致問題は、なぜ進まないのか

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの父、滋さんが6月5日、亡くなった。
めぐみさんの拉致から42年余り。最愛の娘との再会がかなわなかった滋さんの死を、多くの人が悼んだ。
安倍政権の「最重要課題」拉致問題はなぜ進展しないのか。日朝両国間で何が起きているのか報告する。
(花岡伸行)

「申し訳ない」

横田滋さんが亡くなった日の夜。
東京・渋谷の私邸前で記者団の取材に応じた安倍総理大臣は、ひと言ひと言区切るようにことばを発した。
「総理大臣として、いまだにめぐみさんの帰国が実現できていないことは断腸の思いであり、申し訳ない思いでいっぱいだ。本当に残念だ」

その4日後、滋さんの妻の早紀江さんが、双子の息子で兄の拓也さん、弟の哲也さんとともに記者会見し、「何年たってもめぐみを必ず取り戻すため頑張っていきたい」と、決意を語った。

解決へ期待が高まった瞬間

被害者やその家族を長きにわたって苦しめている拉致問題。しかし、解決に向けて、期待が高まった瞬間がある。いわゆる「ストックホルム合意」だ。

6年前の2014年5月。
スウェーデンのストックホルムで開かれた日本と北朝鮮の政府間協議で、北朝鮮は、拉致被害者や、拉致された可能性が排除できない、いわゆる特定失踪者の包括的、全面調査を行うと約束した。

これを受け、日本政府は日本独自の制裁の一部を解除することとした。

しかし、結果的に日朝両政府から調査結果が公表されることはなく、合意は頓挫した。なぜそうなったのか、両政府から詳細な説明はなされず、謎に包まれたままとなっている。

「チャレンジだから」

ストックホルム合意が結ばれた当時、日本政府や与野党内では北朝鮮への不信感が根強く、拙速な合意は避けるべきだという意見も多かった。

拉致問題の解決を目指す超党派の議員連盟の会長で、当時、拉致問題担当大臣を務めていた自民党の古屋圭司衆議院議員は、安倍総理大臣から次のように説得されたという。

「わたしも家族会も消極的だった。しかし、安倍総理から、『これはチャレンジだから』と言われて説得された。チャレンジというのは、相手の言ってることはまやかしかもしれないが、否定したら、また振り出しに戻ってしまう、だからやろうという意識だったと思う。総理も、たぶん『相当厳しい』という認識はあったはずだ。ただ、チャレンジだった」

合意の焦点

日本が協議の過程でこだわったのは、調査の実効性が担保されるのかどうか。つまり、北朝鮮が立ち上げるとした「特別調査委員会」の体制がどうなるのかということだった。

合意からおよそ1か月後の7月1日、北京で行われた政府間協議で、北朝鮮は日本に対し、「特別調査委員会」には、すべての機関を調査することができる特別の権限が与えられていることや、メンバーに「国家安全保衛部」の幹部が含まれていることなどを説明した。

日本政府は、秘密警察にあたる「国家安全保衛部」が前面に出てきたことに注目していた。調査に対する本気度は高いと判断し、調査の開始にあわせ、日本独自の制裁措置の一部解除に踏み切った。

北朝鮮側の事情をよく知る関係者は次のように話す。

「『特別調査委員会』の体制は、朝鮮指導部の決断によるものだ。第1回の日朝首脳会談が行われた2002年以降、両国関係がこじれた原因については、朝鮮側にも当然な言い分がある。しかし、全部乗り越えて、日朝ピョンヤン宣言のゴールに行くんだということだった」

調査公表の遅延

しかし懸念されたとおり、ストックホルム合意から日が経たないうちに両国間のやりとりは停滞し、暗雲が立ちこめた。

北朝鮮は、最初の報告を出すとしていた9月ごろになると、「調査は全体で1年程度を目標としていて、現在はまだ初期段階にある」と日本に連絡。さらに、特別調査委員会の設置から1年が経過した翌年7月になっても、「調査を誠実に行ってきたが、今しばらく時間がかかる」とされた。

そして、2016年2月、北朝鮮が核実験と事実上の長距離弾道ミサイルの発射を強行。

日本政府が再び制裁措置を強めると、北朝鮮は調査の中止と特別調査委員会の解体を発表し、ストックホルム合意は頓挫した。

示されていた拉致被害者の新情報

なぜ、頓挫したのか。

複数の政府関係者は、北朝鮮から調査結果の内容が非公式に伝えられていたが、日本政府が到底受け入れられるものではなかったという情報があると説明した。

政府関係者によると、北朝鮮が、生存している拉致被害者として、水面下で日本側に示したのは2人。
いずれも神戸市出身で、1978年から行方不明となっている田中実さんと、1979年から行方不明となっている金田龍光さんだ。

2人は神戸市東灘区にあるラーメン店に勤めていて、北朝鮮から指示を受けたラーメン店の店主によって誘い出され、北朝鮮に送られたとされている。

田中さんについては、日本が政府認定の拉致被害者として調査を求めていたが、北朝鮮は入国していないとしていた。また、金田さんは、警察が拉致の可能性を排除できないとしている行方不明者の1人だった。

2人には北朝鮮国内に家族がいて、帰国の意思がないことも伝えられ、そうした非公式の調査結果は、安倍総理大臣と菅官房長官にも報告されたという。

ある政府関係者は当時の状況をこう振り返る。
「仮に2人が日本に来ると言っても、帰国の意思がなければ、2週間だけ親善訪問のような形になってしまう。ほかの拉致被害者の家族からは、『自分たちの家族はどうなっているんだ』と言われ、『これでもう手じまいです』となったら、世論の激しい批判が予想された。だから、『これはダメだな』と」

結局、安倍総理大臣らは、横田めぐみさんなどすべての拉致被害者の即時帰国に全力を尽くすという政府の立場では、2人だけの情報では不十分で、国民も納得しないとして調査報告書は受け取れないと判断したとみられる。
そして北朝鮮に調査の継続と拉致被害者のさらなる情報を求めたが、北朝鮮の方針に大きな変化はなく、協議は平行線が続いたという。

こうした情報について、政府は、国会答弁などで、「今後の対応に支障を来すおそれがあることから、答えは差し控える」などと、明言を避けている。

深まる相互不信、合意は頓挫

先の北朝鮮関係者は、当初から拉致問題をめぐる日本側の期待とのずれがあったと話す。
「ストックホルム合意に沿って調査を行ったが、問題はその結果を日本側がどう受け止めたかだ。合意にあるのは、いわゆる日本人妻も含めたすべての日本人に関する調査で、それを信頼醸成と不信払拭のプロセスとして進めながら、日本政府が頃合いを見て、朝鮮側から示された調査結果を国民に公表するなどして舵取りすべきだった」

拉致問題が最優先の日本側と、あくまで拉致は日朝間の問題の1つに過ぎないという北朝鮮側の思惑がすれ違い、相互不信は深まっていったというのだ。

北朝鮮政治に詳しい南山大学の平岩俊司教授は、日朝協議が暗礁に乗り上げた背景を次のように分析する。

「日本とすれば、北朝鮮にだまされるかもしれないということを前提にやっているので、一番中心的な拉致問題を優先し、北朝鮮の姿勢の変化を見極めてから全体を進めようと思う。一方の北朝鮮は、日本を信用していないので、そこは一番最後に取っておきたいということで、交渉がなかなか進まない状況が続いたのだろう」

ストックホルム合意以降は日朝間の正式な政府間協議は行われていない。
拉致問題の解決を促すとみられた合意が、かえって相互不信を深めるきっかけとなり、その後の日朝関係にも暗い影を落とすという皮肉な結果となった。

「米朝会談で拉致に3度言及」反応は…

ストックホルム合意が頓挫した2016年から2年が経過した2018年。拉致問題は新たな展開を見せる。

6月12日、シンガポールで行われた史上初の米朝首脳会談だ。アメリカのトランプ大統領は、会談後の記者会見で、拉致問題を提起したことを明らかにした上で、「共同声明には記されなかったが、彼らは取り組んでいくことになる」と述べた。

この首脳会談でのやりとりについて、古屋・元拉致問題担当大臣は、アメリカ政府高官から、トランプ大統領が3度、拉致問題に言及したと説明されたことを明らかにした。

「首脳会談に同席していたポッティンジャー大統領次席補佐官から直接ワシントンで聞いたが、首脳会談の日、トランプ大統領は会談、昼食会など3度拉致問題について言及したそうだ。キム委員長は1度目は完全にスルーで、パッと話題を変えた、と。2度目はちょっとうなずいた、そして3度目は、『いずれそういう時が来るかもしれない』という趣旨のことを言ったと」

トランプ大統領は、去年5月に日本を訪問した際、拉致被害者の家族と面会した。その際、有本恵子さんの父親の明弘さんから、みずからの思いをつづった手紙を受け取り、後日、拉致問題に取り組む決意を記した手紙を返信している。

日米が連携して、拉致問題の解決を積極的に北朝鮮に迫ったことで、日本国内でも米朝協議の進展により、拉致問題が解決することへの期待が高まった。

情報機関に交渉ルートをシフト

米朝首脳会談の実現にあたって、大きな役割を果たしたのは両国の国務省、外務省といった外交のプロではなく、アメリカはCIA=中央情報局、北朝鮮は朝鮮労働党統一戦線部、韓国は国家情報院といった情報機関だったとされている。

日本も、外務省主導の交渉から警察庁出身で安倍総理大臣の信頼が厚い北村内閣情報官(当時)主導の交渉へと体制をシフトさせていったという指摘が出ている。

2018年8月、アメリカの有力紙、ワシントン・ポストの電子版は、米朝首脳会談の翌月となる7月に、北村内閣情報官と、当時、北朝鮮の統一戦線部策略室長を務めていたとされるキム・ソンへ氏がベトナムで極秘に会談し、拉致問題を協議したと伝えた。

統一戦線部は米朝首脳会談でも大きな役割を果たした情報機関で、総理大臣官邸が北朝鮮の指導部と直接つながる新たなチャンネルを模索していることがうかがえた。そして、米朝の動きと呼応するように、日本の北朝鮮への姿勢も変化していく。

対話へ転換の日本を北はどう見ている?

2019年3月、日本政府は、国連人権理事会に11年連続でEUと共同提出してきた、北朝鮮の拉致問題や人権侵害を非難する決議案の提出を初めて見送った。

また、4月に公表された外交青書では、「圧力を最大限まで高めていく」という記述が消え、「国際社会が一体となって、アメリカと北朝鮮の交渉を後押ししていくことが重要だ」という表現に変わった。

そして5月、安倍総理大臣は、「拉致問題を解決をするために、私自身がキム委員長と条件をつけずに向き合わなければならないと考えている」と表明し、前提条件をつけずにキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長との首脳会談の実現を目指す考えを明らかにした。

古屋・元拉致問題担当大臣は、こうした姿勢の変化にはトランプ大統領の存在があったのではないかと指摘する。
「トランプ大統領のアドバイスもあるだろう。それからやっぱりキム・ジョンウン委員長が交渉の土俵に乗ってこないと一歩も前に進まない。高度な戦略的な判断だ」

当の北朝鮮は、こうした日本の姿勢の変化をどう受け止めているのか。北朝鮮関係者の見方は厳しい。
「国連の決議案も外交青書の話も今まで10の強さで悪口を言っていたのを5の強さにしたという話と同じで、朝鮮に対する敵視政策、制裁は続いているし、朝鮮総連たたきも続いている。朝鮮側の不信と反感は強まるばかりだ」

平岩教授は、北朝鮮は日本の真意を測りかねているのではないか、と指摘する。
「安倍総理大臣は2017年の国連総会では『対話は必要ない』と言っていたが、それが一気に2018年から対話に変わるわけで、北朝鮮からすれば本気で言っているのか、ちゃんと国交正常化について話をするつもりがあるのかを測りかねていると思う」

時間との戦い、政権は拉致を解決できるか

拉致被害者家族の高齢化が進み、拉致問題は時間との戦いだとも言われる中、政府は問題の解決に向けてどのような展望を持っているのか。

安倍総理大臣は、6月18日の記者会見で次のように述べた。「なんとか北朝鮮を動かしていきたいと水面下でもさまざまな対応をしているが、今後も政権の最重要課題として、わたしの使命として取り組んでいく」

水面下で行われているというさまざまな対応とは何を指すのか。古屋・元拉致問題担当大臣は次のように説明した。

「北朝鮮も同盟的な国や関係が深い人がいて、中には日本とも仲の良い国や人もいる。そういう属人的な関係も含めて相当やっている。ただ、北朝鮮は、一時期アメリカといい関係にあったし、中国やロシアもいる中で、あえていま日本の優先順位を上げる必要がないという判断をしている。日本と交渉した方が得だという認識を持たせることが大切だ」

平岩教授は、いまは日本から積極的に対話を求めていくべきだと指摘した。

「メディアからも家族会からも、北朝鮮と話をしてほしいという声が出ている。日本政府からすれば、積極的にアプローチを仕掛けやすい環境が整っている。拉致問題だけが優先的に解決されるのは難しい。拉致問題も重要だが、日本にとって、核・ミサイルの問題も極めて重要な問題だ。ハードルは高いが、だからこそ、国際社会と連携しながら、包括的な解決を目指す必要がある」

新たな「糸口」は

横田拓也さんは、6月9日の記者会見で、「国会においては、与党・野党の壁なく、具体的かつ迅速に解決のために行動してほしい。マスコミも、イデオロギーに関係なく、この問題をわがこととしてもっと取り上げてほしい」と述べた。
家族の必死の訴えは、政府や国会だけでなく、私たちマスコミにも向けられている。

拉致問題をめぐる北朝鮮との交渉は、核やミサイルだけでなく、世論も含め複雑に絡み合う極めて難しいものだということは論を待たない。
ただ、日朝関係は、不信感を抱くものどうしが、日朝ピョンヤン宣言、ストックホルム合意とある種の知恵を出しながら、交渉の糸口を探り続けてきた歴史でもある。そうした経験も生かしながら、日本政府は新たな糸口を見いだすことができるのか、残された時間はそう多くない。

政治部記者
花岡 伸行
2006年入局。秋田局を経て11年に政治部。その後、函館局を経て再び政治部に。19年から官邸クラブで安全保障や拉致問題などを担当。