外交官・佐藤優が慌てた
「ゴルバチョフを殺したのか?」

およそ30年前、巨大な社会主義国家ソビエト連邦が崩壊した。今回、崩壊のきっかけとなった混乱を克明に記録した日本の外交文書が公開された。
そこには情報収集に走る外交官・佐藤優もいた。当時のことをインタビューしてみると、記憶しているというやりとりを証言した。
「殺したのか?」
返ってきた答えは…
今、ロシアは、崩壊前にソビエトを構成していたウクライナに軍事侵攻し、悲惨な戦いが続いている。過去の資料の中に今につながる端緒があった。
(森田あゆ美)
“ゴルバチョフは死んでいる”
モスクワ市の中心に向かってソ連軍装甲車、戦車など約百数十両が展開移動中

およそ30年前の1991年8月19日。
ソビエトで起きたクーデター未遂事件の発生初日に、モスクワの日本大使館が状況を伝えようと外務省に送った報告書の一節だ。
事件は、ゴルバチョフ大統領の改革路線に反対する政権内部の保守派が起こした。
何か所も修正が加えられた手書きの報告書の行間からは、ヒリヒリとした緊迫感がにじみ出ている。

その際、大使館員は近くにいた男性から「ゴルバチョフはずっと前に死んでいる」と告げられた。
いったい何が起きているのか。
得体の知れないけん騒の正体を、大使館員たちは必死に把握しようとしていた。
クーデター未遂事件は前日から?
公開された文書には、クレムリン付近の広場の様子や現地メディアの報道内容などが分刻みで事細かに記されている。
18日10:10、佐藤が…
読み進めてしばらくすると、手が止まった。
現地からの報告書の日付のいくつかが、クーデターが起きた19日ではなく、18日となっているのだ。

モスクワの大使館で3等書記官として情報収集にあたり、今は作家として活動する佐藤優だった。
何が起きていたのか、本人に話を聞いてみることにした。
佐藤は、当時のことを克明に記憶していた。そして、きのうのことのように語り始めた。

「私も大使館も相当慌てていたことが、電報の証拠で残っている。午前中に私が打った電報は、全部18日になっている。日にちを間違えていることにもみんな気付かないくらい慌てていた」
「ゴルバチョフを殺したのか?」
当時、大使館に求められたのは“クーデター”の全体像を把握することだった。
中でもゴルバチョフの安否は、最優先で確認する必要があった。
「生きているか殺されているかで流れが変わってくる。大多数の人たちはもうゴルバチョフの命はないと思っていた。初日にどこに電話しても『知らない、知らない』と言われた」
誰が情報を持っているのか。
佐藤は、クーデター派に近いとみられたロシア共産党のナンバー2、イリイン第2書記にアクセスを試みた。
「電話で話す内容ではない」
イリインは電話口でこう答えた。
佐藤はここでピンときたという。イリインは安否を知っている。
話せるような状態になったら深夜でも未明でもいつでも連絡をほしいと伝えた。
すると翌日、連絡がきた。

「実は公電に書かなかったことがある。『ゴルバチョフを殺したのか?』と聞いたら、首を横に振った」
その後イリインから聞いた話は、今回公開された文書でも明らかになった。
核心となるゴルバチョフの生存確認はどう行われたのか。
「『ゴルバチョフは生きているか』と言ったら『生きている』と。病気によって執務不能だというので、何の病気かと聞いたら『RADIKULIT(ラジクリート)』と言うんだ」

この時、佐藤は「RADIKULIT」という単語の意味を知らなかった。
メモをとることが許されなかったため、単語を記憶した。
大使館に戻って辞書で調べ、初めて「ぎっくり腰」という意味だと分かったと言う。

核心に迫る情報を得た心境について、佐藤は「間違えることができないので、自信のある情報を送った。早く正確な情報を送るのに必死だった」と振り返った。
そのとき日本では
こうした現地からの情報を外務省はどのように受けていたのだろうか。
外務省のソ連課長・東郷和彦は、ゴルバチョフ生存の一報に接した時の状況をこう回想した。

「少なくともあの電報を読んで把握した時点では、すごいなと。生存情報が確認されたという意味では初めての情報なので」
これに加え東郷は、佐藤の報告書のゴルバチョフ生存確認以外の部分に注目した。
いわゆる民主派に策動の余地を与えてしまった。この1日、2日に情勢の帰すうが決定される。今次政治闘争は国家が崩壊するか否かの決戦とみている
そこにはクーデター派に近いとみられた、イリインの情勢分析がしたためられていた。
「クーデターがもし成功すれば、その政権としばらく付き合わなければならないので、どこまで続くか慎重に見極めて判断する必要があった」

日本政府は、直後に外務省幹部をモスクワに派遣。
ゴルバチョフとエリツィンの力関係などを見極めながら外交戦略を立案していった。
事件のあと、ゴルバチョフの権威は失墜し、エリツィンとの力関係は逆転した。
これをきっかけに共産党は解体し、ソビエトの崩壊へとつながる。
ロシアのウクライナ侵攻への伏線
一方、公開された文書では、ロシア共和国大統領・エリツィンが市民の先頭に立って事件を鎮静化したことを踏まえ、ソビエトを構成していたウクライナやカザフスタンをはじめとする共和国が、ロシアの権限や領土の拡大を懸念していたことも明らかになった。
事件からおよそ1週間後の8月26日に、エリツィンの報道官が、ソビエトから独立する共和国に対して国境の見直しを提起する声明を出した。
公開された文書には、ウクライナ最高会議議長のクラフチュクが、エリツィンの報道官の声明に対して記者会見で述べた内容も記されている。
「領土要求は非常に危険で、どんな場合でも人々の大きな困難につながる」
また、27日のカザフスタンのナザルバエフ大統領と日本のソビエト大使の枝村純郎との会談記録にもロシアへの警戒感が見て取れる。

「ロシア以外の共和国としては、ロシア・ナショナリズムに大きな懸念を表明している。大変危険な動きである。彼らは非憲法的な勢力と闘っておきながら、今度は自らが非憲法的な行動をしている。一体、民主主義はどこへ行ったのであろうか。おとといウクライナが完全独立を宣言したが、かかる動きを反映したものだ」

「ウクライナの独立は連邦に対してではなくロシアに反対するという趣旨か」
(ナザルバエフ)
「友人として極めて率直に述べるが、まったくその通りだ。ウズベク共和国も完全独立宣言する模様である。これはすべてロシア人が中心になっているロシア・ナショナリズムに対する反動である」
ナザルバエフは、枝村との会談でエリツィンの報道官の国境見直し声明について「何の相談もなかった。恐るべき発言だ」と強い不快感を示している。
およそ30年前のウクライナなどソビエト構成国の懸念について、日ロ関係が専門の法政大学名誉教授の下斗米伸夫はこう指摘する。

「文書の1つ1つの中に、実はものすごい葛藤があることが見えてきた。権力関係が変わることによってロシアが台頭してくる恐怖といったものも出てきて、立体的にポストソ連をどうするかという大問題の出発点となっている」
民族や言語が異なるソビエトを構成した共和国間のパワーバランスが変化すれば、ソビエト崩壊後の事態が複雑化するという直感を、ウクライナやカザフスタンの指導者たちが30年前に抱いていたことは、今のウクライナ情勢を考える上で示唆に富むものだ。
「ソビエトでは、建前ではウクライナとロシアは平等の『行政機関共和国』だったが、ロシアが巨大な国家になると、一種の大ロシア主義に見える。国境線をどうするかという問題が端緒的に出始め、今のウクライナ問題に連なる伏線になっていく」
外交文書を取材して
今回、外務省が公開した外交文書は、ソビエトのクーデター未遂事件などに関する記録など1991年に作成された6877ページで、あわせて19のファイルに収められている。

何日もかけて読み込み、専門家や当事者に話を聴いた。
モスクワでゴルバチョフ生存の一報をとった佐藤へのインタビューでは、後日談も聞くことができた。
その内容はこうだ。
クーデター未遂事件から1か月後、佐藤はイリインと会い食事をした。
その時、ゴルバチョフが生きているという情報を、なぜ西側陣営の外交官に伝えたのか尋ねたという。
「彼(イリイン)は『人間は危機的な状況になると、真実を誰かに伝えたいという欲望が出てくる。君には本当のことを言っておきたいと思った』と言われた。ずっと記憶に残っている。外交の世界も人間のドラマだ」
物事が動いているときは、1つ1つの発言に隠された本当の意味や、全体像が見えにくいことも多い。これは、記者として取材をしていても時として感じる感覚だ。
だからこそ、時には立ち止まって振り返ることや、過去に時間を戻して今を俯瞰してみることも必要ではないか。
国益のために動き、歴史を動かそうとする者。目の前で起きていることを憂い、打開しようという者。それをいち早く正確に把握し、記録し伝える者。
外交文書に記されているのは、そんな人たちが奔走してきた人間ドラマであり、史実として明らかになっているのは、ごくごく一部にすぎない。
今、ロシアによるウクライナ侵攻などで国際秩序がゆらぎ、外交の重要性がこれまで以上に高まっていると言われている。この瞬間も世界各地で繰り広げられるさまざまな外交の人間ドラマに肉薄できるよう、これからも取材を続けたい。
(肩書は当時、一部敬称略)

- 政治部記者
- 森田あゆ美
- 2004年入局。佐賀局、神戸局などを経て政治部。外務省クラブでアメリカやヨーロッパなどを担当。