も多く、国の科学技術に関わる予算の在り方から、気象台の観測所の設置場所などといった具体的なものまで数多くの答申が示されるなど非常に活発な活動が行われました。

また、1954年には原子力の研究と利用について平和目的にかぎり「民主、自主、公開」の三原則が十分に守られるべきであるとするいわゆる「原子力三原則」の声明を出し、「原子力基本法」にも盛り込まれるなど、一定の影響を与えてきました。

大きな変化【1】 “偏向”批判と改革

日本学術会議の吉川元会長によりますと、当時は会員が選挙で選ばれていたため、政治勢力と結び付きやすく、特定のイデオロギーを代弁するような会員もいたとされ、「学術会議は偏向している」という批判が出されたということです。

1981年には、当時の中山総理府総務長官が日本学術会議の在り方を見直す発言をしたのをきっかけに、国会で議論になりました。

当時は各省庁が独自に科学者を集めて政策について諮問する審議会が設置されることが増えてきたこともあって、日本学術会議への政府からの諮問は激減していました。

この中で、1982年、日本学術会議は選挙制度を残しつつ、210人の会員の3分の1にあたる70人については、推薦によるものとする自主改革案を示しました。

しかし、政府はこの案を事実上拒否し、日本学術会議が推薦した会員を総理大臣が任命する仕組みにするよう日本学術会議法を改正する手続きを進めました。

この間、政府の方針への賛否をめぐって、日本学術会議の内部で対立が起きるなど混乱が続き、2代続けて、会長が辞任するに至りました。

そして、法律の改正を経て、1984年に会員を選挙で選ぶ制度が廃止され、国内の学会などからの推薦に基づいて、内閣総理大臣が会員を任命する制度に改められました。

会員が各学会の個別代表に

しかし、学会などの推薦に基づく制度になったことから、各学会が会員の割り当ての枠をめぐって争うようになります。

その結果、1980年代後半から1990年代には細かく分かれたそれぞれの研究分野について国の支援や研究機関の設置を求めるなどといった報告が多く出されるようになりました。

吉川弘之元会長は「推薦を受けた学会の利益代表が集まるような構図が生まれてしまった。“陳情型”とも言える報告が多く見られ、学問領域を通じて考える幅広い視点での議論ができていなかった」と話しています。

大きな変化【2】行革の中で“俯瞰的視点”

その後、1990年代の終わりから2000年代にかけて行政改革の波が起きる中、日本学術会議も議論の対象になり、再び見直しを迫られました。

この中で日本学術会議は、当時の吉川会長のもとで科学者個人だけでは解決できない社会全体に関わる問題について、専門性を持った科学者が集まって「俯瞰(ふかん)的、総合的な視点から提言を出す」とする在り方を示しました。

このとき、日本学術会議に求められている役割について「俯瞰的、総合的」という表現を使って定義したということです。

これに伴い2005年、会員の選出について各学会が推薦するという方式をやめ、海外の学術団体を参考に、会員と連携会員が新たな会員を推薦し、学問的な実績があることとともに、俯瞰的な視点で助言にあたるという目的に反対しないか、選考委員会が調査して絞り込んで候補者を決める仕組みに変わりました。

この際も日本学術会議法は改正されましたが、総理大臣が任命する条文は維持されました。

また、70歳を定年とする条文も設けられ、会員の若返りがはかられたほか、女性の割合も大きく増加しました。

吉川元会長は「科学者は自分の研究領域のことを考えていればよいという考え方をする人が多くいたなかで、あらゆる学問の領域を超えてさまざまな視点を持った科学者が集まり、地球温暖化などの環境問題をはじめとした社会の大きな問題について意見をまとめ、提言する組織にしようというねらいだった」と話しています。

その後、日本学術会議は社会や科学が抱えるさまざまな課題について、自発的に専門家が議論して方向性を示す提言を数多く出しており、ことしは9月末までに68件の提言が出されています。

緊急対応で課題 問われる政治との距離

日本学術会議は、新型コロナウイルスについて、ことし7月に感染症対策を行う常設機関の設置を求める提言を出したにとどまり、科学的な助言を行う役割は政府に設置された専門家会議が担ってきました。

吉川元会長は日本学術会議の課題として「グローバル化の急速な進展などによって、扱う問題のサイズが一気に大きくなったほか、解決までに求められる期間も短くなっている。今の学術会議は対応できておらず、緊急の案件にも助言できるような体制が求められていると思う」と述べました。

一方で「菅総理大臣は俯瞰的な観点から6人を任命しなかったとしているが、そうであるならば視野は広ければ広いほどよいはずで矛盾がある。参加している科学者たちは社会に対する科学者の責務があるという矜持(きょうじ)を持って時間を割いて会議に出て学術会議の仕事をしている。科学と政治の間のコミュニケーションが不十分で成熟した関係が問われていると感じる」と話しています。