察庁法案 見送りの顛末

検察庁法改正案。
検察官の定年延長を可能にするこの法案は、国家公務員法改正案とともに国会に提出されたが、急転直下、今の国会での成立が見送られた。
「ツイッター世論」、野党の抗戦、黒川検事長の賭けマージャン、そして与党の誤算。一連の事態を、追った。
(柳生寛吾、関口裕也)

焦点は「定年延長」

「国民の声に十分耳を傾けていくことが不可欠であり、国民の理解なくして、前に進めていくことはできない」
安倍総理大臣は、5月18日の夜、検察庁法の改正案について、今の国会での成立を見送る考えを表明した――

検察庁法の改正案は、国家公務員の定年を段階的に65歳に引き上げるための法案とともに、一括して審議が行われた。一連の改正案は、少子高齢化が進む中、意欲と能力のある人が長く働ける環境を整えることが狙いだという。検察官の定年も、ほかの国家公務員と同様に、段階的に65歳に引き上げるとともに、内閣や法務大臣が認めれば定年延長を最長で3年まで可能にするものだ。

焦点となったのは、「内閣や法務大臣が認めれば定年を最長で3年まで延長できる」という規定。

野党側は、ことし1月に決定された東京高等検察庁の黒川検事長の定年延長との関係を問題にした。「法解釈の変更による不当な黒川検事長の定年延長を法改正によって、後付けで正当化しようとしている」と批判。「時の政権が恣意的に人事を行うことも可能になり、検察の独立性や三権分立が損なわれかねない」として、強く反発した。

一方、政府は、黒川のこととは何ら関係はないとしている。
また、「従来から、人事権者は内閣または法務大臣であり、法改正の前後で変わらず、恣意的な人事が行われることはない」と反論した。

納得できない野党側は、定年延長を判断する際の基準を法案審議の段階で明確にすべきだと求めた。これに対し、政府は、法案成立後、施行までに新たな人事院規則に準じて、明確にするとした。

野党側は、「今は、新型コロナウイルス対策に万全を期すべきだ」として、この時期の審議自体も批判していた。

審議入りは「10万円」の日

当初、国会での審議は粛々と始まった。審議入りは4月16日の衆議院本会議。この日の永田町は、10万円給付と緊急事態宣言の全国への拡大の話で持ちきりだった。

収入が減少した世帯への30万円の現金給付を盛り込んだ補正予算案を組み替え、10万円の一律給付へと方針転換が行われた日だ。

法案は、付託された衆議院内閣委員会で大型連休前に実質的な審議が始まることはなかった。

発端は5月8日

事態が動く発端となったのは、大型連休明け、5月8日の衆議院内閣委員会だった。
検察庁法の改正案は、国家公務員の定年を段階的に65歳に引き上げるための法案とともに、実質的な審議がスタートした。

しかし、森法務大臣の出席が認められなかったなどとして、立憲民主党などが委員会を欠席。自民・公明両党と、日本維新の会だけで質疑が行われた。

「ツイッター世論」も、検察OBも動く

ここで世論が大きく反応した。
ツイッターには、もともとこの法案を懸念する声が出てはいたが、「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグによって、一気に拡散した。

俳優や作家、ミュージシャンなどさまざまな分野の著名人も含め、抗議の投稿が相次いだのだ。

さらに、検察OBからも反対意見が。
ロッキード事件の捜査を担当した元検事総長ら検察OBの有志14人が、「検察の人事に政治権力が介入することを正当化するものだ」として反対する意見書を法務省に提出。

異例の事態となった。

政府・与党の誤算

しかしこれに与党内の反応は鈍かった。
「ツイッター上の抗議の数だけでは、反発が広がっているかどうかは分からない」
「集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法の時のような大きな反発は感じない」

政府側は、「東京高等検察庁の黒川検事長の定年延長と結びつけられているが、関係ない」、「あくまで、ほかの役所と同様に、検察官などの定年も延長できるようにするために、法務省が提出したものだ」と主張。

この時点では、まだ政府・与党内では、強気の声が少なくなかったのだ。

こうした政府・与党内の雰囲気には、ある背景があった。カギは、検察庁法改正案とあわせて審議が行われた国家公務員法改正案だ。こちらは検察官や自衛官などを除く国家公務員の定年を段階的に65歳に引き上げる法案。
公務員の定年の引き上げには、官公労=公務員の労働組合からの待望論が強かった。

「国家公務員法改正案と一括で審議すれば、最後は押し切れる」と与党側が油断したわけではないだろうが、差し迫った緊張感は感じられなかった。審議入りの段階で、国家公務員法改正案と検察庁法改正案の一括での審議に、強い抵抗がなかったことも、この雰囲気を後押しした。

しかし、このあと、政府・与党にとっては、誤算が重なることになる。

野党側は、検察官の定年延長を可能にする規定が削除されなければ、採決を阻止するため、内閣委員長の解任決議案を提出することを検討。

与党側は、衆議院本会議での採決は翌週に先送りすると譲歩した。

世論を背に、野党が抗戦

5月15日。
この日、衆議院内閣委員会には、野党側の求めに応じて武田国家公務員制度担当大臣に加え、森も出席。

与党側は、質疑のあと、委員会で採決を行いたいと提案した。野党側が、「採決は認められない」と反対するのは、もちろん織り込んでいたが、自民党内には、「野党側は不信任決議案などは出さない。採決は可能だ」という見方があった。

しかし野党側は、衆議院内閣委員会の理事会が開かれている最中に、突然、武田大臣に対する不信任決議案を提出。その結果、委員会での採決も見送られた。

野党側は、世論が追い風になっているとして、徹底抗戦する構えをみせた。

政府・与党の戦略変更

委員会での採決も行えなかったことで、政府・与党は、戦略の変更を迫られた。

野党側が、当初検討していた内閣委員長の解任決議案などを今後、提出すれば、そのたびに採決は遅れる。衆議院通過後の参議院での審議も考えると、6月17日までの今の国会の会期内に成立させることができるか、危機感を募らせていた。

翌16日(土)の夜。
菅官房長官と、自民党の森山国会対策委員長、林幹事長代理の3人が極秘に会談し、対応が話し合われた。

その結果、国家公務員法改正案も含めた法案全体を継続審議にして、今の国会での成立を見送ることも選択肢に浮上する。

翌日の17日(日)には、菅が安倍に会談内容を報告した。
ただ、この時点では、菅らはあくまでも審議を進めていく姿勢を示し、野党側の対応を見極めながら、最終的に判断する考えだったという。

この夜、朝日新聞の世論調査の結果が伝えられた。

内閣支持率が前月の41%から33%に下落(本記事の発行時点ではさらに下がり29%)。検察庁法改正案に「賛成」は15%、「反対」は64%だった。

「ジャンプしていい」

こうした中、週明け18日(月)、事態は大きく動くことになる。
この日の朝刊1面トップで読売新聞が「今国会成立を見送る案が政府・与党内で浮上」と報じた。「世論反発に配慮、近く最終判断」との小見出し。

成立を目指してきた与党幹部の間では、「おかしな話だ」「寝耳に水だ」といった声が相次いだ。
「見送れば、これまでの説明が間違っていたことになる。会期を延長してでも成立させるべきだ」といった意見まで聞かれた。

一方で、週末に協議を重ねていた菅と森山、林は連絡を取り合い、対応の検討を急いだ。昼には、森山と林が二階幹事長とともに衆議院議長公邸を訪れ、大島議長とも面会した。

6月に入ると、新型コロナウイルスの感染拡大で、追加の経済対策を盛り込んだ第2次補正予算案の審議が控えている。ある自民党の幹部は、「検察庁法の改正案で国会が止まり、何も進まなくなる」と述べるなど、野党や世論を押し切って、採決に踏み切れば、政権にとって打撃となりかねないと懸念する声が出ていた。

そしてギリギリの調整を進めた結果、二階は「ジャンプ(見送り)していいんじゃないか」と述べたという。

午後3時前、安倍と二階が総理大臣官邸で会談。国民の理解なしに国会審議を進めることは難しいとして、今の国会での成立を見送る方針で一致した。

この日のニュース7で、NHKは15~17日に行った世論調査の結果を放送した。

内閣支持率は37%、不支持が45%。不支持が支持を上回るのは、おととし6月以来だ。
検察庁法改正案への賛否は、「賛成」が17%、「反対」が62%だった。

ある自民党の幹部は、こう漏らした。
「新型コロナウイルスの影響で地元に帰って有権者の声を十分に聞くことができず、世論を感じきれなかった」

新型コロナウイルスへの対応をめぐっても、10万円の一律給付に変更し、閣議決定した補正予算案を組み替えるなど、う余曲折する場面があった。

自民党内からは、「安倍総理大臣の求心力に影響が出て、『安倍1強』とも言われた政治情勢が変化しかねない」といった声もあがった。

黒川、辞職

さらに驚くことが起きる。
見送りの翌々日の20日。
「文春オンライン」が、「東京高等検察庁の黒川検事長が、新型コロナウイルスの感染拡大で外出自粛の要請が続く中、今月、東京都内で、新聞記者と賭けマージャンをした疑いがある」と報じたのだ。

与野党双方から一斉に「事実なら辞任すべきだ」という声が上がった。

森が「文春オンライン」の記事が出ることを知ったのは、前日19日。一方、黒川氏が「文春」から確認取材を受けたのは17日で、その日のうちに黒川は法務省の事務方に報告している。2日間の空白があったことについて、森は、なぜすぐに報告してこなかったのだと法務省幹部を叱責したという。

そして黒川は21日、緊急事態宣言中に賭けマージャンをしていたことを認め、辞表を提出した。

立憲民主党の枝野代表は、強く批判した。
「定年延長できないという従来の解釈を国民にも、国会にも説明なく、こそこそと脱法的に変えて黒川検事長を在職させた判断の責任が問われる」

「今後、東京高等検察庁の検事長を誰かに代えるなら、政府の『黒川氏は余人をもって代えがたい』という説明は何だったのかと思う」

野党側は、「辞職での幕引きは許されない」として、黒川氏の定年を延長した政府の責任を徹底して追及するなど、攻勢を強めている。

これに対し安倍は、定年延長の手続きに瑕疵(かし)はないとする一方、「最終的には内閣で決定するので、総理大臣として当然、責任はある。批判は真摯に受け止めたい」と述べた。

また、検察官も含めた国家公務員の定年を段階的に引き上げる法案について、「国民の理解なくして前に進めることはできない。社会的な状況は大変厳しく、法案を作った時と状況が違うという意見が自民党にもある」と述べ、取り扱いを再検討する考えを示した。

与党内からは、「黒川の辞職で政権へのダメージは避けられない」という声や、「検察庁法の改正案も仕切り直しで、むしろハードルは上がった。この国会で通しておくべきだった」という声さえ聞かれる。

苦しい答弁続く

一方の法務省。
定年延長を可能にする規定は、去年10月の段階では盛り込まれておらず、去年秋の臨時国会で法案が提出に至らなかったことから再検討し、追加された経緯がある。
野党側は、「黒川検事長の定年延長を後付けで正当化するものだ」などと、この点を最も強く批判していた。法務省は、検察官の定年延長を可能とする解釈変更は黒川の定年延長を決める前の1月中旬に検討したため、法案とは直接的な関係はないとしているが、そのことを明確に示す資料などは国会に示さず、苦しい答弁にならざるを得ない状況だった。

検察庁法の改正案の成立見送りが決まったあと、法務省内では、次の国会に備えて、定年延長を判断する際の基準作りに着手し、すでに複数の案を作成している。
しかし、黒川の辞職や、法案の取り扱いの再検討などの動きを受け、ある幹部からは、「今の改正案では次の国会でも批判は避けられない。もう定年延長の規定はなくしてもいいのではないか」という声も出ている。

今後は

検察庁法の改正案は、継続審議として次の国会で成立を目指すのか。それともいったん廃案にして、内容を再検討するのか。

与党側は、「現時点では、法案を継続審議とする方向だが、決まったわけでなく、国会の会期末に結論を出したい」としている。

一方で、黒川の辞職をめぐっては、国会で野党側の追及が続き、黒川への「訓告」処分が「軽すぎる」という批判もあがっている。

訓告処分にした決定過程をただす質問に、森は「検事長の監督者である検事総長に対し、法務省の意見として訓告が相当と考える旨を伝えた。その結果、検事総長から私に対し、検事総長としても訓告が相当であると判断するという連絡があった。訓告の処分内容を決定したのはあくまで法務省と検事総長だ」という答弁を繰り返している。

複数の法務省関係者によると、黒川氏から辞表が提出される前日の20日、本人から辞意が伝えられ、法務省内で、大臣、副大臣に事務次官らで協議が行われた。この場で、事務次官が処分を訓告とする案を示したのに対し、森は「懲戒処分の戒告に当たるのではないか」と指摘したという。しかし協議の結果、過去の処分例などから、訓告よりも重い懲戒処分には当たらず、訓告が妥当だという結論に至った。協議に参加した幹部の1人は、「その時点では、本人が辞めるので、武士の情けではないが、懲戒免職と同じことだと思った」と振り返る。
翌21日に「黒川辞職」を安倍に報告する際、森はこの協議の経緯と、最終的に自ら了解したことを説明したと、複数の政府関係者は話している。

検事長を法律上、懲戒処分にできるのは、任命権者である内閣だけだ。もし報告を受けて「軽い」と判断すれば、法務省に再検討を指示することもできた。訓告処分の判断について安倍は「検事総長が事案の内容など諸般の事情を考慮して、適正に処分を行ったものと承知している」と述べるにとどまっている。

野党側は、「処分を決めたのは誰なのか」、「官邸の関与はなかったのか」に狙いを定め、追及を強めている。

さらに、賭けマージャンをめぐり、常習賭博などの疑いで黒川前検事長らを刑事告発する動きが相次ぎ、検察当局は、今後、詳しい経緯について捜査を進めるものとみられる。
森は26日、裁判官や弁護士に加え、有識者も参加した新たな会議「法務・検察行政刷新会議」(仮称)を設け、検察に対する信頼回復を図るための方策を検討していく方針を明らかにした。

今回の処分に世論は強く反発しており法務・検察当局、安倍内閣の信頼は大きく傷つくことになった。信頼を回復する道のりは険しいものになると言わざるをえない。
(文中敬称略)

政治部記者
柳生 寛吾
2012年入局。長崎局を経て、18年7月から政治部。法務省を担当。
政治部記者
関口 裕也
2010年入局。福島局、横浜局を経て政治部へ。自民党二階派を担当。