35分間に何が 大槌町の真実

“35分間” その時、何が起きていたのか。
津波に襲われた岩手県大槌町。町長をはじめ40人の職員が命を落とした。
なぜ、逃れることが出来なかったのか。その状況、判断、9年前に生き残った職員たちが、いま証言した。
(市毛裕史、倍井智史、林沙羅)

その時の判断は、謎のまま

2011年3月11日。

大槌町役場は高さ10メートルを超える津波に襲われ、庁舎の2階まで津波にのみこまれた。その時の写真、屋上には、間一髪逃れた職員の姿が写っている。

職員の約20%に当たる40人が犠牲になった。28人が庁舎で、11人がそれ以外の場所で亡くなった。その後、震災が原因でみずから命を絶った職員も1人いる。

あの日、何が起きていたのか。町は2度にわたって検証し、職員の危機意識が欠けていたと結論づけた。

しかし初動の対応について、誰がどう判断したのかは不明確なままだった。生き残った職員たちは、町民やメディアから批判を受け、口を閉ざしていった。

「何しゃべっても、何をどう言っても、もう弁明は効かないことになってしまったので」(当時の副町長・東梅政昭)

一方で町民や遺族の求める声もあり、町は去年8月に『震災記録誌』を発刊。職員の実名での証言が掲載された。今回、取材班はその『記録誌』の元になった文書を情報公開で入手し、当時の幹部を含む30人以上へ取材を行った。そして、あの日の全貌が見えてきた――

午後2時46分:生死の分かれ目

午後2時46分、地震発生。

当時の大槌町役場には「本庁舎」、「東棟」と「西棟」、そして「裏庁舎」と呼ばれる木造の庁舎があった。

その日、働いていたのは100人ほど。揺れの直後、職員たちの生死を左右する最初の分かれ目があった。

いち早く役場から動きだしたのは、「裏庁舎」にいた福祉課の職員だった。

福祉課の班長だった越田由美子が、その時を証言した。
「どうしたらいいのかっていうことを、班の仲間たちと話をしていたんです。すると誰かが、『逃げるよ、貴重品持って』と言ってくれて」

揺れが収まると、越田たち十数人が庁舎から飛び出した。
向かったのは、歩いて10分ほどのところにある海抜34メートルの中央公民館だった。

その行動には理由があった。よりどころとなったのは、災害時の職員の業務を定めた地域防災計画。

計画では、「役場庁舎が被災し、災害対策本部として使用に耐えないと見込まれた場合は、高台にある中央公民館に本部を置く」とされていたからだ。

一方、「東棟」の1階にいた新人職員の三浦義章。総務課で広報担当だった三浦は、被害の状況を記録するよう言われていた。

「蛍光灯が落ちてガラスが飛び散っていたのが一番驚いたことで、本当に崩れるんじゃないかっていちばん最初に思いました」

しかし多くの職員は、中央公民館には向かわず、役場庁舎にとどまっていた――

午後2時51分ごろ:「情報収集のためとどまる」判断

大槌町の今の町長、平野公三。震災当時、総務課に所属し防災担当の実務責任者だった。

地震発生時、「東棟」2階にいた。築50年を越えた庁舎。平野は建物が倒壊する危険を感じていたという。

すぐに平野は庁舎前に出た。そこには30人ほどが集まっていた。なぜ、高台に避難せずとどまったのか。

平野も、中央公民館に災害対策本部を設置する想定があることは知っていた。しかし県などと連絡を取るためには、庁舎の近くにいることが望ましいと考えた。

「役場の建物自体は崩れていなかったし、倒れてこないか注意しながら、集まってそこで情報収集をするという判断をした」

そして庁舎前に、災害対策本部が置かれることが決まった。

午後2時56分ごろ:「3mの津波」の情報

地震発生からおよそ10分後。

「ただいま沿岸に大津波警報が発表されております」

町の消防が気象庁の発表をもとに避難を呼びかけていた。この頃、ラジオからも新たな情報が流れてくる。岩手県に「3メートルの津波」が来るという気象庁の予想だった。この「3メートルの津波」という情報の受け取り方が、職員によって違っていた。

高台に避難した越田は、津波は3メートルを超えると感じていた。

頭に浮かんだのは、60年前のチリ地震津波だ。当時、越田は役場近くに住んでいて、庁舎が浸水する様子を目の当たりにしていた。

一方、庁舎前にいた職員のほとんどは、この情報を安心材料として受け取っていた。当時、副町長だった東梅政昭。頭に浮かんだのは、高さ6.4メートルの町の防潮堤だった。

「3メートルというのを聞いて、6.4メートルの堤防があれば、それは大丈夫だという意識があって。大丈夫かなというぐらいな、漠然とっていうのかな、そういう気持ちだけでした」

さらに震災の1年前にチリで起きた地震の経験も「ここにいても大丈夫」と思い込ませることになった。当時、岩手県にも大津波警報が出たが、大槌町に来た津波は1.5メートル以下。役場庁舎は浸水もしなかった。

「気象庁がこれまで注意報、警報なりの津波の高さを発表して来てもその半分とか3分の1ぐらいしか来なかった。なので、3メートルって津波の高さ聞いて、堤防以内だなと」

午後3時12~16分ごろ:津波の映像が

地震発生からおよそ26分後。
隣接する釜石に津波が到達する様子が、携帯電話のワンセグに映し出されていた。

しかしそれでもなお、現場は逡巡(しゅんじゅん)していた。

教育長だった伊藤正治、災害対策本部の副本部長だった。地震発生時、教育長室のある高台の中央公民館から、役場庁舎に駆けつけていた。

伊藤は庁舎前の様子を確認したあと、庁舎の2階にある潮位計を見に行った。すると、そこに当時の加藤町長がいた。

伊藤は当時を振り返り、自分たち幹部がリーダーシップを取れなかったと悔やんでいる。

「町長も潮位計のところにいて、『町長は下に』ということで、町長は下に。本部長ですので、町長は潮位計を見る係ではないわけですよね。町長も私もそこにいるべきではなかった」

その後も幹部会議は開かれないまま、時が過ぎていった。岩手県庁との通信が途絶え、公式な情報が届かない状況が続いた。

午後3時16分ごろ:庁舎前に机、なぜ

地震発生からおよそ30分後。
この時、庁舎前では机やいすを運び出す動きがあった。

机を出した1人、赤﨑仁一(当時、議会事務局長)は、幹部の災害対応を促そうとしていたという。

「町長が来て、総務課長が座って、私が座って、いろんな指示が出るようにと。とにかく早く会議をして町民を安全な場所に避難させるとか。あそこで会議をするという頭しかなかった」

新人職員で記録係の三浦が語る。
「官公庁からの情報が取り切れていなかったと思います」

「普段だとボードにどこで何があって、何時に誰から通報という記入がどんどん書かれるんですけど、全然、白紙のままで。震度いくらとか、それすら書かれていない状態」

「情報集めのためにみんな右往左往している状態でした」

午後3時21分ごろ:津波襲来

地震発生からおよそ35分後。
「ただいま沿岸に大津波警報が発表されております」

消防が再び避難を呼びかけた。副町長の東梅の頭には、現場で災害対応にあたる人たちのことがあった。

「消防団とかいろんな人が防災業務をやっていると、水門がどうしても閉まらないとか、いろんなアクシデントで災害対策本部に問い合わせてくることがあるんです。そういった方々を見捨てて避難するっていう気持ちは到底考えられませんでした。我々が避難してそこにいなかったら防災業務が崩れてしまうんで」

ようやく高台への移動を意識し始めた職員がいた。平野だ。住民が避難する姿を目にし、上司の総務課長に移動を相談。総務課長は高台への移動を大声で呼びかけたという。

その直後だった。職員の一人が「津波だ」と叫び声をあげる。庁舎前の職員たちは町中から異様な土煙が上がるのを目にした。とっさに庁舎の中に逃げ込むしかなかった。

新人職員の三浦は2階へ駆け上がった。庁舎に津波が押し寄せる中、夢中でシャッターを切り続けた。

「ちょっと振り返って見たら、隣の道路から家が流れてきたという。撮ったんですね、思わず」

その直後、三浦は津波にのまれた――

庁舎に駆け込んだ職員の多くは、屋上を目指した。しかし屋上に登る方法はハシゴしかなかった。たどりついたのは15人だけだった。

15人のうちの1人、平野はそのときの状況をこう語る。

「亡くなっていく、目の前で沈んでいく職員も見ています。飛び込んで、助けたいなという思いはありました」

「なんかこう、距離的に大したことないので、ジャンプして、そこに降りて引っ張ってやろうかなという思いありましたけど、できませんでした」

一方、三浦は溺れかけていた。

「息も続かないので、もう肺に水を入れてしまって意識を飛ばした方が楽かなと思って、水をわざと飲んでみたりした。たまたま足を伸ばしたら、窓があった」
窓から外へなんとか脱出した三浦は、屋上にいた職員たちに引き上げられた。

地震発生直後、庁舎からすぐに高台へ避難した越田。これまで複雑な思いを抱き続けてきた。
「逃げて本当に良かったのだろうかと思うときもありました。(もしあのとき、庁舎前に行ったとして)他の職員に『だめだよ』って避難を呼びかけるひと言が言えたのかどうか」

「もしかしたら、そのひと言が言えたとしたならば、みんな行動に移せたのかなとか。逆に言えないままに、自分も多分流されていたのかなとか」

津波後:職員失い、被災者支援にも支障

町長を含め、幹部8人が命を落とした大槌町。町の再建に大きな支障をきたすことになる。

40近い避難所を限られた職員で運営した。負担が集中した職員の多くは、心身ともに不調になり、離職する人が相次いだ。

いまは町長となった平野が語る。
「こんなに多くの人たちが亡くなってるのに、涙一つ流せなかった。泣くべき時に泣かないと、心は壊れていく。壊れていく職員たちの音が聞こえました。見えない心の傷はどうしようもないんです」

「決して、そういうことは二度とあってはならないこと。ですからいつも思う『ごめんなさい』って。おれ自身がもっと頑張ってやれれば助かった命を助けられた。亡くならなくてもいい命をなくしてしまった」

震災発生から9年。町は新たな取り組みを始めた。津波で亡くなった職員の遺族からの要望を受け、一人ひとりの最期の状況を詳しく調べ、遺族に伝えようとしている。東日本大震災の被災自治体でも異例の調査だ。

去年12月、平野町長は、津波被害のリスクが高い静岡県の富士市を訪れ、職員たちを前に講演を行い、こう訴えた。

「われわれの失敗というのは、災害を自分事として学んでこなかったこと、そして自分たちの危険や危機を気にしてこなかったことが大きな原因であろうと思います。私たち支援する側は、組織をあげて住民の身体・生命・財産を守らなければなりませんが、職員の命を守る取り組みがおろそかであったことが被災対応の遅れの原因になったと思います。肝に銘じて、ぜひ対応をお願いできないだろうかなと思います」

大槌町のあの時が語るもの

大槌町は震災の教訓を踏まえ、津波が予想されるときには、高台にある中央公民館に災害対策本部を置くと明記した。
「大津波は来ない」と思い込んだ結果、多くの職員を失った、この悲劇を2度と繰り返さないためだ。

今回の取材で特に印象的だったのは、それぞれの職員が今でも亡くなった同僚のことを思い続けていることだ。元副町長の東梅政昭は、毎日の日課である犬の散歩中に亡くなった課長の家を通る時、そしてお風呂に入れば、昔一緒に銭湯に通った職員たちのことを思い出すと絞り出すように話してくれた。

町長の平野公三は、忘年会や新年会で若い職員が歌っていると、亡くなった職員の顔がダブることがあると話す。

「いつまでも顔は若いです。もう9年もたってるのに、顔は一緒だ。自分だけ年とったなあという思いがあります」

大槌町のように役場が津波の浸水域にある自治体は、全国にいまなお多くある。

日本各地にいつ襲うかも知れない大災害。そのとき、組織の一員として、どう行動すればいいのか、そして、災害が起こる前に何をすべきなのか。

被災地の町から問いかけられた、重い課題だ。
(文中敬称略)

釜石支局記者
市毛 裕史
2015年入局。佐賀局を経て18年8月から釜石支局。被災地の釜石市や大槌町を担当。

仙台局ディレクター
倍井 智史
2007年入局。青森局・報道局を経て18年8月から仙台局。三陸沿岸を取材し、震災関連番組を制作。
盛岡局ディレクター
林 沙羅
2017年入局。盛岡局が初任地。大槌町など被災地の取材を重ね、震災関連番組を制作。