京五輪・パラ 1年延期の裏側

新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、1年延期され、来年7月23日の開幕が決まった東京オリンピック。IOC=国際オリンピック委員会が、初めて延期の可能性に言及し、4週間以内に結論を出すと発表したのが、3月22日。そのわずか2日後に、延期は決まった。

長いオリンピックの歴史の中でも、「中止」されたことはあっても、「延期」されたことはない。安倍総理大臣ら政府関係者の最大の懸念は「東京大会の中止」だった。

「延期」決定の裏では、一体、何があったのか――
(岩田明子、馬場直子)

実は3月12日から「延期」を…

政府が延期に向けて動き出したのは、3月12日のことだった。

ギリシャで聖火の採火式が行われたこの日、安倍は、総理大臣官邸で東京都知事の小池と会談した。表向きは、感染が拡大している新型コロナウイルス関連で、東京都からの緊急要望だった。

しかし、ひそかに「福島県で聖火リレーがスタートする26日までに、日本が主導してIOCと話をつける必要がある」という認識で一致した。政府関係者は、「総理は、日本に上陸する聖火を消すわけにはいかないと思い、中止という最悪の事態だけは避けたいと決意したのではないか」と解説する。

さらに同じ日には、アメリカ大統領のトランプが、東京オリンピックについて、「無観客など想像できない。1年間延期したほうがよいかもしれない」と発言。トランプは、それまで日本政府の判断を尊重する考えを示していたが、初めて延期に言及した。

予定通りに開催するか、中止か、延期か。最終的な判断を下すのはIOCだが、IOCへのアメリカの影響力は大きい。政府は、トランプが言及したのが「中止」ではなく「延期」だったことに注目した。

翌13日、安倍は、トランプと電話で会談。
「無観客での開催はあり得ず、世界中の人々に感動を与えるようなオリンピック・パラリンピックにしたい」と述べ、開催に向けて努力する考えを伝えた。

これに対して、トランプは、「シンゾーに100%同意するし、1000%支持する。日本の成功を確信している。美しい東京、国立競技場でオリンピックが開催されることを楽しみにしている」と応じたという。

キーワードは「完全な形」

安倍は16日に行われたG7首脳によるテレビ会議で、「完全な形」というキーワードを使って東京大会の開催に理解を求めた。

「完全な形」とは、無観客や中止はあり得ないという意味だが、あえて開催時期に触れないことで延期は容認するとも解釈できる。

安倍は、テレビ会議の前に、大会組織委員会会長の森とすり合わせ、この表現を用いることを決めたという。
そして、テレビ会議では各国首脳に対し、「コロナウイルスに打ち勝って、『完全な形』でオリンピック・パラリンピックを行うことが一番重要だ。G7首脳の共通理解にして、支持と連帯を示してほしい」と要請。

イギリス首相のジョンソンは、満面の笑みで親指を立てて「グッド・ラック!」。トランプも手を上げて「グッド・ラック!」と続き、ほかの首脳たちも次々に賛同した。日本政府の望む、G7として「中止はあり得ない」と解釈できるメッセージが送られる結果となった。

政府関係者は、「総理の頭には、この時点ですでに延期というシナリオがあったと思う。ただ、日本側から延期を提起すれば、追加経費を負担させられるという懸念もあった」という。

別の関係者は、この時点での政府内の状況について、「規模を縮小して『こぢんまり』と開催することを検討していた。延期という言葉を紙に書くのもはばかられる雰囲気だった」と証言する。

安倍が「完全な形」を強調したことで、政府内の相場観も急速に変化していったことがうかがえる。

欧米の感染拡大で、ようやく「別のシナリオ」に

一方のIOC。
予定通りの開催に懸念が出始めてからも、中止や延期といった「プランB」は否定し続けていた。

一部の委員から「5月末までに収束しない場合は、開催は難しい」などの発言はあったものの、政府関係者によると「砂地に水がしみこむように消えていった。3月前半には予定通り開催できるかもしれないという雰囲気もあった」という。

雲行きがあやしくなったのは、欧米で感染が急速に広まった3月半ばだ。IOC本部のあるスイス・ローザンヌでも感染が確認された。

しかし17日に開かれた臨時の理事会では、「いまは抜本的な決定をすべき時ではない」として、予定通りの開催を目指す方針を維持。これに対し、各国の選手や競技団体などからは、「安全性や公平性の観点から延期すべきだ」という声が相次ぎ、IOCの姿勢を疑問視する声がさらに強まった。

2日後の19日。
IOC会長のバッハは、メディアのインタビューに「別のシナリオを検討している」と予定通りの開催以外の可能性に初めて触れた。

日本の事務局幹部は、「この時点で『延期だ』と確信した。予定通り開催という主張は、もうもたないだろうなと思った」と語る。

中止回避は「思惑の一致」

事態が大きく動いたのは、22日。

組織委員会の森が、バッハとの電話会談で、「完全な形での開催」を目指す日本の考え方を改めて伝えると、バッハは「選択肢として中止はない」と明確に答えたという。

森は、すぐに安倍と小池に伝えた。

日本にとって最大の懸案だった「中止」は、回避された。

この日、IOCは、電話会議の形式で臨時の理事会を開き、「大会の延期を含めた検討を始め、4週間以内に結論を出す」と発表した。このIOCの判断に、安倍は即座に呼応した。

翌23日午前の参議院予算委員会で、「完全な形での実施という方針に沿うものだ」と評価した上で、「仮に、それが困難な場合には、アスリートのことを第一に考え、延期の判断も行わざるを得ないと考えている」と答弁した。

この一連の流れについて、政府関係者は、「中止を回避したい日本側と、組織内外から追い込まれていたバッハ会長との思惑が一致した結果だ」と指摘する。

これで延期の流れは一気に加速。焦点は「いつまで延期するのか」という点に移る。

「4週間もかけていられるか」

ところが、IOCが結論を出すまでの期限を「4週間以内」としたことに、国内外からは、もっと早く結論を出すべきだという意見が相次ぐ。

政権内からも、「アスリートの心中を察するにあまりある。アスリートファーストなら、とにかく早く決めてほしい」という声が上がった。

事務局幹部は、「4週間もかけていられるのかというのが、日本関係者全員の認識だった。決定時期を延ばせば延ばすほど、選手や各国のオリンピック委員会の心が離れていくと思った」と振り返る。
そこで持ち上がったのが、安倍とバッハとの電話会談だった。

安倍・バッハ会談

24日夜。
総理大臣公邸の一室には、安倍をはじめ、森、小池、それに官房長官の菅、担当大臣の橋本らの姿があった。

政府関係者などへの取材をもとに、安倍ーバッハの電話会談を再現する。

電話会談のセッティングは、短時間で行われた。同席者の中には、当日に声がかかった人もいたという。

政府内では、会談の行方を不安視する関係者も少なくなかった。事務局関係者は、「総理がどんな発言をするのかは一握りの人しか知らなかった。官邸上層部だけで話が進んでいった」と証言する。

そして、午後8時――

電話の向こうのバッハに、安倍は冒頭、切り出した。
「東京大会に向けた私たちの強い思いを伝えたい。議論の行方を世界が固唾を飲んで見守っている。アスリートたちの不安は察するに余りある。バッハ会長から、『中止はない』という決断を森会長にお伝えいただいたことは希望の光を灯すものだった」

その上で、腹案を告げた。
「アスリートたちの準備期間や東京都の事情などを考えると、『1年程度の延期』を軸に検討するのはどうだろうか。新型コロナウィルスに打ち勝った証として、完全な形で大会を実施したい」
安倍の口調は淡々としていた。

対するバッハ。
「安倍総理の情勢把握、分析、そして結論に100%賛同する」

張り詰めた部屋の空気が和らいだという。バッハは続けた。
「日本だけの情勢を見る限り、見事なマネジメントによって、この夏の開催へ確固たる信頼は揺るがなかった。ただ、ここ数日の急速な感染拡大と世界情勢の変化が、私の判断を変えた。安倍総理の結論に完全に同意する」

そしてバッハは、
◇東京大会は中止はせず、遅くとも2021年夏までに開催すること、
◇聖火は希望の象徴として、開催まで日本に留め置くこと、
◇「TOKYO2020」の大会名称は維持すること、
を提案した。日本にとっては、満額以上の回答だった。

IOCの臨時理事会を待たず、バッハが全面的な同意を示したのは異例とも言える。電話会談の終了後、安倍と小池はグータッチをして別れた。

電話会談のあと、安倍は記者団に対し、「完全な形で東京大会を開催するためにバッハ会長と緊密に連携していくことで一致した。日本は、開催国の責任をしっかりと果たしていきたい」と述べた。

この合意劇は政権内でも驚きを持って受け止められた。
会談に同席した政権幹部は、「まさか延期幅まで決まるとは思っていなかった」と語っている。

なぜ「1年」 背景にトランプ発言

ところで、安倍の提案は、なぜ「1年程度」だったのか。

延期時期をめぐり政府内では、「年内」「1年後」「2年後」の3つの選択肢があった。
「年内」は、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に歯止めがかかるか不透明なこと、「2年後」は、選手の準備期間が長くなりすぎることなどに懸念があり、「1年」を提案したというのが大勢の見立てだが、少し異なる見方もある。

ヒントは、先にも触れた12日のトランプの発言だ。

確かにトランプは「1年」と期限を区切って提案している。安倍は、ここにアメリカの本音があるのではないかと注目したと解説する関係者もいる。
「スポンサーやテレビ放映権などを背景にアメリカはIOCに強い影響力を持つ。トランプさんが1年と言ったから、それに乗って行ったという要素はある」

バッハとの電話会談の翌日、安倍はトランプと電話で会談し、報告と謝意を伝えている――

「7年かけてやったことを半年で」

日本政府にとっては望ましい結論となったが、オリンピックの長い歴史の中でも、「延期」という例は一度もない。来年の開催を成功裏に実現させるためには、なお高いハードルがいくつも残っている。

まずは、世界的に猛威をふるう新型コロナウイルスが1年以内に収束していることが必須の条件になる。さらに施設の確保をはじめ、ボランティアやチケットなどの大会運営上の問題、追加経費の負担など、課題は枚挙にいとまが無い。

組織委員会は26日、こうした課題を整理するための「新たな出発 東京2020大会実施本部」を立ち上げ、森は冒頭で強調した。
「我々はかつてない挑戦にこれから臨むことになる。これまで7年かけてやったことを半年ぐらいでもう一度挑戦する難しさがある」

安倍は28日の記者会見で、日本にやってきた聖火に触れた。
「この聖火こそ、今まさに私たちが直面している、長く、暗いトンネルの出口へと、人類を導く希望の灯だ。人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、来年のオリンピック・パラリンピックを必ずや成功させていきたい」

聖火が東京に灯る日まで、さらに険しい道のりは続く。
(敬称略)

政治部記者
岩田 明子
1996年入局。岡山局から00年に政治部。官邸、自民党、外務省など取材。現在は政治・外交担当の解説主幹も兼務。
政治部記者
馬場 直子
新聞記者を経て2015年入局。長崎局を経て19年から政治部。現在は官邸クラブで総理番。橋本五輪担当相も担当。