異彩の“太陽”
~作家であり、政治家として~

「芥川賞作家」であり「東京都知事」

昭和から今日に至るまで、カリスマ性と強力なリーダーシップで一時代を築いた石原慎太郎が亡くなった。享年89。
時には歯に衣着せぬ発言で物議を醸し、作家、政治家として、国をもリードした行動や言動は枚挙にいとまがない。
石原は、何を目指し、何を遺したのか。
(成澤良、西澤友陽)

「太陽の季節」で一世を風靡

石原のデビューは鮮烈だった。一橋大学在学中の昭和31年、小説「太陽の季節」で芥川賞を受賞。若者の性と暴力を描き、既存の価値観を打ち破るかのような作品に「太陽族」という流行語も生まれ、一躍、文壇の寵児となった。

石原は、昭和の大スター、裕次郎の2歳違いの兄であり、自民党の元幹事長・伸晃らの父親で、一族は「石原ファミリー」と呼ばれた。

息子たちが語る晩年

家族によると、石原は3年前に膵臓がんを患い、去年10月には腹膜にがんが転移。闘病生活を送る中でも、1日1時間から2時間、亡くなる1週間前までは執筆活動を続けていたという。

(長男・伸晃)
「去年12月には、短編小説をとりまとめまして、喜んで『これが俺の遺作だな』と話しておりましたけれども、そのあとも執筆活動を先週までも続けておりました。都知事など政治家としての経験が長い父ではありますけれども、最後まで作家として仕事をやり遂げた」

(次男・良純)
「僕は、石原慎太郎という人は作家だと思っておりました。最後、体が動かなくなっても、短い時間、1時間、2時間ですけど、その時間に、ワープロに向かって文字を打ち続けていた姿は、やっぱり、まさしく文学者なんだなと。まあ、そのぶん、父親としては、かなりユニークな人だったと思います」

政界でも“石原流”

作家・石原が政界に打って出たのは、昭和43年。参議院選挙の全国区に自民党から立候補して300万を超える票を獲得し、初当選。

政治の世界に舞台を移しても、血気盛んな“石原流”は健在だった。
昭和48年に、自主憲法の制定などを唱え、故・中川一郎元農林水産大臣や故・渡辺美智雄元外務大臣らと派閥横断的な政策集団「青嵐会」を結成。

その時のエピソードを、当時、中川の秘書で、今は日本維新の会の参議院議員、鈴木宗男はこう振り返る。
「青嵐会を作ったとき、血判状が1つの話題になりましたね。血判状をやれと言ったのが、石原先生なんです。中川先生は『そこまでしなくてもいいんでないか』と言ったんですけども、石原先生は譲りませんでした。何か事を起こす、歴史を作るというならば、決意と覚悟が必要だと。血判した同志がこぞって初めて事を為せるというのが、石原先生の強い思いで、筋を通すというか、芯があったなというのは、つくづく思いましたね」

国の舵取り役は叶わず

石原は、環境庁長官や運輸大臣などを歴任。平成元年には、総理大臣を目指して自民党総裁選挙に挑むも、海部俊樹に敗北。国の舵取り役となることは叶わなかった。そして、平成7年には、国会議員勤続25年の表彰を受けたその日に「政治が国民から軽蔑されるほど無力になったのは政治家の責任だ」として議員辞職を表明。
石原の言動は、政界でも常に耳目を集めた。

自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香。
石原が自民党総裁選挙に立候補した時に推薦人になって支え、「兄弟」だという亀井は、石原をこう表現する。

「太陽の季節そのものよ。きらきらきらきら燃えまくっていた。彼は現代における『知の巨人』なんだよ。俺も非力だから、彼を総理に押し上げる力が俺になかったから、申し訳ないと思ってるよ」

首都 東京からの挑戦

作家・石原は、議員辞職後、弟・裕次郎の生涯を死の瞬間まで描いた「弟」を上梓し、ベストセラーとなる。

そして、政治の表舞台から姿を消して4年。
「新しい発想と強いリーダーシップで、東京から日本を変える、世界を変えていく」
政治家・石原が次のステージとして選んだのは東京都政だった。

平成11年の都知事選挙に「石原軍団」も参加する選挙戦を展開して圧勝。

首都 東京のリーダーとなった石原は、時代を先取りした独自の政策を打ち出し、波紋を広げた。
その代表例が、有害物質を出すディーゼル車の規制だ。
トラック業界などが反発する中、石原は記者会見で、すすの入ったペットボトルを振り「これを総理大臣も生まれたての赤ん坊もみんな吸っている」と独特の言い回しで訴えた。

石原の都知事1期目を副知事として支えた明治大学名誉教授の青山佾は、このパフォーマンスは石原自身の発案だと明かす。
「印象に残っているのは、やっぱり、あのペットボトルのすす。『こんなすすが、ディーゼル車によって東京中にばらまかれていて、喘息になり、人がバタバタ死んでいる』というような表現をしましたけど、あのすすは、石原さんが見つけてきたんですよ。就任直後に、都の環境研究所に見学に行きたいとおっしゃって、そこで、すすを見つけた。都庁に戻ってから、あのすすをもらってこいと職員に言って、環境研がペットボトルに入れてくれたんです。そしたら、そのペットボトルを机の上にばら撒いて、こんなすすが出ているというアピールをしましたよね。みなさんの印象に残っていると思いますけども、そういった点での表現力は、とてもありましたよね」
元都知事で、石原が都知事時代に副知事を務めた、作家の猪瀬直樹も、東京であり、石原だからこそ実現できた政策だと強調する。

「ディーゼル車の排気ガス規制は、自動車メーカーが反対する。ですから、政府はできないんですね。法律で改正できないから、東京都の条例でやっちゃおうということで、やったんです。東京都の条例でディーゼル車を規制をすると、全国のトラックが東京都を通過しますので、国の法律を変えなくてもディーゼル車の排気ガスの総量が減る。東京から国を変えることができたということですね」

繰り出す新事業

「東京から国を変える」
石原は、次々と有言実行に移していく。

都心の観光名所を駆け抜けるコースで、国内最大規模の市民マラソンとなる東京マラソンを実現。また、金融機関による貸し渋りなどに苦しむ中小企業に融資するため、都が1000億円を出資して新銀行東京を開業した。羽田空港の国際化や東京オリンピックの誘致にも取り組んだ。

石原の対象は外交分野にも及んだ。
中国が沖縄・尖閣諸島の領有権の主張を強めたことから、平成24年には、個人所有だった尖閣諸島を都として購入する考えを表明。購入資金として、都にはおよそ14億円の寄付金が集まった。結局、島は国有化されることになったが、国の外交に一石を投じた。

当時の総理大臣で、石原とも意見を交わした野田佳彦は、石原を、日本の将来を考えていた「国士」と評した上で、決着後の対応が印象に残っているという。
「2012年の8月19日の夜、総理公邸にお招きをして、1時間半、尖閣をどうするか、真剣に、侃侃諤諤の激論を戦わせました。しっかりと実効支配して中国とどうやって向き合っていくかという基本線は一致なんですが、少し方法論が違いましたので、都が所有するよりも国が所有すべきだという決意を改めて固めたという日でした。国が買ったあと、酷評したりとか、足を引っ張ったりということはなく、物事の決着がついたら、それに対応するという姿勢を持っている方だったと思います」

再び国政へ

民主党政権末期の2012年10月。
石原は、「明治以来、続いている官僚制をもう1回シャッフルしたい。大阪にその機運があるので、大阪の仲間と力をあわせてやっていきたい」と述べ、4期目の任期途中で都知事を辞職。

翌月、再び国政に挑むため、元経済産業大臣の平沼赳夫らと共に「太陽の党」を結成した。
その4日後には、当時、大阪市長だった橋下徹が率いる「日本維新の会」との合流を決めた。
「東の石原、西の橋下」の2枚看板で、1か月後に迫った衆議院選挙で、一気に勢力を拡大しようという狙いだった。

現在の日本維新の会代表の松井一郎は、当時、幹事長として合流を実現させた。
松井は、石原には「東京と大阪のトップが1つになることで国を動かしていく」という発想があったと振り返る。

「事前の会談で、石原さんは、『ここは日本のために1つにまとまろうじゃないか』と。石原さんは昭和の政治家なんだけど、まさに時代にあった日本をつくっていく感覚は橋下さんと非常に一致していた。一緒にグループを作ることに対して、石原さんの人間性というか、われわれを受け入れる大きさがあった。その結果、石原・橋下共同代表、僕が幹事長というチームが編成できたんだと思う」

しかし、江田憲司らが結成した「結いの党」との合流をめぐり、党内は対立する。政界再編をにらみ、両党の合流を目指す橋下や松井らに対し、石原や、石原に近い議員らは、「憲法観で違いがある」などとして合流に強く反対。双方折り合わないまま、およそ1年8か月で、石原グループと橋下グループに分党する結果になった。
松井は振り返る。

「石原さんと橋下さんが名古屋で会談して別れることを決めるわけだけど、石原さんは、『橋下君、悪いけど君が新しいグループを入れるなら僕は出て行かざるを得ないんだよ』ということで、非常に短時間で終わった会談だった。矜持というか、譲れない一線の部分で、石原さんは自分のグループを守るために、われわれと袂を分かったのだろうと思う」

石原は、みずからに近いメンバーと「次世代の党」を結成するも、およそ4か月後に行われた衆院選で議席を失い、政界を引退した。一方、橋下と松井は、結いの党と合流し、「維新の党」を結成したが、1年あまりで分裂。いまの日本維新の会へとつながる道を新たに歩むことになる。

「石原さんと別れた当時は、『なんでわかってもらえないのかな』という思いがあったし、改革マインドをもった維新の党でしっかりやっていこうと思ったんだけど、やっぱり、石原さんみたいな人が重しとなっていていただいた方が良かったのかなと、今になればね」

「表面的なことで人を評価しないというのは非常に学ばせてもらったし、正論で言うべきときは言うと。何より先人への敬意は非常に強かった。それは、われわれも見習わないといけないし、石原さんも先人になって、われわれもいつかは先人として扱われるわけだから、いま、自分がいるのは先人のおかげなんだという日本の伝統的なものの考え方の重要性は教えていただいた」

物議を醸す発言も

長年、都政の研究にもあたってきた東京大学名誉教授の御厨貴は、石原を「孤高の人」と表現した上で、物議を醸す発言の数々を作家の宿命とも指摘する。

「最初のうちは、みんな『えー?』と驚いてたんだけど、繰り返すにつれて『これが彼流のやり方か』と、だんだん発言を許してしまった。だから、彼も、何か言われることは覚悟で言ってみて、それが、わーっと大きく取り上げられる」

「彼は、まずもって、作家。『太陽の季節』で大ヒットを生み、彼の運命は、その時点で『世の中に何か物を申す人』『世の中に何かあっと言わせる人』というイメージがついてしまった。政治家・石原慎太郎に、常に作家・石原慎太郎がいて、普通の政治家と違うから、言葉で何か言わなきゃいけないという作家の宿命があって、自分がやったことを言葉で説明しようとすると、政治家の言葉じゃなくて、作家の言葉として出てきてしまう。それがまた物議を醸すのだけれど、その物議を醸すのが彼としては面白いというところがあって、自分を悪く見せて、それで世の中に問うというところがあった感じがします」

先述の猪瀬は、次のように石原の人柄を振り返る。
「根底にあるのは作家としての姿で、『言葉で伝えるのが政治なんだ』という信条を持っていた。表現力のある言葉を使う一方、単刀直入な物言いで、時に失言もあったが、人間味のある人だった」

2つの顔を持って

作家としてのカリスマ性は、政治家・石原の推進力にもなり、批判の要因にもなった。
石原は、平成26年の政界引退の際、作家であり、政治家としての人生をこう振り返っていた。

「今までのキャリアの中で『歴史の十字路』に何度か自分の身をさらして立つことができたのは、私にとっては、政治家としても、また物書きとしても、非常にありがたい、うれしい経験だった。死ぬまでは言いたいこと言って、やりたいことやって、人から憎まれて死にたいと思います」

石原がみずから語った、政治家と作家という2つの顔。

本人が望むように憎まれて亡くなったかはわからないが、人から愛され、時には憎まれ、そして何よりも記憶に残る人物であったことは、疑う余地はないだろう。
(文中敬称略)

政治部記者
成澤 良
2004年入局。神戸局、政治部、首都圏局都庁担当を経て去年11月から再び政治部。2012年衆院選では日本維新の会の石原代表を追った。
大阪局記者
西澤 友陽
2015年入局。前橋局を経て、2018年7月から大阪局。大阪市政、日本維新の会、大阪維新の会を担当。