自民党“保守清流
継承なるか?

海部俊樹元総理大臣が1月9日に亡くなりました。91歳でした。海部氏を悼み、2017年にインタビューした記事を再掲します。

東京都議会議員選挙での大敗から一夜明けた2017年7月3日の午後。東京都内のホテルで、自民党の国会議員59人が参加して、党内で2番目の規模となる派閥「志公会」(新麻生派)が旗揚げしました。
この派閥の結成に参加し、党内最古の派閥「番町政策研究所」(山東派)は、61年の歴史に幕を下ろしました。近年はメンバーが10人前後と最も小さい派閥となっていましたが、クリーンなイメージで、党内で独特の存在感を示してきました。
最古で最小の派閥の歴史を関係者の証言からひもとき、“保守清流”との思いを胸に、新たなスタートを切る議員たちを取材しました。 (政治部 有吉桃子記者)

自民党最古の“保守傍流”

自民党結党翌年の1956年(昭和31年)4月に、三木武夫氏と松村謙三氏が設立した「政策研究会」をルーツに持つ山東派。合流や分裂をせず、三木派、河本派、高村派、大島派、山東派と継承され、党内に10あった派閥やグループで、最も古い歴史を誇ってきました。

党内では、派閥の事務所が置かれた地にちなんで、「番町」と呼ばれてきました。吉田茂元総理大臣が率いた自由党の流れを汲む、いわゆる“保守本流”の党内主流派の派閥に対し、“保守傍流”と言われ、派閥設立当時から少数派にとどまっていました。

しかし、派閥を立ち上げた三木武夫氏は、少数派閥の長ながら巧みに立ち回る“バルカン政治家”とも言われ、1974年(昭和49年)、当時の田中角栄総理大臣が金脈問題で退陣すると、そのクリーンなイメージから後継の党総裁に指名され、総理大臣に就任します。派閥設立から18年目のことでした。

              三木武夫氏
当時、三木派に所属していた藤本孝雄元厚生大臣は、こう振り返ります。
「田中金脈で田中内閣が総辞職して、あと大平さんと福田さんが争ったんですよね、その争いの中で椎名副総裁が、『金権で政権が倒れたから、ここはクリーンな三木がいい』と。振り子の原理で右の端から左の端へ。そういう理由で三木総理大臣が誕生したんです」

貫いた“クリーン”

三木氏は、金権政治の打破や政治浄化を訴え、1976年(昭和51年)、ロッキード事件が明らかになると徹底究明を宣言しました。

田中氏への捜査の手が迫る中、自民党内からは逮捕を回避するため、検察への「指揮権」を発動するよう三木内閣に求める声が高まったといいます。

しかし、三木氏は「指揮権」の発動を拒否します。三木氏は近い議員に、「いずれアメリカで機密文書が公開されれば、事件の全容が明らかになる」などと説明したということです。

党内では、三木総理大臣の対応に反発が強まり、「三木おろし」の声が高まります。三木氏は、国民世論の支持を背景に、衆議院の解散・総選挙に打って出ようとしたものの、閣僚たちが反対の姿勢を示し、解散権を行使できませんでした。

そして、1976年(昭和51年)12月、任期満了に伴う衆議院選挙で、自民党は結党以来初めて、過半数を割り込む大敗を喫し、三木内閣は退陣しました。

三木内閣で官房副長官を務めた海部俊樹元総理大臣は、強い決意を示す三木氏を派閥が結束して支えたといいます。

「『三木さんは正論吐くけれども、きれい事ばかり言われても困る』というのが党内の大勢だった。でもやっぱり田中さんがやってたことはいいことだと思ってないんだよ、僕らは。三木さんは、隠し事しないで、みんな見せたらどうかと。都合の悪いことも見せたらどうかと。党の保守本流とはちょっと違う。『お前は冷たい、血も涙もない。田中角栄をつるし上げて、縛り上げてどうなるんだ』と言われても、三木さんは、そういう意見にはくみしなかった。そんなことで、われわれがふらふらしちゃダメだって、三木さんは怒るからね」

政治家は1本のろうそくたれ

             三木氏と河本氏(昭和57年)
三木武夫氏のあと派閥を率いることになったのは、河本敏夫氏。
河本氏の座右の銘は「政治家は1本のろうそくたれ」~政治家はみずからの身を燃やし、身を削りながらも、世の中の隅々まで照らし、よりよい社会を作ろうと働くもの~。寡黙で「寡言実行」、滅多に笑わないことから「笑わん殿下」とも呼ばれました。

             河本氏 総裁選出馬(昭和57年)
三光汽船の経営者として培った経験をもとに、一貫して積極的な経済運営を提唱。党内でも実力者と位置づけられ、1978年(昭和53年)と1982年(昭和57年)の2度、自民党総裁選挙に挑戦しましたが、大平正芳氏、中曽根康弘氏に敗れ、総理・総裁の座を射止めることはできませんでした。

河本門下生を自認し、後に派閥の会長も務めた大島理森衆議院議長は、当時を振り返りながら、悔しさをにじませます。

「『経世済民』、経済を中心に国民を豊かにしたいということが、河本先生の思いの中に非常にあった。派閥の人数も足りなかったし、力がなく、河本先生には申し訳ないと思っています」

海部氏は当時、“闇将軍”と言われた田中角栄元総理大臣の力を見せつけられたと振り返ります。

「河本さんは、一生懸命頑張ったけど数が足りなかった。田中角栄さんのところは『政治は数だ、数は力だ、力は金だ。金を配れ、上手に』。そっちの方法をよく知っているけど、こっちは三木さんに育てられているから、『金はもっときれいに』、だから金の配り方も少なかったんだよ。やはり多いほうに負けちゃう」

やっぱり“クリーン”

自民党総裁選挙で2回敗れた河本派に、思いがけず、おはちが回ってきます。 1989年(平成元年)、河本氏が78歳の時でした。リクルート事件を受けて、当時の竹下登総理大臣が辞任。その後、総理大臣となった宇野宗佑氏には女性スキャンダルが発覚。参議院選挙で自民党は、社会党の土井たか子委員長(当時)が、「山が動いた」と評するほどの大敗を喫します。

             海部総裁選出の両院総会(平成元年)
自民党への大逆風の中、宇野宗佑総理大臣の後継として、河本派の海部俊樹氏の名前が浮上します。海部氏自身、ただただ驚いたと振り返ります。この時も、やはり“クリーン”が決め手でした。

「びっくりしたよ。竹下氏が来て、『絶対勝つから、お前やれ。安倍晋太郎氏も連れてくるし、票読みをするとお前が勝つよ』と。『河本さんがいるから』と言ったら、『あの笑わん殿下ではダメだ』と。言われたとおりに朝から晩まで『海部俊樹です。よろしく頼みます』と電話をかけて、そうするとみんな『しっかりやってくれ』と言ってくれる。河本派の中では『竹下と安倍の操り人形になるからやめろ』という意見もあったが、『お前しかいない』と言われてやらなかったら、お先真っ暗。どうせ真っ暗なら、自分が中でできるだけ努力しようと思った。三木さんのクリーンなイメージを受け継いでいたことが理由だと思う」

また、大島氏も、今もその時のことを鮮明に覚えています。

「河本総理大臣を実現しようと、一生懸命運動していたら、突然、ホテルに来いと言われて、小沢一郎先生や森喜朗先生ら、そうそうたる派閥の事務総長がずらっと並んで、その時に海部先生が総裁候補の対象になっていると聞かされた。身震いがするような瞬間でした。河本氏に報告すると、『私はこれから若い諸君たちを育てるのが仕事だ。総裁選挙で全力を尽くせ』と言われた。国会議員生活34年の中でも非常に大きな場面として鮮明に今でも覚えています」

少数派閥の苦悩

自民党最後の内閣になるかもしれない。そんな悲壮感も漂う中で船出した海部内閣。自民党幹事長には、最大派閥竹下派の小沢一郎氏が就任し、支援を受けましたが、少数派閥出身の総理大臣ゆえの苦労もあったと言います。

             海部氏と小沢氏(平成2年)
官房副長官を務めた藤本氏は振り返ります。

「とにかく支えてもらう中心は竹下派。だから僕の仕事は与党の調整。各派閥の領袖を回る仕事、それから幹事長との調整は十分にしました。衆議院の解散の時期や、総理の答弁内容についても調整しました」

ベルリンの壁崩壊や湾岸戦争など、世界が激動する中、海部内閣は高支持率を維持していました。しかし、最も力を入れていた衆議院の選挙制度改革で、小選挙区比例代表並立制の導入などを盛り込んだ政治改革関連法案をめぐり、自民党内で意見が割れ、法案は廃案になりました。

これを受けて海部氏は、衆議院の解散・総選挙に打って出るものとみられていましたが、結局、解散は行われず、海部内閣は総辞職しました。当時、官房副長官だった大島氏は、少数派閥出身の総理大臣の限界を感じたといいます。

「政治改革は海部内閣の宿命だった。だから法案が廃案にされた時に、海部総理大臣は解散を覚悟されたができなかった。解散する力が、われわれ官邸になかった。解散は権力闘争ですから、すさまじい戦いになるわけです」

海部元総理大臣自身もこう振り返ります。

「目の前が真っ暗になった。解散を決める閣議の前の日は、本当に夜も寝ないで電話をした。竹下氏も金丸氏もみんな電話で『君がそう決めたなら、やれよ。いいよ』って言ってたから、やっちゃおうと思って腹を決めたら、またダメだと言い出した。閣議の朝、竹下派の橋本龍太郎氏が電話をしてきて、『どうもうまく転がっていかないと思うから、我を張らずに大勢に従いなさいよ』って。そして、金丸氏が『解散はダメだ』と言った。案の定、閣議が始まったら、みんな反対だった。解散したら党内がごちゃごちゃになるということを必要以上に考えすぎた。私が解散を迫った時に三木さんは『わしは独裁者じゃないから』と言ったが、みんなが反対するのを押し切って1人でやると独裁者になる。俺の弱さだと思う」

転機迎える“保守清流”

「番町」は、その後、大きな曲がり角を迎えます。海部俊樹元総理大臣らが政治改革を実現するためとして離党。河本氏も引退。集団指導体制を経て、2000年(平成12年)に、高村正彦氏が派閥の会長に就任しましたが、所属議員は、わずか13人となっていました。

高村氏は、三木、河本派から受け継がれてきた派閥について、こう語ります。

「クリーン三木以来の『保守清流』。そして、小なりといえども弱ならず。それに現実的平和主義者の系譜だ」

高村氏は、2003年(平成15年)の総裁選挙に立候補し、派閥の人数を上回る議員票を獲得しましたが、当時の小泉総理大臣が圧勝し、最下位に終わりました。この敗戦の経験を踏まえ、高村氏は派閥の合流に向けて、かじを切っていきます。

「総裁選挙で、私は小泉さんに論争では勝っていた。けれども、最下位だったから、その時点で、ひとさまには言わなかったけれど、私はもう総裁選挙には出ないと決めた。高村派は総裁候補を抱けない派閥となった」
「派閥の中の一騎当千の人間たちが総裁選挙に出るのであれば、大派閥のほうがいい。若い人たちにチャンスを与えたいという思いがあった。『番町』がなくなることには、人間だからセンチメンタルになることもあるが、政治家は未来志向であるべきだし、『保守本流』と言われる大きな川と一緒になって、大きな清い流れになっていくといい」

流れは続くか

吉田茂元総理大臣の孫の麻生太郎氏が率いる麻生派との合同勉強会を始め、その後、大島理森氏、山東昭子氏が、それぞれ会長を務める時代にも、両派の交流が続けられていきます。

そして先月、山東氏は、ついに麻生派などとの合流を決断しました。所属議員11人のうち10人が新しい派閥に参加しましたが、メンバーの中には、「『番町』の歴史が途絶えるのは残念だ」と考える人も多かったのは事実です。また、「クリーンなイメージや、少人数でも存在感を発揮してきた派閥の伝統を継承してほしい」という声が多く聞かれました。

最後の派閥の領袖となった山東氏は、「小さいけれどよくまとまっていて、清廉であるということを誇りに思ってきたので、新しい派閥になっても、それはもちろん大事にして、影響も与えていきたい」と新たな決意を語りました。

かつて「番町」に所属していた、この2人は、“清流”が新たな派閥でも継承されていくことを期待しています。

(大島理森氏)
「派閥の締めつけとか、派閥の数がこのぐらいあれば必ず総裁選挙で当選できるとか、それだけではない時代になったと僕は思います。一方で、やっぱり政治は数であることは間違いないから、そこを大事にしようと言うのは十分わかる。三木派、河本派はあるべき姿を語るグループで、国民はそこに理想のにおいをかいだのではないか。底流に流れるものは、今後もそれぞれが持って、新しいグループの下で大いに頑張っていただきたい」

(海部俊樹氏)
「三木さんは、『きれい事はいかん』と言われても、言い続けた。誰かがその旗を立てておかないと、政界はみんな泥沼じゃないかな。あのころの『わかりやすくきれいな政治』という旗印はだんだん薄れてきたけれども、つらくても厳しくても旗を立ててきれい事を守っていくべきだ」

取材を終えて

私が、初めて「番町」の担当になったのは自民党が野党時代のおよそ5年前でしたが、その頃から麻生派との合流は取りざたされてきました。話が持ち上がった当初は「番町」の歴史と特色に誇りをもち、少数派閥ながらも人事の面では優遇されているとして、合流に慎重な声も多かった印象でした。

しかし、自民党が再び政権に戻り、「安倍1強」と言われる中で、それぞれの議員が、どのように存在感を発揮していくのかについて、さまざまな思いを持ち、今回の合流につながったのだと思います。59人と大所帯となった新「麻生派」の中で、「番町」のメンバーがどのような働きをしていくのか、今後もウォッチしたいと思います。

政治部記者
有吉 桃子
平成15年入局。宮崎局、仙台局を経て政治部。文部科学省や与野党などを担当。子育てのため、お酒や食べ歩きなど諸々禁欲の日々。