55年ぶり「国葬」実施する意味は?
割れる世論 法的根拠の課題

凶弾に倒れた安倍元総理大臣の「国葬」をめぐり、世論が真っ二つに割れている。
反対理由の1つは「明確な根拠法令がないにも関わらず、政府が閣議決定に基づいて実施を決めた」というものだ。
実は、今回の政府対応は55年前に行われた吉田茂元総理大臣の「国葬」を踏襲している。
当時はどのように行われたのか。その後、なぜ「国葬」が55年間の長きにわたって実施されなかったのか。歴史をひもときながら「国葬」の意味を探った。
(山田宏茂、五十嵐淳、家喜誠也、倉岡洋平)

55年前は “わずか11日後の早業”

吉田氏の「国葬」は1967年10月31日の午後2時から実施された。
1分間の黙とうに続いて、当時の佐藤栄作総理大臣などが追悼の辞を述べた。そして招待された参列者が献花したあと、午後7時ごろまで一般の参列者がおよそ4万5000人続いた。

佐藤氏が、恩師の吉田氏が亡くなったからといって『国葬』にしたわけで、政府が雰囲気を盛り上げようとしたが、国民は『笛吹けど踊らず』という感じがした

こう語るのは、政治評論家の森田実氏だ。
当時35歳だった森田氏は、出版社の編集者として寝る暇も惜しんで働いていた。「国葬」当日は、職場で黙とうをささげることもなく、ふだんどおり過ごしていたという。

1967年10月20日に吉田氏が亡くなると、当時の佐藤栄作内閣はその3日後に臨時閣議で「国葬」の実施を決定。それから8日後の31日に今回と同じ日本武道館で実施した。

森田氏は、反対の世論がさほど強かった印象はない一方、「国葬」への機運も盛り上がらなかったと証言した。

早業でやっちゃったので。今回と違い、反対のうねりが大きくなる間もなく『国葬』が行われた。自分で言うのもなんだが、意識が高い私ですら、当時は明確な法的根拠がないという認識もなかった

公文書にも残る法的根拠の課題

翌1968年、政府がまとめた「故吉田茂国葬儀記録」。
およそ300ページにわたる公式記録には、会場の写真や図面なども掲載されている。


記録には「国葬」実施の理由が記されていた。10月23日の閣議決定後に発表された総理大臣談話だ。
7年あまりという総理大臣の在任期間に加え、戦後復興をリードしてきたという実績を理由に挙げていた。

7年有余の長きにわたり国政を担当され、強い祖国愛にねざす民族への献身とすぐれた識見とをもって、廃墟と飢餓の中にあったわが国を奇蹟の復興へと導かれたのであります

また「国葬」の法的根拠をめぐる記録も残っていた。

昭和22年(1947年)に国葬令が失効したため、現在では法律的にも制度上にも国葬についての規定がないので、短時日であったが国葬儀に踏み切るまでには、あらゆる角度からその是非が検討され(た)

では、法的根拠が課題となる中、「国葬」を実施するにあたって、なにを参考としたのか。
1951年に実施した貞明皇后(大正天皇の后、当時は皇太后)の大喪儀だ。国葬令が廃止され、直接的な法的根拠を失っていた皇族の葬儀を、閣議了解に基づき、国費を使って実施したのだ。記録は次のように結んでいる。

昭和26年(1951年)5月行われた貞明皇后大喪儀の例(閣議了解により執行)もあり、これらを決定のよりどころとして、政府として国費によって葬儀を行うことを閣議決定することによって事実上の国葬を行えるものと結論し(た)

“野党の理解が不可欠”

吉田氏「国葬」の舞台裏を知るのが、当時、園田直衆議院副議長の秘書を務めていた平野貞夫元参議院議員だ。吉田氏が亡くなった1967年10月20日の午後3時前後、外遊のためフィリピン・マニラに滞在中の佐藤氏から園田氏に電話がかかってきたことを今も覚えているという。

引き継いだ電話のそばにいたが、佐藤氏の大きな声が受話器から漏れ聞こえてきた。『いまは国葬の制度がなく超法規で対応するしかない』『野党を説得すればできる』

法的根拠に課題があることを知り尽くしていた佐藤氏だからこそ、閣議決定で「国葬」を実施するには、野党の理解が必要不可欠だと考えたのではないかと、平野氏は推察する。

当時国会は閉会中だった。時間がなく、国会で決めるのは難しかったため、それに代わる非公式なもの、国会に準ずるものが必要だった。野党を含めて理解を得られれば、多くの人が納得したということになる。それを佐藤氏は『超法規』と表現したのだと思う

なぜ佐藤氏は、吉田氏の「国葬」に踏み切ったのか。
その背景として、吉田氏の功績を内外に広く伝えるとともに、葬儀委員長として「国葬」をつつがなく取りしきることで、みずからの存在感をアピールし、政権基盤の安定化につなげたいという思惑があったのではないかという見方もある。

法的根拠・基準めぐり国会審議も

吉田氏の「国葬」は、当時の社会党や民社党、それに公明党といった野党からの一定の理解を得たうえで実施された。

ただ「国葬」を実施したあとも、個々の野党議員から「『国葬』実施の法的根拠や基準があいまいだ」といった批判が相次いだ。

国会会議録を調べると、「国葬」の翌年に開かれた衆議院決算委員会で、当時の総理府総務長官が、法整備に懐疑的な見解を示す一方、当時の大蔵大臣が、国費を使うにあたっての基準を設ける必要性に言及していた。

国葬儀につきましては、ご承知のように法令の根拠はございません。私はやはり何らかの基準というものを作っておく必要があると考えています

「国民葬」経て「内閣・自民党合同葬」へ

しかし基準はつくられないまま、55年間「国葬」は実施されなかった。なぜか。

歴史学が専門の中央大学・宮間純一教授は、吉田氏の「国葬」から8年後の1975年に佐藤氏が亡くなったときの対応が転換点になったと指摘する。

佐藤氏も『国葬』にしようという話は自民党内にあったようだが、吉田氏のときとは違って野党も反対した。やはり明確な法的根拠がないというのが一番の原因になり、正式な協議の前に取り下げ、少しスケールダウンした『国民葬』にした

「国民葬」とは、内閣と自民党、それに国民有志が共同で実施するという形式。「国葬」の法的根拠が再び課題として挙がったため、実施に至らなかったというのだ。

その5年後の1980年には、大平正芳総理大臣が現職のまま亡くなる。このときは「国民葬」から「国民有志」を抜いた「内閣・自民党合同葬」として実施することに決まった。そして、その後は「合同葬」の形式が続くことになる。

大平氏も、最初は『国民葬』にしようという話があったようだ。ただ『佐藤氏に比べれば在任期間が短い』などといった話が出た。そこで『内閣・自民党合同葬』という穏当なものにしようとなった

実施されなかった背景に“価値観の多様化”

他方、過去にさかのぼれば、明治維新から終戦までの間には、岩倉具視に始まり、伊藤博文や山県有朋など、天皇と皇太后を除いて20人ほどが国葬の対象になったという。

宮間教授は、このうち、戦中の1943年に実施された山本五十六の例などを挙げ、国葬が国威発揚のために利用されてきたと指摘する。

山本五十六の国葬は、行くところまで行ったという意味でとても象徴的だと思う。明らかに戦争動員のために利用された。本来的に国葬というのは、国が世論を1つの方向にまとめていくための機能を持っている。そういう意味で、そもそも『国葬』は民主主義になじまない

そのうえで、この55年間にわたって「国葬」が実施されなかったのは、戦後、価値観が多様化していったことが背景にあったと指摘する。

戦前であれば、天皇に尽くしたかどうかが最大の基準で、天皇に認められればよかった。ただ戦後は価値観が多様化し、どんな聖人君子が現れても反対する人は出てくる。慣例を崩し、政権運営を難しくしてまで『国葬』を実施しなければいけないほどの理由が見いだせなかった。価値観の多様性を大事にする社会ではできないということだ

国民の“弔いたいという感情”も

では、海外ではどのように国葬が行われているのか。そして、国民には広く受け入れられているのだろうか。

葬送文化が専門の聖徳大学・長江曜子教授によれば、海外で国葬の対象とされるのは、国家元首が多いという。例えば、アメリカでは大統領経験者が、イギリスでは先日行われたエリザベス女王のように王室が対象になる。

ただイギリスでは、万有引力の法則を発見した科学者のニュートンや第2次世界大戦を勝利に導いたチャーチル元首相なども、さらに、例えばジャマイカでは「レゲエの神様」として知られるボブ・マーリーが、ブラジルではF1の伝説的なドライバーで、レース中に事故死したアイルトン・セナが国葬の対象になった。

大きな功労があり、その国を世界に知らしめた人、なおかつ、政治的な意味ではなく、国民に愛されている人が亡くなったときに、国民の弔いたいという自然な気持ちが国葬という形にあらわれる

長江教授は、今回の「国葬」への賛否は明言しなかった。ただ、国葬といえども、政治的意図だけでなく、その背景には、必ず亡くなった人に対する弔いたいという国民の思いがあると指摘した。

同時代を生きてきた者として、大きな功績に対し、自然に手を合わせたいと思うような感情というのは世界的に共通だ。これは、人間が本来持っている自然な感情で、動物にはなく、そこにある種の大切なものがある

55年を経て解かれた封印

この秋に国葬儀の形式で、安倍氏の葬儀を行うこととする

7月14日、岸田総理大臣は、安倍氏の「国葬」を実施すると表明した。戦後、総理大臣経験者の「国葬」が実施されるのは、吉田氏に次いで2人目。実に55年にわたる「国葬」の封印が解かれた瞬間だった。

当初、政府・与党内では「国民葬」の実施も選択肢として検討されたという。ただ閣議決定に基づいて「国葬」を実施することについて、「内閣府設置法にある内閣府の所掌事務に『国の儀式に関する事務』が明記されており、法的にも問題ない」との見解が、内閣法制局から示されたことを受けて、保守派への配慮もあり「国葬」の実施に踏み切ったとされる。

安倍氏が亡くなったのは、7月8日。2日後の10日には、参議院選挙の投票が行われ、岸田氏は勝利を手にした。さらにその2日後の12日には、安倍氏の葬儀が行われた。
銃撃に対する動揺、選挙の勝利による高揚、さらには葬儀に伴う厳粛な雰囲気が折り重なる中、6日間という短期間での決断だった。

ただ時間が経過するにつれ、「国葬」実施への反発は強まっていった。

“掘り返した分断” 癒やせるか

『パンドラの箱』を開けた。眠っていた安倍氏への評価などによる政治的な対立を起こし、分断を掘り返してしまった

政治過程論が専門の神奈川大学・大川千寿教授は、各社の世論調査を見れば、世論の分断は明らかだと分析した。

世論調査で、あるテーマへの賛否を尋ねる場合、「どちらかといえば賛成」「どちらかといえば反対」といったような中間的な回答が多くを占める「山型」の分布になるのが一般的なのだという。一方で「国葬」については、明確な「賛成」「反対」が多く、世論が「谷型」の分布になっているというのだ。
そして、こうした分断を乗り越えていくことこそが岸田政権に求められると指摘する。

岸田氏は、みずからがもたらした分断を癒やすことが求められる。自身では『原点にかえる』と言っているが、これまでとは違い“対話”や“互いの尊敬”を前提とした民主主義を追求する、そしてそれを自分自身のことばで語りかけていくプロセスが求められる

意思決定過程の説明を

安倍氏は、十分に政治的評価が定まらないまま亡くなった。
そして岸田氏は55年前の1つの前例を踏襲するかたちで、今回、短期間で「国葬」の実施を決断した。

いまの世論が二分されている状況は、「国葬」の実施後、時間が経過すれば解消されるのだろうか。そして「国葬」の封印を解くという岸田氏の決断は、適切だったのだろうか。
政府には、「国葬」実施を意思決定した過程についても、より詳しい説明が求められる。

政治部記者
山田 宏茂
2015年入局。横浜局、社会部を経て昨秋から政治部。現在は法務省の取材を担当。
政治部記者
五十嵐 淳
2013年入局。横浜局、山口局、広島局を経て政治部。官邸クラブ2年目。趣味はゴルフ。タイガー・ウッズにサインをもらったのが自慢。
政治部記者
家喜 誠也
2014年入局。宇都宮局、仙台局を経て政治部。官邸クラブ2年目。鋳物ホーロー鍋を使った無水調理に挑戦中。
社会部記者
倉岡 洋平
2010年入局。松江局、青森局、札幌局を経て2019年から社会部。現在は事件全般及び公正取引委員会の取材を担当。