えてほしい それってエゴ?

念願かなって入った憧れの職場。だが、職場のドアが開けられず、階段も上がれない。さらには、通路が狭くて自分の机にも、たどりつけなかったとしたら…。

彼らは選挙で選ばれた地方議員たち。体に「障害」がある。

「当たり前のように働きたい、環境を変えたい。そんな思いはエゴなのか?」

葛藤の中で、彼らは思う。
「それでも、わたしは呼びかける。『変えていこう』と」
(郡義之)

記念すべき日に

9月3日、愛知県豊田市。澄み渡る青空とは対照的に、湿気を含んだ熱気が容赦なく肌に絡むようなこの日、1人の若者が議会に臨んでいた。

いつもの柔和な表情から一転、緊張感を漂わせ、右手をまっすぐに挙げると、議長席に向かって深々と一礼した。議員となって記念すべき初めての一般質問。カメラが一斉に彼に向けられる。

ただ、その門出に拍手を送ったのは最後列にいた1人のベテラン議員だけ。広い議場に乾いた打音が響いた。「え、こんなもの?」私は少し拍子抜けした。

発言席に立ったのは、中島竜二(31)。

4月の統一地方選挙で初当選した新人議員、そして、豊田市初の障害のある議員だ。中島は生まれつき耳が全く聞こえない。

席の前に手話通訳者がつき、障害者のコミュニケーションに関する政策などについて手話を交えながら、市幹部への質問を繰り出す。

質問で与えられた時間は40分。議場の空気とは裏腹に、傍聴席には多くの市民の姿があった。時にメモをとりながら、またある時には、うなずきながら真剣に聞き入る様子に関心の高さがうかがえた。

「緊張したが、傍聴席の人たちの姿を見て、ほっとした気持ちもある。でも、もう少し自分の考えを整理して伝えたかった」

一般質問を終え、記者の質問に手話でそう答えた中島。予定の質問時間を6分残してしまった。100点満点で「60点」とした自己採点に、議員としての一歩を踏み出した充実感と、十分に思いを伝えきれなかった悔しさがにじみ出ていた。

“意思疎通” そのためには

中島が強く求めているものの1つが「意思疎通の充実」だ。

中島の当選を受けて、市議会は環境を整えようと、筆談用のボードや、議員控え室への来客を中島に振動で知らせる機器などを導入した。

ただ、中島は「いろいろ整備は進んでいるものの、手話通訳者が対応できる範囲が限定されている点に課題がある」と指摘する。

議会としての活動の1つに「視察」がある。手話通訳者を随行させると、その費用は公費(政務活動費も含む)で賄われる。
一方、個人的な視察や街頭活動など「私的な政治活動」では全額、自己負担。手話通訳者が活動に欠かせないだけに、ほかの議員との負担の差が生じているという。

さらに、手話通訳者の技術面での課題もある。独特な専門用語や略語が飛び交う議会では、早いやりとりについていけず、うまく訳せないこともあるのだという。

中島は「話についていくのが精いっぱいのところもある。もっと通訳者が欲しいし、音声を認識して文字化できるシステムも導入してくれれば」と求める。

実は、豊田市議会では9月、ペーパーレス化を図るため、すべての議員にタブレットが配られた。しかし、中島が求めるような音声を認識して文字化したり、文字を音声化したりするアプリのインストールは認められていない。議会事務局は「今後、議論の余地はある」としている。

全国各地でも

こうした環境の「壁」とも言えるケースは、全国各地に存在する。

8月下旬、東京で開かれた障害のある地方議員らでつくる団体の全国集会。集まった約30人の出席者からは、切実な悩みの声が相次いだ。

「市役所の仮庁舎にエレベーターがなく、1人では2階に上がれない」と話すのは、熊本県から来た車いすの男性市議。市職員4人がかりで車いすを運ぶのだという。

同じく車いすで活動する長崎県の女性町議は「議員報酬が低く、政務活動費もない中で、介助費が高額では、満足な政治活動ができない」と訴えた。

三重大学の大倉沙江助教(政治学)が去年、全国各地で活動する障害のある地方議員29人に行ったアンケート調査では、約4分の1が「自治体や議会事務局などから提供される合理的配慮にあまり満足していない」と回答した。

大倉助教は「意図的に差別しているわけではなく、障害者への意識がもともと低いのではないか。日本の議会は、障害者の権利保障が依然として低い水準にとどまっている」と話す。

“わずか数メートル” そこまで15年

議会の環境を変えるため、長い時間をかけて取り組んだ議員もいる。


さいたま市議会議員、傳田(でんだ)ひろみ(71)。

4歳の時、ポリオの影響で手足が不自由となって以来、車いすの生活を送る傳田は、現在5期目のベテランだ。ふだんの活動を見たいと、市議会を訪ねた。

「どうもお待たせしました」

電動車いすの操作バーを右手で巧みに操り、にこやかに迎えてくれた。車いすを走らせるスピードにも余裕と貫禄がみなぎる。

さっそく話を聞いてみようと思ったやさき、案内された議場で、傳田は1本のスロープをゆっくりと登り始め、席に着いた。

「これができるのに、15年かかりました」

15年。

返答に詰まる私の横で、彼女の視線は、わずか数メートルの長さのスロープに向けられていた。

平成15年(2003年)、もともと学習塾を経営していた傳田は、故郷のために何かできることはないかと考え、政治の世界に飛び込んだ。

期待に胸膨らませて入った新たな職場だったが、そこは「バリア」だらけの世界だったという。行く手を遮る段差の数々、やっとの思いで開いても自動で戻ってくる議員控え室のドア。

傳田は自分の席だけでなく、議場内を思うように動くためスロープの導入を呼びかけ、周囲の理解を得て実現するまでに15年もの歳月を要したという。

同じ“スタートライン”に

傳田には、今でもはっきりと覚えている言葉がある。

当選後、初めて一般質問に立った時のことだ。当時、議会事務局は傳田に配慮し、電動で上下に位置を動かす発言台などを整備した。

ところが、こうしたバリアフリー化の動きに同僚議員からヤジがとんだ。

「金がかかったぞ」

市民の付託を受けた議員として立場も権利も同じだが、障害のある者にとって状況は異なる。介助も必要、多額の費用もかかり、移動にも手間がかかる。

傳田は訴える。「健常者の議員と同じ『スタートライン』に立っていない。立つような仕組みが必要だ」

”普通に”参加できるように

「障害があろうが1人の人間。同じ社会で生きる者として、普通に政治参加ができるようになりたい」

障害のある地方議員に話を聞くと、そんな思いが伝わってくる。

耳が聞こえない豊田市議の中島に、私はメールで尋ねた。
「障害者が議員になることの意義は何か?」

すると、中島から「さまざまな人が代表として集まり、議論することは当然のこと。当事者の苦しみは当事者でしかわからないので、主張できる意義がある」と返ってきた。

さらに、こう続いていた。
「耳が聞こえないのは強み。聞こえないからこそ、前向きに頑張れる力がある」

取材中にふと、昔の新聞記事に目がとまった。それはかつて、脳性まひで介護が必要ながらも、大阪 豊中市で4期16年にわたって市議会議員を務めた入部香代子が自伝を出版したという話だった。

障害がありながらも、体当たりで政治に取り組んできたという入部。「いつも外に出かけて活動していた。何か世の中の不条理と戦っているイメージがあった」と、長男の正也は振り返る。

入部は平成25年(2013年)に62歳で亡くなった。それから6年。「障害者が住みよい環境を整えたい」という遺志は少しずつ広がっているように思う。

正也にこんなことを聞いてみた。
「参議院選挙を終え、今のこの状況をお母さんはどう思う?」

「母が障害者のために当時から訴えてきたことが今広まってきている。たぶん喜んでいるのでは?」

そして、こう付け加えた。「たぶん当たり前のことを認めて欲しかったと思う」

議会の”バリアフリー”とは

誰も何も特別なことをして欲しいと言っているわけではなく、彼らにとってみれば議会でスムーズに活動できる必要最低限のことを求めているだけなのだ。

議会制度が始まってから長い年月が過ぎていった中で、障害のある者にとってみれば、議会改革はまだ始まったばかりと言っていい。

そして、たとえ時間がかかったとしても「議会のバリアフリー化」を進めることは、ある意味で公正・公平な議論の場をつくることに近づくことにもなるのではないか。

障害者と政治参加をテーマに地方議会の取材を始めて9か月。これからもっと政治がおもしろくなる予感もある。

自分の脳裏に、入部が口癖にしていたという「しっかりせな、あかんで!」との言葉が聞こえたような気がした。

(※文中 敬称略)

ネットワーク報道部記者
郡 義之
地方紙記者を経て平成22年入局。前橋局、釧路局を経て2017年から現職。ネットニュースなどを担当。