“よそ者”に何ができる!

東京から北上すること500キロ。

三陸特有の入り組んだ地形を一望できる小さな半島の一角にそのNPO事務所はある。

年季の入った古民家の玄関をたたくと、20代の若者たちが出迎えてくれた。総勢約20人。いずれも縁もゆかりもなかったこの場所に移り住んできたという。

岩手県陸前高田市。震災を直接知らない若者たちの中からは、土地に根を下ろすことを願い、議員として市の意思決定に参画するものも生まれている。
(桜田拓弥)

行きたい!きっかけは「新聞記事」

東京で生まれ育った木村聡(27)と陸前高田の接点は、2012年2月までさかのぼる。

きっかけは自宅で偶然目にしたとある新聞記事だった。そこには、東京の大学4年生が卒業後、ボランティアに通っていた陸前高田に移住することが紹介されていた。

高校生だった木村は、すぐに記事に出ていた「三井俊介」という人物をFacebookで検索し、メッセージを送った。

「自分とあまり年齢が変わらないのに復興の第一線で活躍していて凄いなと。自分も三井さんみたいなことがしたいと思って一方的に連絡した」(木村)

1年の浪人生活を経て慶応大学に合格した木村は、受験勉強中ずっと机に貼り出していたあこがれの人に合格の報告を兼ねてメッセージを送った。

「東北に行きたいです」

返事が来た。

「夏に6泊7日で泊まり込むプログラムがある。よかったら来ないか」

移住して1年が経とうとしていた三井は、NPO法人の設立に向け、首都圏の大学生を陸前高田に招くプログラムの運営に本腰を入れていた。木村は二つ返事で参加することを決めた。

「被災地を変える!」と行ってみたら…

震災発生から2年がたち、被災地に初めて足を踏み入れた時の印象を木村はこう語る。

「ひと言で言うと大変な町だなと。がれきはなかったもののダンプカーが絶え間なく走っていて、まだ更地同然の状態だった。それでも、まちの人たちは『よく来てくれたね』と可愛がってくれた。まちの人も笑うんだというのが強く印象に残っています」

木村が参加したのは、市内で最も太平洋に近い人口3000余りの港町・広田半島に1週間滞在し、町おこしにつながるアイデアを実践するプログラムだった。


一緒に参加したのは同じ首都圏の大学生6人。最初の4日間は住民と郷土料理や漁師の手伝いなどを通して地域の暮らしを知る。日々の発見を話し合う中で考え出したのは、まちの魅力を紹介するプロモーションビデオを作る企画だった。ロケから編集までまる1日ほぼ徹夜で仕上げた動画を、最終日に住民が集まる報告会の場で披露した。

「来る前は、俺が被災地を変えてやるんだという気持ちでした。でも目の前の人と本音をぶつけ合うことで新しい発見がたくさんあって、逆に学ばせてもらうことばかりだった」

木村は、三井が立ち上げたこのプログラムにもっと深く関わろうと運営スタッフになることを申し出た。

「冷やかしに来たなら帰れ」

月に1度は現地に足を運び、次はどんなプログラムにするか住民と議論した。だが陸前高田での活動は、あくまで自分磨きの1つだと考えていたという。

「卒業したら東京の広告代理店で大きい仕事をするんだと考えていた。陸前高田はあくまでも修業させてもらう場だと思っていた」

震災で壊滅的な被害を受けた直後からたくさんのボランティアが支援に訪れたが、時間の経過とともにその数は減っていった。

視察と称してたびたび訪れる国会議員や興味本位の観光客の行動は、時に住民の感情を逆なでした。

「家も財産も大事な人も失ったその土地で、笑顔で写真を撮ったり中にはピースする人もいて。結局、被災地に来たという実績だけがあればよくて、私たちの痛みにまで目が向かない人は何人も見てきましたよ」(地元のタクシー運転手)

住民は、外から来た「よそ者」を冷めた目で見ていた。学生ボランティアの先駆けとして震災直後から陸前高田に来ていた三井もこうした目線を肌で感じていたという。

「最初は『学生なんかに何ができるか、冷やかしに来たなら帰れ』という状態だった。移住してからも『どうせすぐ東京に帰るんだべ』と言われていた」

40人以上が移住を決意

しかし、住民の予想に反して彼らは着実に実績を重ねていった。1週間の滞在プログラムにはこれまでに全国から700人以上の大学生が参加した。2016年からは、市などと一緒に修学旅行などを誘致して一般の家庭で受けいれてもらう民泊事業も始め、すでに8000人以上の小中学生や高校生が市を訪れるなど、「交流人口を増やす」という成果を目に見える形で出していった。


さらに活動に参加したことをきっかけに、これまでに40人以上が広田半島に移り住んできた。

自己満足に終わらない彼らの姿を見て、「所詮は夢物語の机上論」といぶかしんでいた住民たちの中にも徐々に協力する人が増え、次第に浸透していった。

魚を冷凍冷蔵する会社を津波で失い、震災後は公民館の事務長として地域の変化を見続けてきた長野昭文(69)は彼らの活動をこう評価する。
「被災した人としなかった人の間に吹いていた気まずい隙間風を埋める『接着剤』の役割を果たしてくれた。今ではもう本当に欠かせない存在ですよ」

三井は笑いながらあるエピソードを教えてくれた。

「移住した2年後に結婚したんですけど、住民の皆さんがみんなで祝うべって言って結婚式を手作りしてくれたんです。その翌日から回覧板がうちに届くようになった。やっと認めてもらえたんだなと感じました」

「のらりくらり」の僕を、何が変えたのか

自分磨きのための活動だと割り切っていた木村にとって「移住」という選択肢は、なかなか現実的なイメージとして湧いてこなかったという。
「広田に移住していた先輩から移住して一緒にやろうぜって誘われ続けていたんですけど、ずっとのらりくらりとかわしていた。この活動ってどこまで意味があるんだろうと思って一時期、距離を取っていたこともあった」

転機となったのは事業が軌道に乗り、春夏1回ずつだった受け入れの規模を3回ずつへと拡大することになった大学3年生の秋だった。運営を仕切る人が足りないから手伝って欲しいという依頼を受けた木村は再び活動に戻ることを決め、ある小さな地域の受け入れを担うリーダーとなった。翌年の春に向けて半年間、陸前高田に通い続けるうちに、木村の心に変化が生じていった。

「特定の地域に深く入り込んで住民の方々と膝をつき合わせて行くうちに、町の中に入り込めたかもしれないっていう手応えを感じたんです。もう少し頑張れば何かつかめるかもしれない、そんな感覚でした」

リーダーとしての大任を終えた2016年の春、大学4年生になるのを前に木村は決断した。“学生生活を終えたら1年間でいい。広田に住もう!”

だが、陸前高田への訪問を学生活動の一環だと見ていた両親はこの決断に難色を示した。
「え、就職活動するんじゃないの?頼むから就職活動してくれと言われて大反対されました。僕が一人っ子だからというのもあったかもしれませんけど、親が考えていたような道ではなかったことは確かです」

けんかや言い合いも一度や二度ではすまなかった。だが、最終的には木村の決意の固さに両親が折れた。
こんな言葉で、木村を送り出したという。
「確かにきみの人生だよね。理解もしたし、諦めた」

「議員を目指してみたい」ええっ!?

大学院で2年間まち作りを学んだのち、2019年の春ついに移住した。1か月後には交際相手にプロポーズし結婚も決めた。彼女もまた、木村と同じ活動をきっかけに現地で空き家を改装してカフェを開く移住組だった。
これからは腰を落ち着けてNPOの正職員として頑張ろう。しかし木村の波乱万丈はここでは終わらなかった。

「三井さん…。僕も議員になりたい」


実は木村がまだ大学在学中だった2015年、移住して3年が経っていた三井は26歳で市議会議員に当選していた。彼らの活動を評価していた地域の人たちから立候補の打診を受けてのことだった。19人中、唯一の1000票超えでトップ当選を果たした三井は、NPOという現場の最前線から政策の意思決定に携わる立場になっていた。

「議員になって良かったのは、意思決定の仕組みを間近で学べたことだった。どういう手順で、どういうタイミングで、どういう言語を使って誰から誰に話せば形になるのか。外からきたNPOの若手の代表という立場だけなら対応は主査どまりです。それが市の部課長と話せる、市長と直接話せる環境を作れたのは大きかった」

若い人たちがもっと政治の仕組みを知り、使い方を知れば町が変わっていくチャンスになる。わずか1期で退くことに応援していた住民からは不満の声も出たが、三井は再びNPOでの活動に専念する道を選んだ。

そして後任には移住して半年しか経っていなかった26歳の木村が立つことになった。

最初は応援してもらえなかったけど

妻の悠は振り返る。
「え、本当に出るの?大丈夫?って。学生時代に通い続けてきたとは言っても移住して半年も経っていなくて、名前も知られていないし私も応援したい気持ちはありましたけど、とにかく不安でした」

だが木村は、立候補の決断が自分自身の甘えを捨てさせてくれたという。
「住民の99%がなんでお前なんだよという感じで、最初は応援してくれる人が全然いなかった。でも選挙戦の最終日に驚くくらいたくさんの人が来てくれた。応援しないと言っていた人の姿もあった。移住してきてからずっと、どこか地に足がついていないと感じていたんですけど、目の前の光景を見て初めて、自分には覚悟が足りなかった。人生を賭けて向き合わないといけないという思いが湧き上がってきた」


26人が立候補し8人が落選する激戦となった選挙戦で、木村は4番目となる700票余りを得て当選した。

震災を知らない“よそ者”だからこそ

議員になって1年半。自分なりの問題意識を大切にして議場で質問に立つという木村。

議員には、市全体の将来を描く力が求められる。特に被災地では、復興に向け震災前の何倍にも膨れ上がった予算を議論する必要があり、その役割は大きい。

「観光客がまた訪れたい、より長くいたいと思ってもらうための施策をどう考えているか」

「行政におけるICT化(情報通信技術)の現状をどう評価しているか」

新たな「地元」になったこの場所に、何が必要なのか。どこに予算を投入するべきか。「よそ者」だった自分だからこそ、指摘できる視点があると思う。復興予算も、いつまでも続くわけではない。

だが、まだまだ修業が足りないと痛感している。

「執行部からこういう答弁を引き出すという目標を持って議会の質問に立つんですけど、緊張して自分の意見ばかりが出てしまう。試行錯誤の連続です」

あの日から10年が経ったいまの陸前高田は、絶望を乗り越えようと一歩踏み出した時に思い描いた姿からはほど遠い。

1600億円以上もの税金をかけてかさ上げした中心部は、本来姿が見えるはずの住宅ではなく、売地や貸地の立て看板が建ち並ぶ。震災前2万人を超えていた人口はこの10年で2割も減った。

「誰もやったことがなかったわけですし、難しさは当然あったんだと思います。ただ、10年が経った今、『復興』という概念は人それぞれで、まだだと思う人もいれば終わったと思う人もいる。そこにこだわっているといずれ対立や分断が生まれてしまうんじゃないか。僕はここで震災を経験していないし、外から来た人間という事実は変わらない。でもだからこそ前を向いて、条例や計画を通じてこれからのビジョンを示せる人間になりたい」

コロナショックで破産の危機に

震災をきっかけに被災地に根付き、2人の議員を生み出すまでになった彼らの活動は去年、「新型コロナウイルス」という大きな壁にぶち当たった。外との交流事業が中心だったがゆえに受け入れの中止を余儀なくされ、収入の道を絶たれた。一時は破産の影もちらついたという。

「中止が決まった時は、悔しくて泣き出すメンバーもいました。でもそこで立ち止まらなかった。2日後には当面の活動資金を確保するため、クラウドファンディングで助けを求めました。理屈抜きで『僕たちを助けてください』ただそれだけでした」(三井)

目標としていた200万円が集まったのはわずか2日後。寄付してくれたのは200人以上にのぼった。応援メッセージも寄せられた。

「なんとか踏ん張って事業を続けてください!」

「この危機をチャンスと捉えて、さらに多くの人たちの生きがいや勇気を生む事業を!」

「継続するためには、周りからのサポートも必要。遠慮なく『力を貸してください』と言ってくださいね」

多くの支えもあり、誰1人この地を去ることはなかった。

コロナで1年以上休止していた交流事業は、状況を見ながら再開していく方針だ。活動実績を評価したほかの自治体と協力した事業の計画も進み、新たなステップに踏み出そうとしている。

コロナで気づいた役割

コロナという初めての危機に直面した木村は、今年から週に2回、街頭に立って市民に訴えるようになった。

「市が出した独自の支援策にただいいですねと言うことしかできず、議員として無力で何もできなかった。自分の役割、意味を問い直した時に、政策を極めるのはもちろんですけど、いざというとき頼りたいと思える人間にならないと役に立てない。人と会う機会が減る中でそういえば木村という議員がいたなと心に留めておいてもらうため、できることから始めよう。今はそう思っています」

数え切れない悲しみを生んだ未曾有の大災害。しかし10年という月日は新たな芽を着実に育てている。

(文中敬称略)
※3月11日、文中の表現を一部差し替えました。
※3月12日、文中の表現を一部差し替えました。

選挙プロジェクト記者
桜田 拓弥
2012年入局 佐賀局、福島局を経て 19年から選挙プロジェクト 今回の取材で東北の被災3県をすべて訪れる