国とは、なんですか

「民族的な意味では、日本が父祖の国ではありますが、私の国籍はアメリカであり、私の祖国はアメリカ合衆国です」
「忠誠を疑われたり、試されたりすることなく、一つの国、一つの旗に忠誠を尽くすことが出来れば、どんなに倖せかと思います」

山崎豊子の小説「二つの祖国」の一節だ。
アメリカ生まれの日系2世が太平洋戦争の時代に、日米二つの祖国の間で苦悩しながら生きる姿が描かれている。
この夏、外務省の担当記者となった私が、河野外務大臣の同行取材で初めて出張したのは、アメリカのハワイと西海岸。そこでの主な目的は、「日系人」に会うことだという。
「日系人」ーー正直、私には遠い存在だった。「二つの祖国」の文庫本と、ビデオカメラを手に、飛行機に乗り込んだ。
(政治部外務省クラブ 小泉知世)

祖国と祖国のあいだ

どこにでもいる家族の姿。ただ、その写真が撮影されたのは、アメリカだ。

現在、アメリカに住む日系人は130万人余り。
その歴史はちょうど150年前の1868年、約150人がハワイに集団移住したのが始まりだった。その後もハワイや西海岸を中心に日本からの移民は増えていった。

転機は、太平洋戦争の開戦。
「敵性外国人」ーー約12万人が強制収容所に移された。

一方で日系人部隊も編成され、ヨーロッパ戦線で多くの命が失われた。
情報機関で日本軍の情報分析などに当たった日系人もいた。

サンフランシスコで、河野大臣と面会した90代の男性。
彼も、戦時中はアメリカ軍の情報機関で任務に当っていた。

戦後、日本で暮らす親戚と再会した際にかけられた言葉に衝撃を受けたという。
「広島で再会した叔母の最初の言葉は『なぜあなたたちはピカドン(原爆)を落としたのか』だった。何も答えられませんでした」

国と国との間に挟まれて思い悩んだ記憶は、いまも男性の頭から離れない。
「二つの祖国」で描かれている光景と重なった。

それは、重要なことじゃない

最近は8世も生まれているアメリカの日系人。
時の流れとともに指摘されるのは、日本との関係が希薄になりつつあることだ。

場所は変わってハワイ。河野大臣と意見交換をした10人余りの大学生たちも、多くは4世や5世だ。

「親戚を尋ねて日本によく行く」という人もいれば、「日本語はほとんどわからない」と答える学生もいた。

後日、河野大臣と面会したジョシュア・フクモトさん(25)に話を聞いた。

日系4世で農業を専攻しているジョシュアさん。親族の多くは日系人だ。
「家族どうしの会話は英語です。でも、幼いころには簡単な日本語を使うこともあったので少しはわかります。日本食の文化は残っていて、父はカレーを作るし、トンカツも好きですよ」

日本に行ったことは。
「僕自身が日本に行ったのは、ことし6月に一度だけ。東京の浅草やお台場を観光して本当に楽しかった」

自分や友人が日系人であること意識したりしますか。
「ハワイでは多くの人が日系の祖先を持っています。でも同時に、ハワイ、中国、フィリピンなどさまざまな人種の『ミックス』である人が多い、それが自然です。話題にのぼることはあっても、僕たちの中では、すごく重要なことではない」

世代交代が進む日系人

ジョシュアさんのような人たちは増えている。

アメリカの国勢調査では、2010年の時点で日本人とほかの民族との間に生まれた子孫だと答えた人は全体の41%にのぼり、2000年の時点と比べて増えている。

また、日系人社会を研究している団体が、2011年にアメリカやブラジルなど12か国で実施した調査では、英語を主に使う日系人のうち日本を一度も訪れたことのない人は2割に上り、「訪れたことがある」と答えた人でも、その回数は「1、2回」が最も多い。

移民研究が専門の、上智大学の飯島真里子准教授によると、こうした傾向はいまも続いているという。

高まる中国系、韓国系の存在感

こうした中、アメリカ社会での存在感を増しているのが、中国系や韓国系のアメリカ人だ。

去年サンフランシスコ市では、中国系アメリカ人の団体などが慰安婦問題を象徴する少女像を設置し、当時の市長が受け入れを承認した。

この承認には中国系や韓国系の住民らによる働きかけが影響したとみられている。
いま、アメリカの韓国系住民の多い地域では、こうした動きが相次いでいる。

河野大臣が、日系人との関係強化を図ろうとする背景には、こうした実態への危機感もあるのだ。

中国系や韓国系の移民は、日系よりも本国との結びつきが強いという指摘もある。
新しく移り住む住民が今も増え続けていることがその理由だという。
先のアメリカの国勢調査では、中国系や韓国系の住民はともに10年前と比べて約4割増えている。
一方、日系人は1割余り増えてはいるが、日本からの新しい移民は増えていない。

移り住んだばかりの住民が多い方が本国とのつながりが深いのは当然かもしれない。

移民の歴史を知っているのか

物理的にだけでなく、心理的にも距離が離れつつある日本と日系人。
飯島准教授は、「若い日系人にとって日本が遠い存在になるのは、ある意味、仕方がないことです」と言い切る。

「彼らに日本に関心を持ってもらう前に、日本人が彼らの歴史や現状に目を向けるべきではないでしょうか。
日本の教育では、移民の歴史が日本史の一部として認識されていません。ハワイには多くの日本人観光客が行っても、真珠湾攻撃の時にハワイの人口の4割弱が日系人だったことを知る人は少ない。
それを打開しない限り、日本人にとって日系人は『外国人』であり、日系人にとっても日本は『外国』のままです」

少年が大臣になってすること

それにしても今回の外遊は、あちこちとよく動き回るものだった。その理由の一端が、ロサンゼルスでの締めくくりのスピーチでかいま見えた。

「13歳の時、初めての海外旅行でロサンゼルスに来た。そこで一緒に過ごしたのが、父の友人の日系人夫婦だった」
アメリカ文化にカルチャーショックを受けた河野少年は、その後も彼らとの交流を続けた。

そして少年は国会議員に。日系人の若手リーダーを日本に招くプログラムで懇親会のホストを務めたほか、訪米時には日系人議員らとの交流も欠かさないという。

あの時から40年余り、彼は外務大臣になった。外遊を重視する大臣だが、外務省の幹部によると、今回は特別に強い思い入れがあったという。

スピーチの最後、彼はこう締めくくっていた。
「日系の移住者の方々が乗り越えてきた歴史やアメリカ社会で勝ち得た信頼を、日本人も広く知る必要があると思う」

それは、飯島准教授が言うこととも重なる。こうした外遊を、その思いの実現につなげるには、日系人と会うだけではなく、次の一歩が重要だろう。

久しぶりに会った親戚でも…

恥ずかしながら私も、今回の取材にあたるまで、日系人の歴史はほとんど知らなかった。距離が離れれば縁遠くなるのは当然かもしれない。

けれど、現地で出会った日系人たちは、久しぶりに会った親戚のように、誰もが親のルーツや行ったことのある日本の地名を嬉しそうに話してくれた。

疎遠だった親戚も、久しぶりに便りがくれば、またつながる。

大事なのは遠くにいる『親戚』を忘れないこと、そして手紙を送るようなことに似た、小さなきっかけなのかもしれない。

政治部記者
小泉 知世
平成23年入局 。青森局、仙台局を経て政治部へ。現在、外務省担当。