雨被災地 本音の取材メモ

目の前で、女性が抱き合って泣いていた。見ていることしかできなかった。

発災から4日目、ようやく市長が会見。
「遅いのでは」と指摘しようと思ったが、疲れ果てた顔を見て考えが変わった。

豪雨災害の被災地、そこには、ふだんの政治取材では決して向き合うことがない生の現場があった。政治記者が、最前線で何をし、何ができなかったか、当時のメモをもとに、正直にそのまま取材記の形で伝えたい。
そして「政治」は「災害」に対して何ができるのか、考えてもらえれば幸いである。
(政治部与党クラブ 加藤雄一郎)

広島に入れない

7月7日(土) 

私の仕事を一言でいうと、「麻生番」だ。
与党クラブに所属し、麻生副総理兼財務大臣の派閥の議員の動向と、憲法改正に関する取材をしている。連日、永田町界隈で動き回り、スーツを脱ぐことはない。
そんな私が、西日本豪雨の発生翌日、突然、「広島に応援に行け」と指示を受けた。私が広島局での勤務経験があり、地理に明るく、人脈も残っていることを考えてのことだろう。

羽田から広島に行く航空便を予約したが、欠航になった。
なんだ、と思いながら、もう一度予約、また欠航。
予約しても予約しても、次々と欠航になる。何が起きているんだ。
午後3時ごろ、広島県庁の知人に電話をかけた。なんでも、広島空港と市街地を結ぶ道路が寸断されているため、降り立っても動けないのだという。

午後4時、広島に直接入るのには見切りをつけて、愛媛県の松山空港に向かう便に切り替えた。なんとか松山空港には到着できたが、広島に向かうフェリーには間に合わず、この日は松山市に泊まった。

犠牲者の数さえ、分からない

7月8日(日)

午前7時のフェリーに乗り、広島港に到着した。
NHKの広島放送局に立ち寄ったあと、県庁での取材をするよう指示を受けた。

午前10時に開かれた、広島県の対策会議。
この時点で県が把握した死者数は20人余り。確認された情報が少ない。
県内の市や町からは、「マンパワーが不足している」という情報が相次いで入っていた。確認しようにも、できないのが実情だった。

自分たちでも情報を集めるしかない。このあと局に戻り、取材班のメンバーと自治体などにひたすら電話取材をして、被害の状況を確認していった。夕方までの取材では、広島県内の死者は32人にのぼっていた。

県庁では、広島県の湯崎知事が、いわゆる「ぶら下がり」の取材に応じた。正式な会場をとっての会見ではなく、記者が集まってコメントを取るのが「ぶら下がり」である。政治部記者にとって、これはお手のものだ。

湯崎知事は、私が広島局に勤務していたころの取材先だ。久しぶりに見る顔が、いきなりデジカメを構えて自分を撮っていたからだろう、驚かれてしまった。
この取材で、私が書いた記事がこれだ。

『被災地を視察した広島県の湯崎知事は、県庁で記者団に対し、「多くの災害が全県的に起きており、非常に深刻な状況だ。最後まで諦めずに捜索を続けたい。さらに人員も投入し、救える命を救いたい。崩れた土砂が河川に詰まっている状況や住民の孤立状態を解消するためにも、取りかかれるところから復旧活動に取り組んでいきたい」と述べました』

自治体さえ情報が足りないが、救いの手を必死に伸ばそうとしているから、頑張って欲しい。多くの被災者や、中央の政府や役所にも届いてほしいと書いた。政治部記者の原稿だから、たんたんとしすぎているだろうか。それも承知の上ではあるのだが。

午後9時の県の対策会議では、断水の状況も報告された。断水の復旧には時間がかかる。これだけ広域の災害だと、なおさらだろう。

午後10時、陸路がすべてふさがっていた呉市に行くよう指示された。「現場取材」だ。
政治部の記者になって5年以上になるが、災害の最前線に行くのはこれが初めて。4年前の広島土砂災害、2年前の熊本地震の応援に行っているが、どちらも県庁での情報取材、会見対応などが仕事だった。大丈夫だろうか。

呉支局の記者に電話したら、「水がない」とのこと。2リットルのペットボトル5本を買って持って行くことにした。水には代えられないから、着替えが入った重いカバンは局においておこう。
Yシャツ1枚と下着1枚だけを予備に持っていった。

「初めて」の被災地で

7月9日(月)

午前6時に広島放送局を出た。
広島市南区の宇品港に到着したところ、とても混雑し、行列になっている。よし、この様子を取材しておこう。

乗客のインタビュー取材を試み、5人にお願いしたが…いずれも断られた。
ふと、ふだんの政治部での取材のことを思い出した。ことしで6年目になるが、インタビューを断られるなんて経験はない。相手が「しゃべりたい人」ばかりだからだ。
そんな場所に慣れてしまった私の姿勢は、ここに並ぶ人たちにはどう見えただろう。正直、落ち込んだ。

『宇品港では、呉市内の勤務先に向かうスーツ姿の人が多く見られたほか、水のペットボトルが入った段ボール箱を運んでいる人も見られました。フェリーを運行している会社によりますと、呉市に向けて出発する便は、通常よりだいぶ混雑しているということですが、満席にはなっていないとのことです』

その時に書いた記事だ。やはり水のことが気になる。

午前8時に出たフェリーは、1時間後には呉港に着いた。
呉支局に着き、記者にペットボトルを渡す。これでなんとか支局も維持できるか、と一息ついた。が、実はこの時、呉支局がある地域では水が出ることを知らされた。
「水がない」のは支局記者の自宅とのこと。ああ、そうだったんだね。

正午、陸路がふさがり孤立していた人工透析患者の、海上搬送を取材した。

ここで悩んだのは、人工透析患者の人にインタビューするかどうかということ。病気であることを周囲に知らせることになるのを嫌がる人もいるだろう。そして、朝の取材の時のように断られるのでは…
と、悩んでいたところ、高齢の男性が快諾してくれた。

『水が膝まで来るし、町は大変なことになって、病院に電話も通じず、とても不安でした。こうして迎えに来てもらって、本当に感謝しています』(原稿より)

自分で言うのもおかしいが、実感がこもったインタビューが取れた気がした。
国会で政治家がカメラの前でしゃべる時、建前や見栄が透けて見えて、本心を感じないということも無いわけではない。それに比べると…
インタビューを受けてくれた男性は、なぜか、私に対しても何度も「ありがとう」と言ってくれた。照れくさい。これも、ふだんの仕事ではありえないことだ。

午後2時に、呉市天応西条地区に到着した。
6人の行方が分からなくなった現場は、山あいにある。徒歩で20分近く。道路には水が流れ、川のようになっているので、そこを避けて獣道のような悪路を歩く。

現場では山が崩れ、家が何棟も押しつぶされていた。行方不明の方の家族と思われる人が泣いている。とてもじゃないが、声がかけられない。近くの別の住民に、インタビューを撮らせてもらった。

『実家にいた母親から泥のような臭いと変な音がするという連絡があり、すぐに避難してもらい、無事だった。ただ、同級生の家族は今も連絡が取れておらず、なんとか見つけてほしいです』(原稿より)

日差しは強く、気温は30度を超えていた。立っているだけで滝のような汗。
そんななかで、大量のがれきや土砂を、重機や手作業で取り除く作業が続けられた。

この日の夜は呉支局で取材の打ち合わせなどをして、午後10時ぐらいに宿泊先に引き上げた。夕飯は支局に送られてきたおにぎり。ホテルはシャワーが出た。すぐ寝る。

見ていることしか

7月10日(火)

午前7時に起床。長袖のワイシャツは1着しかない。昨日着たワイシャツを再び着る。においは…まだ気にならないか。

この日も呉市天応西条に。取材をしていると、1人が遺体で見つかったとの情報。同行していたスタッフによると、昼用の原稿を書いている間に、目の前の道を運ばれていったようだ。気づかなかった。

トイレを借りに、公民館に立ち寄った。目の前で40歳前後の女性が泣きながら抱き合っていた。連絡が取れず心配していた家族の再会のようだ。
政治部では、こういう生の感情が現れる場面は少ない。正直に言うと、面食らって、見ていることしかできなかった。

この日も気温は30度を超えた。汗が止まらない。長靴の中、2日目の靴下が気持ち悪い。遠く広島局に置いてきた着替えのことが頭をよぎる。

午後3時、断水が続く中、水が出る市中心部のコインランドリーが混雑しているとのことで取材に向かった。

朝7時にオープンする店だが、順番が回ってくるまで5時間待ちという人も。客どうしで声を掛け合い、自主的に予約表を作って順番を管理しているという。

5、6人にインタビューをお願いした。
『断水よりもっと大変な状況の人もいるので、「大変だ」と言えないですが、どのくらい我慢すればよいのか、めどが知りたいです』(原稿より)

こういうことを言う人が多いのが印象的だった。日本人らしい気質なのか。
そういえば、「日本人は協力プレーがうまい」と麻生副総理がいつも講演で言っていることを思い出した。帰ったら話してみようかと思う。

午後4時、呉市長の会見。
発生から4日目の市長会見というのも、どうかとも思う。岡山の倉敷市長が早くに会見を行い、民間からも支援が届くというニュースを見た。市民に一番近い市長のメッセージは、苦しむ市民にとっても、まさにニュースじゃないかと思う部分もある。
そんな気持ちで臨んだのだが…出てきた市長、周りを囲む幹部の顔は、疲弊の極みだった。

そうだ、確かおとといの県の対策会議で、呉市もマンパワーが足りないと県に要望を出しているという報告があったんだった。市全域が被災、職員は限られる。まあ、無理だったんだろうなあと思う。

1時間後に支局に戻る。支局にいるデスクが「リエゾンが必要」と言っていた。リエゾン…聞いたことはあるが、何だったかな。気になったが、ほかの業務をしていて忘れてしまった。

午後10時、ホテルに帰る前にコンビニに寄る。下着とかそういうものは、やはり無かった。疲れる。寝る。

現場で突然、背後から声が

7月11日(水)

午前7時に起床。前日に着たワイシャツを着る。3日目。臭いは大丈夫だろうか。下着は替えの2枚目に。靴下はきのう支局に届いたものをはく。

この日も呉市天応西条に。3人の遺体が見つかる。現場では、警察官、消防職員、自衛隊員がそれぞれ行方不明者の捜索にあたっている。気温は30度を超している。歩いているだけでもしんどいのに、土砂の撤去に当たっている人たちには本当に頭が下がる。

午後1時、現場で突然、背後から声がした。振り向いたら、そこに立っていたのは湯崎知事だった。
「県もいろいろやってんだからしっかり取材して」と言われる。
これはいいタイミング、と思い、さっそく尋ねた。
「呉市が断水している原因は、県が管理する送水トンネルの破損だと聞いているが、どうなっているのか」と。
すると、「これから視察行くけど来る?」と言う。支局の前線デスクに報告して取材することに。
「NHKだけで来る?」と聞かれたが、「全社に広報した方がいいですよ」と答えた。
断水が続く人たちからすれば、その原因と、いつまで続くかというめどは重要なニュース。これまで「復旧のめどは立っていません」という報道しか出ていない。もし情報が更新されるなら、できるだけ多くのメディアで報じたほうがいい。
駆け出しのころは、「ウチにだけネタください」と言っていた自分だが、そんな気持ちにはなれない。

午後3時に出発。トンネルを開閉する施設まで、1キロ以上。徒歩で行くしかないが、足場は悪い。それでも知事はスイスイ歩いて行く。もう50歳を超えているんじゃなかったか。36歳は息も絶え絶えだ。

30分歩いて現地に到着。トンネルの水を遮断する止水板を設置した小屋が流され、トンネルをふさいでいたのが原因だった。

午後6時に呉支局に戻った。広島県の取材先に聞いたところ、取材の後、重さ3トンの鉄製の止水板を引き上げる方法が見つかったという。これは、と思い、いったん出した知事の視察の原稿を、すぐさま書き直した。

『県は早ければあさって(13日)にも送水を再開したいということです。ただ、家庭などに水が届くのは今月14日以降となり、江田島市など島しょ部は給水まで1週間程度かかる可能性もあるということです。現場を視察した湯崎知事は「一刻も早く開通させて、断水している皆様に水をお届けしたい」と話していました』

この記事で、ようやくめどらしきものを伝えることができた。

午後10時、ホテルに帰る。疲れていたのか、シャワーも浴びずに寝てしまった。

「リエゾン」を突然に思い出す

7月12日(木)

午前7時に起床。同じワイシャツで4日目。臭う。現場に向かう時、タクシーの運転手さんに聞いたら、「ちょっとくさい」と言われる。

応援最終日となったこの日も、呉市天応西条に。行方不明者が、まだ1人見つかっていないという。当然、捜索が続く。だが、取材は「断水が土砂の撤去にも影響を与えていることにフォーカスするように」との指示。理解はできるが、ここで捜索の様子を固唾をのんで見守っていた人を見ていただけに、やるせない思いもある。

そして正午、呉支局に戻って荷物をまとめ、帰途についた。途中、広島県庁や広島放送局に寄り、山口県の岩国空港からの便に乗ることにした。

午後5時半、離陸が30分遅れるとのアナウンスが。
その時、なぜか脈絡なく「リエゾン」のことを思い出す。スマホを取り出して調べる。「災害対策現地情報連絡員」とのこと。国やほかの自治体から被災地に入る公務員のことのようだ。なるほどな、と思った。

そして夜、羽田に着いた。こうして私の、短い被災地派遣は終了した。

自治体には「できない」 だからこそ

被災地での取材で強く感じたのは、市や町などの行政組織には力が足りないということだ。もちろん、自治体が怠慢だったというつもりは全くない。東日本大震災の時もそうだったが、全市に広がるような広域災害が起きた場合、自治体にはそれに対応できるだけの人員は、そもそもいないのだ。

今回の経験でも、被災自治体に電話取材をしても、「把握中」とか「わからない」という対応が多かったように思う。情報がなければ、的確な対応もできない。しかし、自治体で危機管理を専門とする職員が10人以下というところもある。だからこそ、「リエゾン=連絡員」の必要性が出てくる。例えば、災害対応の危機管理だけを専門とするような組織があり、そこから、現地指揮を調整する一団を送ればより効率的なのではないだろうか。

そのような行政システムを整備すること、それこそ「政治」の役割のはずだ。

そういうことを考えながら、戻ってみると「政治」と「災害」で話題になっていたのは「赤坂自民亭」だった。豪雨のさなか、港区赤坂にある議員宿舎で、自民党の国会議員らが総理も交えて飲み会をし、そのときの写真がSNSにも出ていたことで、批判を浴びた。

「批判と謝罪」に終わるのではなく、次に備えてほしい。大災害に対応しきれない自治体の姿は、もう何度も見てきた。様々な国政の懸案もあるだろうが、国会でいまこそ政治に何ができるか、議論してほしい。自分がどれだけ役に立てたかは分からない。でも、現場に行って、見て、聞いたからこそ、切実にそう感じるのだ。

政治部記者
加藤 雄一郎
平成18年入局。鳥取局、広島局を経て政治部。現在、自民党麻生派を担当。この夏の課題図書は「ジョゼフ・フーシェ」。