“クーデターだ…”
日本医師会中川会長 突然の退任表明

日本医師会のトップ、中川俊男。2年に1度の会長選挙が迫る中、立候補の表明から一転して、断念に追い込まれた。
前回の選挙で、4期・8年にわたって会長を務めてきた横倉義武を僅差で破って就任した中川。
なぜ1期で退任を余儀なくされたのか?
(大場美歩)

“分断回避”中川会長が立候補断念

「このままでは激しい選挙戦になることは必至だ。日本医師会全体の分断を回避し、一致団結して夏の参議院選挙に向かうことができるのであれば本望だ」

5月23日、日本医師会の会長、中川俊男は、およそ1か月ぶりに記者会見を開き、報道陣の前に姿を現した。組織の分断を回避する必要があるとして、6月に行われる会長選挙への立候補を断念し、今期かぎりで退任する意向を表明した。

記者会見する中川会長
原則、週1度のペースで記者会見を続けてきた中川だったが、大型連休前の4月27日を最後に、記者会見は取りやめになっていた。中川は、この3日前の5月20日に新型コロナ対策を検証する政府の有識者会議に出席した際にも、報道陣の取材を避けるように会場を後にした。

立候補の決意 文書で送付

さかのぼること2か月。

「ウィズコロナからポストコロナ時代の医療のあり方を日本医師会として政府に提言するという重大な使命を負っている。新たな決意をもって、全国の医師会の先生方と共に進んでいきたい」

日本医師会の臨時代議員会

3月27日に開かれた日本医師会の臨時代議員会で、中川は“新たな決意”ということばを使って、再選に向け立候補に意欲を示した。

そして、大型連休明けの5月9日には、全国の都道府県医師会の代表らに、立候補の決意を示す文書を送った。

「コロナ禍を乗り越え、ポストコロナ時代のあるべき医療の姿の道筋をつけたい。私は次期会長選挙に立候補する決意を固め、ここに表明します」

それなのに、なぜ中川は立候補を断念せざるを得なかったのか。このあとの2週間に何が起きたのか。

日本医師会・会長選挙とは

日本医師会は、17万人を超える全国の開業医や勤務医でつくる業界団体だ。医療行政をつかさどる厚生労働省や、いわゆる「厚労族」の国会議員に強い影響を及ぼしてきた。

会長の任期は2年で、会長選挙は2年に1度行われる。
今回は、6月4日に立候補の届け出を締め切り、25日の定例代議員会で都道府県医師会の代表ら376人の代議員による投票で新しい会長が選ばれる。

「厚労族」議員の1人は「一定の収入に加え、地域でも社会的地位のある医師が、さらに名誉を求めて争うのが会長選挙だ。自民党の総裁選挙などと同じく、公職選挙法にも縛られないため、ありとあらゆる手段で多数派工作が繰り広げられる」と解説する。

前回は“大物”破り 会長就任

2020年6月27日、コロナ禍で行われた前回の会長選挙。
政権との関係が深く、4期・8年にわたって会長を務めてきた“大物”の横倉義武を、組織を2分する激戦の末に破って就任したのが中川だった。
政府・与党と一定の距離を取りながら、医師会の主張を実現すると訴えた。

中川は、札幌市で脳神経外科病院を運営する医療法人の理事長。副会長を5期・10年務め、政府に対しても言うべきことは主張する、舌ぽう鋭い政策通として知られていた。

選挙後の記者会見では、新型コロナ対応について「政府に対して言いづらいこともはっきり申し上げていくことが、今までと少し違うと思う」と述べ、独自色をのぞかせた。

政府・与党とは“是々非々” 批判も

その5日後、中川は総理大臣官邸で安倍総理大臣(当時)と面会した後、政府・与党との距離について質問されたのに対し「これまでも是々非々だったし、真正面から深い議論をしていきたい」と述べた。

そして、中川は11月18日の記者会見で、政府による観光需要の喚起策「Go Toトラベル」と感染との関係について「経過や感染者が増えたタイミングなどを考えると、間違いなく十分に関与している」と発言。「Go Toトラベル」に否定的な認識を示した。これに対し、与党内からは「証拠がないのに断定している」と批判が噴出した。

また、政府が全力を挙げて取り組んだ東京オリンピック・パラリンピックの開催についても、選手団の受け入れなどに伴って医療崩壊が起こることに懸念を示し、緊急事態宣言の発出を求めるなど、政府の考え方に異論を唱える場面も相次いだ。

新型コロナ対策で問われたリーダーシップ

ただ、感染が拡大し、民間の医療機関による患者の受け入れやワクチン接種への協力が思うように進まなくなると、国民の厳しい目は日本医師会に対しても向けられるようになる。

中川は、日本医師会のすべての会員に対し、新型コロナの患者の受け入れや往診などを要請したものの、反応は鈍かった。
組織の内外からは「国民に向けた発信は熱心だったが、地域の医師会に頭を下げて回るような姿は見られなかった」「組織全体として、現場で何が起きているのかを把握できていなかった」という厳しい評価が聞かれた。

相次ぐ週刊誌報道 パーティー参加で陳謝 会食は釈明

一方で、中川は、2021年4月20日、「まん延防止等重点措置」が適用されていた東京都内で、みずからが後援会長を務める参議院議員の政治資金パーティーに出席。
これが週刊誌に報じられると、その後の記者会見で「多くの人が我慢を続けている中、慎重に判断すべきだった。多くの批判を頂いており、ご心配をおかけし申し訳ない」と陳謝した。

さらに、5月後半には、別の週刊誌の報道も追い打ちをかける。みずからも不要不急の外出自粛を呼びかけていたさなかに、東京都内のすし店で、部下の女性職員と食事をしていたと報じられた。
中川は、直後の記者会見で「食事をした時期やアクリル板がないことを事前に確認していなかったという意味では不十分だった」と釈明せざるを得なくなった。

国民には繰り返し行動の自粛を求めてきただけに、それと矛盾する行動をとっていた中川に対する批判が高まった。

“最大の仕事”診療報酬改定

そして2021年末には、2年に1度の診療報酬改定という山場を迎える。

診療報酬は、患者への診療行為への対価として医療機関に支払われるもので、全国一律の「公定価格」として決められる。その改定は、医療機関にとっては懐事情に直結する最大の関心事だ。
診療報酬全体の改定率は、政府の来年度予算案の編成過程で“政治決着”が図られる。このため、日本医師会の会長にとって、政府・与党との関係が問われる“任期中、最大の仕事”とも言われる。

手腕に疑問符

しかし、その結果には組織内から厳しい意見が相次いだ。
日本医師会が反対してきた「リフィル処方箋」の導入が、決着直前になって盛り込まれたからだった。
「リフィル処方箋」は症状が安定している患者に出され、再診を受けなくても3回を上限に薬局で薬が処方されるというものだ。受診しなくとも薬が処方されれば、患者の負担は軽減され、医療費の抑制につながる反面、医療機関の経営にはマイナスの側面もある。

今回の診療報酬改定を弾みに、再選に向けた地盤固めを図りたかった中川だが、その手腕には疑問符がつく結果となった。

再選 疑問視する声も

診療報酬改定にも携わった「厚労族」議員の1人は、中川との2年間を「政治家とのコミュニケーションが取れていなかった」と振り返る。

(中川会長と横倉前会長)

自民党の「厚労族」の議員に限らず、野党の国会議員やその周辺も含めて幅広いつきあいをしていた横倉と比べると、中川の顔を立てるために“汗をかいてくれる”政治家は少なかった。

また、組織内からは「自分のペースで物事を進めるので、組織内の意思統一が図りづらかった」「自由に意見を言えるような雰囲気がなかった」という声も聞かれた。
中川の一連の行動を、周囲がいさめるのも難しかったことがうかがえる。

ことし夏には、日本医師会が全面的に支援する候補者の参議院選挙が控える。加えて、来年末の診療報酬改定は、少子高齢化の進展に伴い、より厳しい交渉が予想される。
このまま中川体制を継続すべきなのか。組織内では、去年のうちから、中川の再選を疑問視する声が上がり、こうした声は徐々に大きくなっていった。
そして、こうした声は、横倉の耳にも届くようになった。

松本常任理事が大型連休中に決断

それでも少なくとも4月半ばまでは、中川や日本医師会の幹部の間で、再選を前提にした中川新体制案が話し合われていたという。

ただ、会長選挙が近づくにつれ、横倉ら実力者の間で会長交代に向けた動きが表面化する。そして白羽の矢が立ったのが、新体制案で副会長にも名前が挙がっていた常任理事の松本吉郎だった。

松本は、さいたま市で皮膚科や形成外科の診療所を運営する医療法人の理事長。
中川とは対照的に「人の話を聞く」「協調性がある」「労をいとわない」といった評価が聞かれる。

松本のもとには、新会長に推す声が寄せられるようになった。横倉からも「立候補するのであれば、九州医師会連合会として推薦する」というメッセージが伝えられた。

松本は、大型連休中に立候補を決断したと振り返る。
「日本医師会が一致団結していくには、私が適任だといろいろな方から言われた。非常に悩んだが、全国の先生方に後押ししてもらい決意した」

“クーデターだ…”

大型連休明け、松本の動きを察知した中川は、本人に電話で真意をただした。
「再考の余地はないのか」と問われたのに対し、松本は「変わりません」と答えた。

九州医師会連合会を皮切りに、関東甲信越医師会連合会などが、雪崩を打つように松本の支持に回ることを知った中川は、再選は容易ではなくなったと判断し、立候補の断念を決意した。
つい先日までは、副会長として中川新体制を支えることで話がまとまっていた松本の立候補について、中川は周辺にこうこぼした。
「クーデターだ…」

“信頼取り戻す”

「国民や政界・財界など、社会的にも信頼がなくなっているという声がある中、信頼を取り戻さなければいけない」

中川が立候補の断念を表明した翌日の5月24日。松本は記者会見を開き、会長選挙への立候補を表明した。ここで繰り返したのは“信頼”ということばだった。

くしくも会場は、前回の会長選挙で横倉が立候補を表明したのと同じ場所。松本の陣営には、前回、横倉を支援したメンバーに加え、中川を支援したメンバーまでいた。

「組織内の運営などが十分に回っていたかというと、それはどうなのか。政府・与党の先生方とのふだんからのコミュニケーションが大事だ」

中川への評価を問われた松本は、組織内の運営が課題だったと振り返り、政府・与党とのコミュニケーションを積極的に取るべきだと訴えた。

会長選挙は選挙戦に

会長選挙には、このほかに、副会長を務める松原謙二も立候補した。
松原は、大阪府池田市の内科診療所の院長。選挙戦は回避されず、今回も1対1で争う構図となった。

現時点では、全国に8つある地域ブロックの医師会連合のうち、東北、関東甲信越、東京、中部、近畿、九州と6つのブロックからの推薦を受けた松本が優勢との見方が広がっている。

国民のために役割果たせるか?

日本では、国公立や公的な病院よりも民間病院の方が圧倒的に数が多い。
取材を通じて痛感するのは、いくら民間とはいえども、公的医療保険の適用を受ける保険医として診療にあたる以上は、こと新型コロナの感染が拡大していく緊急時に、政府との協力関係を構築しながら、対応にあたる役割が期待されているということだ。

日本医師会は、全国の開業医や勤務医を会員とする業界団体だ。まずは、組織を1つにまとめ上げ、リーダーシップを発揮できるか。また、政府・与党とは適切な距離を保てるのか。そのうえで、医師のためだけでなく、広く国民のために役割を果たせるか。
新会長の手腕が、再び問われることになる。
(文中敬称略)

政治部記者
大場 美歩
政治部記者。新聞社勤務の後、2010年に入局。長野局を経て2020年から政治部。厚生労働省で医療や年金を取材。