中国が警戒する男、大使になる

「中国当局が警戒する人物」と評される外交官が、新内閣の発足と時を同じくして、新しい中国大使に任命された。
その名は垂秀夫。
巨大国家が警戒するほどの能力とはどのようなものなのか。そして、課題が山積する対中外交の最前線に立ついま、何を思うのか。
北京赴任直前の垂に、単独インタビューで迫った。
(山本雄太郎)

中国大使に起用へ

7月15日、NHKは朝のニュースで、新しい中国大使に外務省の垂秀夫(59)が起用される方向だと報じた。

たまたまだったが、その日の午後、私は当時、官房長だった垂に面会のアポイントをとっていた。
当局の発表前に流したニュース、把握しているだろう。どう思っているだろうか。

おそるおそる部屋を訪ねると、垂はめがねを外し、目をこすりながら、「おかげさまで寝不足だよ」と大きなあくびをした。放送を見た政治家や知り合いから、事実関係の確認やお祝いの電話が次々にかかり、朝早くから大変な思いをしたのだという。

「それはご迷惑をおかけしました」

「気にされることはない。でも、これでもし大使になれなかったら、NHKさんで雇ってくださいよ」
垂はそう言って、豪快に笑った。

垂の人柄に、私は魅力を感じた。大使就任が正式に決まった折には、インタビューを申し込んでみようと決めた。

なんとなく中国

「中国関係を長くやってきた人間として、大使になるのは非常に光栄だ。積み重ねてきた知見、経験、人脈。いま発揮しないと、これまで何のためにやってきたのかとなる。私を養ってくれたのは日本国民の税金。国民にお返しするためにも、中国との関係でしっかり仕事をしていく」

中国大使への就任が正式に決まったあと、垂はNHKの単独インタビューに応じ、赴任への意気込みを語った。

垂の経歴は異彩を放っている。
大学時代、ラグビーに打ち込んだ垂は、外務省入省後、それまでまったく学習経験のなかった中国語を専門の語学に選んだ。以来、南京大学への留学を経て、赴任地は北京、香港、台湾という中国語圏のみ。台湾は2回、北京での勤務は今回で実に4回目となる。
外務省の中国語研修組、いわゆる「チャイナスクール」の中でも、中国語圏以外に一度も赴任しなかったのは極めて異例だという。

なぜ中国語を専門としたのか。そう尋ねると、拍子抜けする答えが返ってきた。
「深い理由もなく、なんとなくで決めた。なんとなく中国って大事なのかなって。でも、たまたまだけど、中国という国は自分の性分に合ったんだと思う」

中国を究めたい

なんとなく選んだ中国語。
そんなスタートだったこともあってか、チャイナスクールの中で垂は当初、必ずしも目立つ存在ではなかったという。
しかし外交官としての精力的な活動が周囲の見る目を変え、エースに駆け上がっていく。

北京赴任時代を垂はこう振り返る。
「能動的に人に会った。ある1年を数えてみたら、年間で300回以上中国人と食事をしていた。昼、夜、必ず誰かと食事し、自宅で食事したのは月に1回くらいだった。飲みにも行ったし、中南海(=中国政府や中国共産党の中枢)の人とゴルフを一緒にやったりもした。とにかくいろいろなことをやってきたのは事実だ。いまの若い人たちには勧められないけどね」

人脈をつくって、誰よりも早く情報をとる。そのために垂は、寝る間を惜しんで中国人と付き合ったという。要人とカラオケに行き、飲んだあとはサウナにも一緒に入った。人間どうしの付き合いをとことんまで突き詰めた。

中国勤務から離れていた期間にも、年に3回は北京や上海に飛び、人脈の「メンテナンス」に努めた。

こうした人脈づくりを地道に続けた結果、時として、外国人では知り得ないはずの人事や機密情報を耳にすることもあった。そんな時は、どんなに遅い時間でも大使館に戻り、本省へ公電を打ったという。

幅広い人脈を構築した垂の功績はチャイナスクールの外交官の間で語り草になっている。

「中国共産党の内部情報にどれだけ食い込めるかということをずっとやっていた。いわゆる民主活動家や、反共産党のような人たちとも『付き合わなきゃいけない』と言って、幅広く接触していた。後にも先にも、こういう人は出ないだろう」

「インターネットもSNSもない時代に、手紙を書いたり贈り物をしたり、そういうことを本当にまめにやっていた。私費も相当つぎこんでいた」

「ここ10年、チャイナスクールの外交官は、垂さんの築いた人脈をたどって仕事をしている。新規開拓しなければならないが、垂さんの壁はなかなか越えられない」

垂のモチベーションは一体、どこからわいてきたのだろうか。

「お国のためという気持ちがいまほどあったかというと、30代くらいのときはそうではなかった。むしろ、中国について誰よりも知りたいという個人的な気持ちの方が強かった。中国通になりたい、中国を究めたいという気持ち。それに尽きると思う。叱られるかもしれないが、芸術家や職人がその道を究めたいと思うのと、もしかしたら同じじゃないかな」

戦略的互恵関係

誰よりも人に会い、中国に精通した垂。
その努力が結実した、忘れられない瞬間があるという。

日中関係が冷え込んでいた、小泉政権下の2006年夏。垂が東京で対中政策とは直接かかわりのない部署にいたときのことだ。当時の外務事務次官、谷内正太郎に呼ばれ、こう言われたという。
「もうじき、安倍晋三総理が誕生する。日中間の新しいコンセプトを考えてほしい」

垂はこう振り返る。
「谷内さんというのはおもしろい人で、あまり肩書とか担当に関係なく、使えると思った人間を一本釣りして特命を与えるところがあった」

10日間ほどかけて垂が考えついたのが、「戦略的互恵関係」ということばだった。

さまざまな懸案はあっても、そこで対話をやめてはいけない。お互いの戦略的な利益のために意思疎通を続け、日中関係の発展を目指すべきだという垂なりの思いが込められていた。

当時の中国課長、秋葉剛男(現・外務事務次官)の了承を得て、谷内にこの案を見せると、谷内は「これだ、これでいこう」と言い、そのまま官房長官だった安倍に会いに官邸に向かった。

官邸から戻った谷内は、ひとこと「あれ、採用になったから」と言ったという。

この年の9月に総理大臣に就任した安倍は、翌月、初めての外国訪問として中国を訪問。国家主席の胡錦涛に「戦略的互恵関係」を提起した。いまでも日中関係を示す上で欠かせないキーワードになっている。

「安倍総理大臣の訪中は日本で見ていて、NHKや各社の報道で、『戦略的互恵関係』ということばが踊ったときは、胸が熱くなった。外部環境に影響されずに付き合っていくことがお互いの戦略的利益だと確認し、安定的な関係を構築していくこと。これがやはり大事だと思う」

台湾政界の厚遇

垂のキャリアを振り返るうえで外せないのが、台湾での勤務経験だ。

1972年に日本と台湾が正式な外交関係を絶って以降、外務省のいわゆるキャリア官僚で、台湾に2度勤務したことがあるのは垂だけだ。

垂の仕事のやり方は、台湾でも変わらなかった。
台湾の政権幹部にちみつに人脈を張り巡らせた。そして、多くの要人から親しまれた。

これは、垂が2度目の台湾勤務を終えようとしていた2年余り前、台湾の当時の副総統、陳建仁(ちん・けんじん)が、みずからのFacebookに公開した写真だ。

垂が陳に対し、展示されている写真を説明している様子が映っている。

垂は外交官人生で最も忙しかったと振り返る中国・モンゴル課長時代に趣味で写真を始めた。物事をとことんまで突き詰める性格は趣味の世界でも反映されたようだ。

その腕はプロ級として知られ、受賞作品は400点以上に上る。なかでも、2014年の年末に千葉県君津市の山あいで撮影したこの写真は、翌年のフォトコンテストで、環境大臣賞を受賞した。

北京に赴任時代も、足繁く地方に通い、大陸の優美な自然を数多く写真に収めた。

台湾でもシャッターを切り続けた垂の写真家としての腕は、垂が懇意としていた台湾の要人の目にとまった。
そして、垂の作品を集めた個展が、台湾側の主催で開かれるまで話は一気に進んだ。

個展は、日本の総理大臣官邸にあたる総統府で開かれ、開幕式には陳も訪れた。陳は、開幕式に訪れた人たちに、ある写真集を配布した。台湾、そして日本で垂が撮影した作品、およそ70点をまとめた写真集で、個展の開催にあわせて台湾側が費用を出して作成したものだった。

写真集の冒頭では、台湾政界の重鎮が推薦のことばを寄せている。日本の官房長官に相当する総統府秘書長などを歴任し、台湾側の対日窓口機関である台湾日本関係協会の会長を務める邱義仁(きゅう・ぎじん)だ。

「垂さんは、『最も幸せな瞬間、それは互いの心が通いあうとき』と語っています。読者のみなさまが、作品を通じて、垂さんと心を通わせ、人生の幸せなひとときの思い出がよみがえることを願っています」

台湾で心を通わせていたひとりだった邱義仁を垂は「親友」と呼ぶ。

垂の希望で、個展はメディアには公開されず、写真集も市場に出ることはなかった。垂は台湾政界の厚意が詰まった写真集を、いまも大切に保管している。

中国に睨まれる

フットワーク軽く中国共産党の中枢に飛び込み、台湾での人脈も太くした垂は、中国からするとかなり目立つ存在だったのは間違いない。

何者の仕業かは判然としないが、何度も脅しを受けたほか、自宅のファックスが鳴り続け、延々と白紙が排出される嫌がらせも受けたという。

垂は中国当局からの盗聴に備え、携帯電話を何台も所有し、携帯電話に差し込む「SIMカード」と呼ばれるICカードは頻繁に使い捨てた。

2013年、北京の大使館で政治担当の公使を務めていた垂は、外務省本省からの指示で、任期途中で緊急帰国した。

帰国の理由は明らかにされていないが、政府関係者の多くは、中国側が垂の情報収集能力を警戒し、監視を強めたことが関係していたのではないかと推測する。今回の垂の大使就任にあたって、中国側が就任に同意しないのではないかという懸念の声が出たほどだ。

垂自身は、緊急帰国の真相を公に語ったことはない。
今回のインタビューでも「答えられない」と事前に釘を刺された。

一方で、中国側が垂を警戒しているという見方については、こう答えた。
「中国はああいう国なので、一般論としては外交官もメディアもみんな警戒されている。一方で中国は奥深い国で、警戒している人からも意見を聞こうとする。台湾関係を担当した人は中国に嫌われるという話も一般論としてはあるが、台湾をよく知っていて、なおかつ日本人ということで、『直接話が聞きたい』と言ってくる中国の要人もいた。中国人に聞く耳はあるんです」

政府内には、垂がチャイナスクールの中国通でありながら、中国に厳しい姿勢をとる数少ない対中強硬派だとみる人もいる。
垂は「たしかに厳しいことはよく言う」と笑ったうえで、こう強調した。

「中国についておかしいと思うことは、みんなが感じていることだ。そのことをどうやって中国に伝えるかというのが大事で、人脈を作ってちゃんと伝えてあげればいい。お互いに国益がぶつかることもあるが、妥協の余地があるのか、ないのか。協力すべき空間があるのか、ないのか。それを探すのが外交だ」

視界不良のなかで

菅総理大臣は、日米同盟を日本外交の基軸に据える一方、中国との安定的な関係の構築も目指すとしている。しかし、その道のりは不透明になりつつある。

「正常な軌道」に戻ったとされる両国関係は、新型コロナウイルスの感染拡大を機に、足踏み状態にあり、関係改善の象徴になると期待された習近平国家主席の日本訪問も延期されたまま、日程調整すらできない状況が続く。

東シナ海や南シナ海への海洋進出、「新冷戦」と呼ばれるほど激しくなる米中の対立、統制を強める香港情勢など、中国をめぐる問題は枚挙にいとまがなく、日本国内の中国に対する視線も厳しさを増している。

外務大臣の茂木敏充は、日中関係が不透明感を増すいまだからこそ、中国に精通した人間が中国大使を務めるべきだと判断し、垂を選んだ。しかし、垂の置かれる環境はかつてなく厳しい。対中外交で具体的な成果を上げられるのか、視界が開けているとはいいがたい。

日中関係は「人間ドラマ」

インタビューで垂は、これまでの日中関係を、急激な改善と悪化を繰り返す「ジェットコースターのようなもの」と表現し、それゆえ「一喜一憂すべきではない」と指摘した。そして「戦略的互恵関係」に基づき、外部環境に影響されず、50年、100年と、長期的に安定した関係が築けるよう努力していく必要性を強調した。

私には、そう力説する垂が、日中間の深い人づきあいに再び関われる喜びを隠せないでいるようにも見えた。
インタビューの最後に聞いた大使としての抱負からもそれはにじみ出ているように思う。

「ぜひやりたいのは、日本をプロモート(宣伝)することだ。民主主義がしっかりと根付いて、自由が享受できる日本の魅力を中国の1人でも多くの人にプロモートしたい。実は日中の間には、魂と魂がふれあうような人間ドラマがたくさんある。その人間ドラマが織りなすのが日中関係であり、魂と魂がぶつかり合う物語は今後も続く。私も物語の参加者の1人として、中国の社会が、きのうよりきょう、きょうよりあす、良くなっていくことを強く希望している」

垂は11月に北京に赴任。
習近平に面会する際には、みずから撮影した日本の美しい風景写真をお土産として持参し、さっそく日本をプロモートするつもりだ。
(文中敬称略)

政治部記者
山本 雄太郎
2007年入局。山口局を経て政治部。現在は外務省担当。茂木大臣の“番記者”。