んどきゃよかった」

「死んどきゃよかった」
いきなり胸をえぐられた。福島の叫びだ。
大震災、原発事故。耐えがたい苦痛を乗り越えようとしていた人々が、再び災厄にみまわれた。
その現場へ向かった私の憤りも、自問自答も、ありのままに記す。
いま何ができるか、皆さん一緒に考えてほしい。そして政治よ、いまこそ動いてほしい。
(佐久間慶介)

“枝野番”の休日

10月13日(日)
その日テレビは、堤防が決壊し、濁流が流れ込む各地の様子を伝えていた。
長野、埼玉、福島、宮城、ほかにも…被害の全体像はどれほどだろうか。

その時、野党キャップから、クラブのメンバー全員のスマホにメッセージが入った。
「応援取材の可能性あり、各自準備を」という。

私のふだんの仕事を端的に説明すると、「立憲民主党の枝野代表の番記者」だ。
2年前に東京の報道局政治部に異動し、今は「野党クラブ」の一員である。日夜、枝野代表の動向を取材し、原稿を書く。
この週末は、台風の影響で枝野代表の講演がキャンセルされたこともあり、都内の自宅で過ごしていた。

しかし、前日の12日から避難準備情報などのエリアメールでスマホがけたたましく鳴り、NHKも24時間態勢で、台風19号の情報を伝えていた。
「記録的な大雨や暴風で、甚大な被害が発生する恐れ」
明らかにふだんとはモードが違う伝え方だった。

そしてこの日、見たこともない“同時多発氾濫”が、現実のものになってしまった。

前日「“ふるさと”へ」

10月14日(祝・月)
この日は枝野代表が、立憲民主党の新潟県連大会に出席した。枝野番としては当然、同行して発言の一言一句まで聞き逃さぬようウオッチする。

東京に戻ったのは、夜7時すぎ。枝野代表はそのまま国会に。

私も国会に向かうと、党の役員が全員集まり、ふだんより緊張した面持ちで座っていた。被災地で情報を集めてきた議員たちが帰京、緊急で被害状況などの報告を受けていたのだ。

党としての対応はどうするのだろう…取材をしているさなか、キャップから電話があった。

「明日から福島に応援に行ってほしい」

福島か…

私にとっての「第2のふるさと」は、福島県だ。
NHKに入局したのは2012年4月。そう、東日本大震災が発生した翌年だ。
福島第一原発の事故による原子力災害も続くなか、私は福島放送局に赴任した。

そして5年間、復旧・復興に向けて力強く生きる人々や、その一方で、力尽きてしまう人々を取材した。

その程度で「ふるさと」か、と叱られるかも知れないが、記者にとって最初の赴任地は特別なものだという意識が強い。その土地の人々を取材し、地域とつながることが大切だからだ。
だから取材のイロハを覚え、記者としても、社会人としても独り立ちをさせてもらう「初任地」を、私たちはしばしば感謝を込めて「第2のふるさと」と呼ぶ。

その福島が再び大きな被害を…急いで福島放送局に連絡すると、いわき支局に入ってくれという。

午後10時、帰宅して、着替えやパソコンをキャリーバッグに詰め込んだ。

今回は「第2のふるさと」への気楽な「里帰り」ではない。
いやおうなしに緊張が高まった。

1日目「政治家に伝えて!」

10月15日(火)
午前9時53分、東京駅発。常磐線の特急「ひたち」でいわき駅を目指す。

車内で福島県内の被害状況に関係する原稿を確認した。
「本宮市や郡山市などで18人死亡、4人行方不明」
主戦場は本宮市や郡山市か、と漠然と考えていた。

ただ、ツイッターをチェックすると、いわき市の人たちの投稿も目についた。
いずれも、深刻な被害の実態を伝え、支援を求めるものだった。
いったい、どのように取材を展開すればいいのだろうか。

午後0時7分、いわき駅に到着。
駅前を見回す。人影は少ないが、ふだんと変化を感じられなかった。

まずは歩いて10分ほどの距離にある支局を目指す。
その途中、コンビニエンスストアに立ち寄ると、パンや弁当などの品ぞろえは十分だった。物流は途絶えていないようだ。

ただ、店頭販売のコーヒーが断水の影響で販売を中止していた。
トイレも同様に使用禁止。確実に、いわきにも災害の影響は出ていた…

いわき支局は、かつて毎日出勤した古巣だ。
懐かしんでいる暇もなく、現場取材を指揮するデスクから指示を受けた
「いわき市長が市内で7人が亡くなったと発表した」

「すぐに現場へ行ってくれ」
支局を飛び出し、市内で最も被害が大きかった平下平窪地区へ向かった。

地区では近くを流れる夏井川が氾濫し、堤防も決壊。
多くの家屋が浸水し、犠牲者を出していた。

現場は、辺り一面泥だらけだった。泥の一部が乾いて、粉じんも巻き上がっている。
歩いているだけで、口の中がざらつき、むせてしまう。

マスク姿の住民が泥をかき出し、家具や畳などを家から運び出していた。
それらを軽トラックに載せて、臨時のゴミの集積所へと運んでいく。

作業をしている人たちに、話を聞いてみた。

「家にいたらあっという間に1階が水でいっぱいになり、2階に避難した。死ぬかと思った」(70代男性)
「震災以来、またこんな目に遭うんだったら、死んどきゃよかったよ」(80代女性)

「死んどきゃよかった」…胸に突き刺さった。
震災で苦しんだ人たちが、再び大きな苦難に直面している。

当時、自宅の屋根の2階に避難したという30代の女性にも話を聞いた。
「家の前の道路が激流の川のようになっていて、車や人が流されていったんです。子どもには見せたくなかったから目をふさいでいました」

この女性は、私が差し出した名刺を見て、真剣なまなざしでこう言った。

「政治部なんですね?このあたりはゴミの処理だって限界だし、水も出ない。子どもや高齢者の服も足りない、泥まみれで衛生面も最悪です。この現状を政治家に伝えてください」

どう答えればいいのか…誰か政治家に伝えれば、なんとかなるものなのだろうか。
被災地の人たちのために、今、私にできることは何か…

「この惨状はしっかりと報道します」
そう応じるのが精一杯だった。

この地区に住んでいる60代男性に、夏井川が決壊した現場を案内していただくことができた。
高さ5、6メートルほどの堤防の一部が10メートルくらいの幅でなくなっていた。

「音とかも特になくて、気づいたら堤防の一部がなくなって、そこからすごい勢いで水が流れてきていた。あっという間に身長以上の高さの水位になった」
被害の甚大さに、ただただ打ちひしがれて、初日の取材を終えた。

2日目 「救う」ということ

10月16日(水)
この日、今回の取材の中で、最もつらい思いをした。

東京消防庁がヘリコプターで救助をしていた77歳の女性を誤って落下させ、死亡させる事故が起きていた。

ヘリは大災害の際の命綱だ。再発を防ぐためにも、その時、どういう状況だったのかを検証する取材は重要だ。朝から現場周辺で当時の様子を知る人を探して回った。

「俺、ずっと見てたんだけど、女性は隊員に抱えられながらゆっくり上がっていった。そしたら途中で『すっと』落ちてしまった」(70代男性)

「事故当時は避難していたので、あとでニュースで知りました。亡くなった女性はうちの子どもたちにも声をかけてくれていたので、悲しいです」(子ども連れの女性)

「亡くなった方は、私がとても親しくしていた方です。今はまだ、とても話すつもりにはなれません」(近所の主婦)

「どうして取材するんだ。こんな時におかしいだろ」という叱責も受けた。

事故は、救助隊員がフックをつけ忘れたミスが原因だと説明されている。

だが、隊員たちも、命を救うため、必死に救助活動にあたっていたはずだ。濁流が飲み込んだ町を目の当たりにしているのだから、気が緩んでいたとも思えない。
そんな中で起きた痛恨のミスを、「あなたの責任です」と責めることですべてが解決するのだろうか。

一方で、救えたであろう命が、失われてしまったというのも厳然たる事実だ。
どう向き合えばよいのか。すぐに答えは見つからない。

苦しい思いを抱えたまま、午後の取材に向かった。

いわき市では、当時、4万を超える世帯が断水していた。
トイレや風呂、泥の処理などに深刻な影響が出ていた。

そんな中、温泉リゾート施設を断水世帯を対象に無料で開放するというのだ。
「スパリゾートハワイアンズ」

いわき支局にいた時は、フラガールの取材でたびたび足を運んだ施設だ。
泥とほこりにまみれながら片付けにあたっている多くの住民たちが、汗を流しに訪れた。

子どもを連れて訪れた40代の女性。自宅は浸水し、断水が続いているという。

「子どもはよく汗をかきますし、ストレスを発散させたいので、本当に助かります」

ひとっ風呂浴びた60代の男性は、こんなポーズで答えてくれた。

「4日ぶりのお風呂なのでとても気持ちよかった。サイコー」
帰る人たちの表情は、心なしか明るくなっているように見えた。

ハワイアンズの担当者は、東日本大震災の時に風呂に入れず、つらい思いをした経験があるのだという。

震災の経験がいかされていたのか。
心が少しだけ、温かくなった気がした。

3日目「避難所に入れない」

10月17日(木)
復旧がままならない中、週末には雨が降るという予報。
二次災害が懸念される現場の取材に向かった。

訪れたのは、いわき市常磐湯本町にある1軒の住宅。
山の斜面に建ち、裏にある別の住宅の石垣が崩れかかってきていた。
石垣の一部は壊れ、庭に土砂ごと流れ込んでいた。

住んでいるのは、70代の男性と娘だ。
次にまとまった雨が降れば、住宅にも大きな被害が出かねないだろう。

避難所には行かないのだろうか。
「近くの体育館に避難しようと思ったが、1世帯では避難所として開設できないと言われ、隣の地区の避難所に行くように言われた。うちには犬や猫もいるんだけど、そこではペットの受け入れを断られてしまって」

男性は、万が一に備え、斜面から離れた2階で過ごすことにしたという。
「ペットは家族同然なので、残しては行けない」と話す男性。

確かに、彼にとってはかけがえのない存在なのだろう。ただ、避難所に入る人の中にアレルギーがある人がいれば、健康に影響が出かねない。

かつての報道で、ペット用にエリアを分けた避難所や、ペット同伴の人たちのための避難所なども見たが、そんな避難所をすぐ用意できる自治体がどれだけあるだろうか。ペットを飼う人も、事前にどのように避難させるか、用意をしておくことが重要だと言われている。ただ、今回の被害を予期していた人は多くない。どうすればいいか、戸惑いながら行き場を失っている。

台風は過ぎ去ったが、災害はまだなお現在進行形だ。

4日目「復興を台風が…」

10月18日(金)
この日、かつてお世話になった取材先との再会があった。

いわき市の中心部から30キロほど北にある楢葉町を訪れた。

町内を流れる木戸川は、かつて全国有数のサケの漁場だった。しかし、震災と原発事故の影響でサケの漁獲量は激減。年間7万匹から数千匹にまで落ち込んでいる。

地元の漁協では、サケ漁を復活させようと、4年前、稚魚の放流を再開した。
サケの稚魚は、成長して海に下り、約4年で戻ってくる性質があるのだという。
ことしはまさに4年目、稚魚が戻ってくるその年だった。

木戸川の漁協を訪ねると、そこには懐かしい顔があった。
漁協で鮭ふ化場長を務める鈴木謙太郎さんだ。
「お久しぶりです!」

思わず互いに手を取り合い、握手を交わした。
鈴木さんの穏やかな表情は、当時のままだ。

サケを捕まえるための「簗場」と呼ばれるワナがある場所まで案内してもらった。

そこで目にしたのは、流木がつまり、一部がゆがんで壊れてしまった簗場だった。

下流に続く道路も崩落しているという。

「今年は放流した稚魚が帰ってくる年でした。楽しみにしている人も多くて、企画していた『鮭祭り』というイベントも中止にしました。本当に残念です」
鈴木さんが肩を落とす。

台風の被害は、思わぬところにまで及んでいた。
サケが戻ってくる直前のまさかの惨事。
復旧に向けて、行政の支援はどの程度、受けられるのだろうか。心配になる。

震災と原発事故から立ち直ろうという動きに、台風が水を差した。
やり場のない怒りがこみ上げてきた。

5日目「雨さえ降ってなければ」

10月19日(土)
車で1時間近くかけて、山あいにある川内村に向かった。
60代の男性が行方不明となっている現場だ。

男性は、トンネル工事のために福島市から来ていて村内に宿泊していたという。
12日の夜、作業員の宿舎から避難所に向かう途中に、行方がわからなくなったとみられている。
強めの雨が降りしきる中、警察、消防、自衛隊などが約100人の態勢で川を中心に捜索を行った。

雨の影響でどんどん川の水位も上がっている。
素人目に見ても、捜索が困難を極めているのは明らかだった。

「雨さえ降っていなければ、川底も見えて効率的に捜索できるのに悔しい」
と、現場の警察官がうなだれた。

NHKのまとめでは、この時点で、福島県内では30人が死亡。行方がわからないのはこの男性だけだった。

この日の捜索でも、男性は見つからなかった。
「1日も早い発見を」と願いながら一連の取材を終えた。

そして私は、後ろ髪を引かれる思いで、「第2のふるさと」をあとにした。

私たちに何ができるのか

東京に戻った。私に何ができるか、考えてみた。

政府は、被災者に必要な物資を緊急輸送するプッシュ型支援を進めている。予備費の活用も速やかに決定した。度重なる災害を教訓に、発災後の対応力に、一定の向上は見られると思う。

ただ、私がわずか5日間取材しただけでも、毎日のように課題が見えた。

堤防はなぜ決壊したのか。今後はどう整備すべきなのか。
がれきや壊れた家具などの災害廃棄物の処理も、全く追いついていない。
「被災した自宅で避難生活」している人をどう把握し、二次災害を防ぐのか。
ペットの避難をどうするか。自治体だけでなく飼い主に事前の準備を呼びかけることも重要だ。
農林水産業など「なりわい」へのきめ細かい復旧支援。

すべてがひとりひとりの「命」や「生活」に深く関わる深刻な課題だ。

私が現場で見聞きしたことのすべてを、知る限りの政治家や官僚に伝えてみようと思う。放送には至らなかったことも含め、取材したすべてを話してみよう。

もちろん政府や各政党が、それぞれ情報収集をしているのは言うまでもないことだ。
ただ、伝えずにはいられない。うるさいと思われても構わない、見た人間の責務だ。

再び同じような被害を出さないためにどうすればいいのか、議論もしたい。
そうすることくらいしか、役に立てそうなことを今は思いつかない。
微力でも、次につながる何かを、模索していくために。

かつて訪れた木戸川は、あの震災を乗り越えて、確かに復興への道を歩んでいた。

恥ずかしげもなく、私は福島県を「第2のふるさと」と言い続ける。
「死んどきゃよかった」なんて言うおばあちゃんを、もうこれ以上、出してはいけない。

政治部記者
佐久間 慶介
2012年入局。2017年まで福島局、最後の1年はいわき支局に勤務。その後、政治部へ。現在、立憲民主党の枝野代表の番記者。