尖閣諸島国有化を決断した夜
~巨大な隣国とどう向き合うか~

野田元首相と石原元都知事と尖閣諸島

日本が中国と国交を正常化してから50年。この間、中国経済はめざましい発展を遂げ、日本を抜いて世界第2位の経済大国となった。近年では軍備を増強させ、覇権主義的な動きを強めている。
野田元総理大臣と石原元都知事が沖縄県の尖閣諸島の購入について意見を交わし、国有化してからは10年がたつ。
この巨大な隣国とどう向き合っていくべきか、当事者の証言を交えながら50年を振り返り、未来の関係のあり方を考える。
(吉岡淳平)

日中国交正常化 改革開放 モデルは日本

1972年9月29日、北京の人民大会堂。当時の田中角栄総理大臣と中国の周恩来首相が「日中共同声明」に署名し、国交正常化が実現した。

日中共同声明への署名

当時、中国は、まだ「文化大革命」のさなか。激しい政治闘争で社会は混乱し、経済は大きく立ち遅れていた。

文化大革命が1976年に終結すると、中国に大きな転機がおとずれる。失脚していた鄧小平が復権し、1978年に国策を大転換。
市場経済の考え方を取り入れた「改革開放」政策にかじを切ったのだ。

新幹線に乗る鄧小平氏
発展のモデルは日本だった。政策転換の表明を前に日本を訪れた鄧小平は、新幹線に乗車したほか、自動車メーカーの工場も視察し「近代化とは何かが分かった」と述べた。

“チャイナスクール”がみた改革開放

こうした中国の動きを日本はどうみていたのか。中国語を専門とする、いわゆる「チャイナスクール」として、中国課長や中国大使を歴任した元外務官僚の宮本雄二は、鄧小平の訪日の狙いをこう分析する。

元外務官僚の宮本雄二氏

「鄧小平さんは日本を現代化を教える材料にしたんです。東京の街の雰囲気や、自身が新幹線に乗る映像などをすべて意識的に中国で流し『現代化したあとにはこういう世界が待っているんだ』ということを教える材料に、アメリカではなく日本を使った。この時の日本の姿は中国社会に大きな衝撃を与えました」

対中経済支援 日中蜜月

翌1979年。日本は中国に、ODA=政府開発援助を開始。官民一体となって中国の経済発展を積極的に支援した。
中国経済が発展すれば、進出する日本企業の利益につながり、政治的にも民主化が進むと期待したのだ。

上海の「宝山製鉄所」

日中の企業同士での協力も活発化した。その1つが製鉄業だ。
当時の新日本製鉄は、鄧小平の依頼に全面協力し、上海に「宝山製鉄所」を建設した。中国建国以来最大とも言われた建設プロジェクトは、作家・山崎豊子の「大地の子」で小説化され、日中友好の象徴となった。

こうした経済協力に加え、中国では、日本のテレビ番組の放送や映画の公開が許可されるなど、80年代前半、日中友好の雰囲気は大いに高まった。当時北京に駐在していた宮本が語るエピソードが象徴的だ。

(元外務官僚 宮本雄二)
「午後8時に日本のテレビドラマ『姿三四郎』の放映が始まると、北京の人通りが消えるんです。みんなが家で視聴して誰も外に出なくなるんですよ。当時の趙紫陽首相が日本の大使と会談したとき、終了後にこう聞いてきました。『大使、きょうの姿三四郎はどんな展開になるんですか』と。それぐらい日本の文化が中国を直撃していました」

暗転 天安門事件

そんな日中友好ムードが暗転する事態が起こる。

天安門事件

1989年の天安門事件だ。
民主化を求める学生や市民に軍が発砲するなどして多数の死傷者が出た。日本の対中感情は一気に悪化した。欧米各国も中国を厳しく非難し、経済制裁などの措置をとった。

分かれた対応 対中融和を示した日本

ただ、その後の日本政府の対応は、欧米各国とは一線を画すものだった。
事件のあと、フランスで開かれたサミットで、中国を厳しく非難する政治宣言の採択を目指す各国に対し、当時の総理大臣・宇野宗佑は、より穏当な表現にするよう強く働きかけた。

サミットに参加する宇野元首相

その結果、宣言には「中国の孤立を避け、可能な限り早期に協力関係への復帰をもたらす条件を創り出すよう期待する」という日本の主張に沿った文言が盛り込まれた。

政府は、翌1990年には、停止していた円借款の再開を表明。中国に手を差し伸べる道を選んだ。
サミットの際は宣言の担当課長、円借款再開の際は中国課長として、いずれも政策決定に深く関与した宮本は、日本の意図についてこう解説した。

(元外務官僚 宮本雄二)
「天安門事件のあと中国国内では『改革開放政策で海外から間違った思想がどんどん入ってきて若者たちを害したから、事件が起きた』という議論が起きた。改革開放政策を改めるべきだという声が強くなり、鄧小平さんの立場が弱くなったんです。そういう時に中国の頭を叩くように非難すれば、改革開放を否定する保守派を後押しすることになる。だから、我々は簡単に制裁をしちゃいけないと対応したんです」

そして、中国を成長させることが日本にとっても重要だったと強調した。

(元外務官僚 宮本雄二)
「日本の対中政策の基本は改革開放の支援なんです。それは何かというと文化大革命の否定なんですよ。新しい、外に開かれ、自分自身を改革していく中国とお付き合いをしたい。改革開放が危機に瀕することは我々にとってマイナスだという判断があったんです」

民主化なき経済発展

このあと各国も制裁を解除し、中国との経済的な結びつきを深めていくことになる。
そして中国は「世界の工場」としてめざましい経済発展を遂げていく。2008年には北京でオリンピックを開催し、2010年にはGDP=国内総生産で日本を抜いて世界第2位の経済大国となった。

一方で、日本が期待したような民主化の進展はみられなかった。むしろ、習近平体制になってからは、権力集中が進み、言論の自由が後退するなど、強権的とも言える動きに国際社会の懸念が強まっている。

対中外交の反省材料を指摘する意見も

経済支援を通じて改革を促すという日本の中国へのアプローチは正しかったのか。
通信社の記者として中国に駐在した経験があり、日本の対中外交に詳しい、北海道大学大学院教授の城山英巳は否定的だ。

北海道大学大学院の城山英巳教授
「当時の外交記録を見ると、北京で事件を目撃した日本の外交官は、民主化要求に厳しく対応する中国政府を支援すれば市民の反発を受ける恐れがあると感じ、中国政府一辺倒、中国共産党一辺倒の対中外交から、政府に懐疑的な民衆や知識人とも関係を構築する外交に転換すべきだと進言しています。しかし、東京の外務官僚は鄧小平氏の支援を続ける方向に進んでいきました」

城山は、このときの日本政府の判断が、現在の強権的な中国の姿勢を助長した面があると指摘する。

(北海道大学大学院教授 城山英巳)
「日本の対中外交の大きな反省材料として、中国共産党の本質を見抜けなかったことがあると思います。国内的には異論を弾圧し、国際的には自分たちが秩序を作らんばかりという、そんな中国を作ってしまった一端は、日本、アメリカ、ヨーロッパにあるのではないかと。人権や民主主義といった普遍的な価値よりも、どうすれば中国が自分たちの望ましい形で発展するかばかりを考えた結果だと思います」

尖閣諸島をめぐって

国力を増強させた中国は、東シナ海や南シナ海への進出を強めていく。

中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突

そして、2010年、沖縄県の尖閣諸島沖の日本の領海内で、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突する事件が起こった。

石原発言の衝撃

こうした中、2012年に尖閣諸島をめぐる事態が大きく動き出す。きっかけは、中国に対する強硬姿勢を貫く当時の東京都知事・石原慎太郎が、4月にワシントンで行った講演での発言だった。

記者会見する石原元都知事

「東京が買うことにいたしました。東京が尖閣諸島を守ります。日本人が日本の国土を守るために島を取得するのに何か文句ありますか?」

民有地だった島を都が地権者から購入する考えを明らかにしたのだ。これが、のちに「国交正常化以来、最悪」とも言われる日中関係の悪化につながっていく。

当時の総理大臣、野田佳彦は、石原発言の前までは、中国との関係は良好だったと言う。

野田元首相

「2012年は日中国交正常化40年で、これからも戦略的互恵関係を深めてウィン・ウィンの関係でいきましょうと、極めていい関係だった。中国は当時、胡錦涛国家主席、温家宝首相の体制で、いろいろな国際会議や2国間会談のときにも極めていい関係だった」

野田は、石原が尖閣諸島の購入に言及した直後から、日中関係が急速に冷え込むのを肌で感じていた。5月に北京で開かれた「日中韓サミット」の際の中国側の対応をこう回想する。

(元首相 野田佳彦)
「特に温家宝首相との2国間会談は、極めて険悪な雰囲気だった。温家宝さんは『核心的な利益』として尖閣を持ち出してきて、従来とは全く違っていた。お孫さんがキティちゃんが大好きだとか、それまで極めてフレンドリーな態度だったのに一変した」

国家主席の胡錦涛とは会談もセットされなかった。

(元首相 野田佳彦)
「韓国との会談はセットされたのに、私との会談はセットされなかった。それぐらい相手は尖閣を意識していた。国交正常化40周年なのに、相当、雲行きが悪くなってきたことを意識した」

政府としてどう対応すべきか。
石原は、島の近くに漁船が避難するための船だまりを作るなど、大幅な現状変更を主張していた。このため野田は、都が購入すれば中国との緊張がさらに高まる恐れがあると考え、島を国有化する検討に着手した。

(元首相 野田佳彦)
「中国の対応が極端に変わったことなどを含め、政府としてどうしようかと。歴史的にみても国際法上みても、我が国の固有の領土であるという基本的な考えに変わりはないが、平穏かつ安定的に長期に管理していくにはどうしたらいいのかという観点で、所有権を個人から国に移転するという可能性を探ってみようと」

国有化を決断した夜

政府と東京都は、その後、およそ3か月にわたって水面下で駆け引きを行っていた。
8月19日の夜。野田は総理大臣公邸に石原を招き、ひざ詰めで意見を交わした。
石原との緊迫したやり取りについて、野田がその一端を明かした。

「真夏の夜の午後8時ぐらい。食事は終わってきているという前提でコップに水を入れてお出しした。仲介役として園田博之さん(元官房副長官)もいらした」

この時、石原が明かした想定は、野田には到底受け入れられないものだったという。

「若干抽象的に言うと、石原さんは『日中もし戦わば』というシミュレーションを披露された。私は途中で発言を遮った。自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣の私であって、東京都の行政権の及ぶ話じゃないんだと。そんなシミュレーションの話はやめてくれということを申し上げた」

この瞬間、野田は、尖閣諸島を国有化する腹を決めた。

尖閣諸島

国有化 決断したもう2つの理由

国有化を決断した背景には、さらに2つ、大きな理由があったという。
1つは国内の政局だった。

(元首相 野田佳彦)
「当時、社会保障と税の一体改革を成立させる過程で、谷垣さん(当時 自民党総裁)との会談で、近いうちに衆議院を解散すると申し上げていた。解散してしまえば国有化ができなくなる。政局的にも、やはり自分の代で責任を持って結論を出さなきゃいけないと」

習近平氏

そしてもう1つが、中国の政治状況だった。当時は胡錦涛から習近平へとトップが代わる移行期だった。習政権の発足直後に国有化を行った場合、中国はより態度を硬化させると考え、国有化を急いだという。

(元首相 野田佳彦)
「胡錦涛政権の一番最後の場面でやるのか、あるいは習近平体制ができて意気揚々としている時にいきなり張り手をくらわすようなことをするのか。後者であれば相当、態度が硬化するだろう、選ぶなら前者かなと」

中国側の激しい反発

東京都が購入するよりも影響は小さいとみたものの、国有化後、中国側は激しく反発した。

中国のデモ

反日デモが全土に拡大し、日系のスーパーや工場が略奪や放火にあう事態となった。
日中関係は「国交正常化以来、最悪」と言われるほどにまで悪化した。

国有化の判断は

野田は、当時の判断とその結果について、どう考えているのか。

「どんな選択をしても必ずあとから注文や言いがかりをつけられると思っていたし、いずれにせよハレーションはあるとは思っていた。総合的に判断するとその他の選択肢はなかったと思う」

国有化から10年。
中国は公船による領海侵入を繰り返し、近年では、船の大型化や武装化も進めていて、日本は海上保安庁の体制を強化して警備にあたっている。

中国とどう向き合うのか

経済力、軍事力を増大させた中国は、覇権主義的な動きを隠さなくなっている。
そして、台湾統一に向けて、力による一方的な現状変更に踏み切る、いわゆる「台湾有事」が起きる可能性も指摘されている。

日本は中国とどう向き合っていくべきか。
インタビューした3人に、それぞれの考えを聞いた。

元外務官僚 宮本雄二氏

(元外務官僚 宮本雄二)
「首脳が頻繁に対話をして一定の信頼感を作り上げ、そして政府同士の信頼感を作り上げて危機管理を強化するとともに、協力できるところは協力していく。トータルな対中政策を作っていく必要がある。日中は共存するしかない。我々はもう一度深く考える必要がある」

北海道大学大学院教授 城山英巳氏

(北海道大学大学院教授 城山英巳)
「外務省の中だけで対中戦略を練る時代はおそらく終わっている。もうちょっと幅広い知恵を結集して対中戦略をつくっていくべきだ。経済界、学術界、メディアなどから幅広い知恵を結集し、新たな日中関係の枠組みをつくっていく必要がある」

野田元首相

(元首相 野田佳彦)
「尖閣や台湾情勢も含め緊張感のある関係ではあるが、経済的には世界第2位と第3位の国で、相互に依存しているところもあり、まだまだウィン・ウィンの関係を模索する可能性が残っている。ウクライナの問題で日本がNATO=北大西洋条約機構の諸国と連携しているように、東シナ海・南シナ海の問題で、G7=先進7か国の国々に関与してもらうなどして、中国と向き合っていくことが大事だ」

国交正常化50年の節目に、それぞれの立場で真剣勝負をしてきた人たちを取材し、この巨大で奥深い国と向き合うことの難しさを改めて実感した。私も中国報道に携わる“真剣勝負で向き合う者”の1人として、心は熱く、頭は冷静に、取材を続けていきたい。
(文中敬称略)

政治部記者
吉岡 淳平
1999年入局。横浜局、国際部などを経て政治部で外務省を担当。ワシントンや北京などでの勤務経験あり。