日に1日は、海外にいた…
「河野外交」の評価は

第146代外務大臣、河野太郎。9月11日の内閣改造で、防衛大臣に横滑りした。
大抜擢で外務大臣に就任して2年1か月。この間、訪問した国と地域の数は延べ123。もちろん歴代最多だが、「スタンプラリー外遊」と揶揄(やゆ)もされた。
「河野外交」は、何を残したのか、検証した。
(高島浩)

「記録」か「記憶」か

「記録は記録として、私は、記憶に残る外交を作っていきたい」

新外務大臣・茂木敏充の言葉に、外務省の講堂には、一瞬、微妙な緊張が走ったあと、笑いが起きた。
9月17日、新旧外務大臣の交代式でのことだ。

「記録」とは、河野が在任2年1か月で訪問した国と地域の数のこと。その数、延べ123。外務省によると、確認できる限り過去最多だ。

ともに「ポスト安倍」と目される河野と茂木。そつのない茂木は、ライバル意識をのぞかせつつ、
「世界地図を塗りつぶすような外交を展開してきた。野球で言うと王貞治選手のホームラン記録で、とても乗り越えることは無理だ」
と、河野本人を前に、持ち上げることも忘れなかった。

前外相の河野、770日の在任期間中、外国出張に費やしたのは実に291日。3日に1日以上、4割近いペースで外国出張していたことになる。

「外遊」。永田町・霞が関界隈では、今でも外国出張をこう呼ぶ。
「スタンプラリー外遊」、河野の頻繁な外国出張を揶揄する声は、野党はもちろん、政府・与党内からも上がっていた。

“弾丸”外遊の理由とは

憲法の規定で、国会への出席が求められる日本の閣僚の外国出張は容易ではない。

河野は、土日を中心とした2日間か3日間の“弾丸”外遊や、便の乗り継ぎで立ち寄る際に会談する「トランジット訪問」を重ねた。「休みがねえ」自身のツイッターでつぶやくこともあった。

外国出張にこだわる理由を、河野は、就任4か月の記者会見で、こう述べている。
「過去5年間で、日本の外務大臣は97か国を訪問したが、同じ時期に、中国の王毅外相は、延べ262か国を訪問し、ほぼ3倍近い差がついている。この差をどう埋めるか、真剣に考えなければいけない」

急速に軍事力を拡大しつつ、巨大経済圏構想「一帯一路」を掲げて、豊富な資金力を背景に世界各国で影響力を強める中国。危機感を抱く河野は「裸の外交力」という言葉を好んで使った。

「日本は、外交に軍事力を使わない。一方で、かつて1兆円を超えたODA=政府開発援助は半減している」
「政治家や外交官の、人と人とのつながりを重視し、相手国の外相らと直接会い、2国間関係を強化する。知恵やアイデアで勝負し、それに伴う実行力こそ、日本外交に求められている」

「未踏の地」目指した

就任時、日本の外務大臣が1度も訪れたことのなかった国は89。

河野は、去年1月にスリランカを訪問する際、15年ぶりであることに驚き、日本の外務大臣が訪れたことがない国を調べさせたことを、自身のブログで明らかにしている。

「日本は、国際社会に対して、国連の安保理改革や核廃絶決議案、あるいは北朝鮮への圧力の強化などを呼びかけているが、この現状はどうか。私も、やはりもっと緊密な各国との直接の対話の必要性を感じている」

この「事件」は、いわば“未踏の地”訪問に意欲を示すきっかけとなった。

こうした国々の1つが南米のエクアドル。

豊富な石油資源に恵まれ、銀やマグネシウムなど鉱物資源も多い。おととしの政権交代まで、長く反米左派政権が続き、中国が多額のインフラ投資で存在感を高めている。

日本との外交関係は100年以上の歴史があるが、外務大臣はおろか、閣僚の誰1人、訪れたことがなかったという。去年8月、河野が閣僚として初めての訪問者となった。

成田からアメリカ・ヒューストン経由で20時間余り。周辺国への歴訪もあり、エクアドル滞在は1日。
大統領表敬や外相会談、国会議員との会談、在留邦人との交流など、分刻みの日程を組んだ。

エクアドル政府もこれに応え、実働10時間のうち、7時間の日程にバレンシア外相が同行した。

エクアドルは、当時、左派から中道路線に政権交代し、より自由で開放的な経済を指向し始めていた。河野の訪問をきっかけに、20年途絶えていたエクアドルに対するODA=政府開発援助の円借款が再開に向けて動き出した。対象はエネルギー分野。資源外交の一環だ。

資源の輸入元の多様化は、資源の少ない日本にとっては死活問題だが、具体的な成果が出るまでには時間が必要だ。

ミャンマーにこだわった理由

世界にインパクトを与えた外遊もある。ミャンマーで、外国人の立ち入りが厳しく制限されている、西部ラカイン州への訪問だ。

アウン・サン・スー・チー率いるミャンマー。欧米諸国は民主化を求めるスー・チーを支援してきたが、政権獲得後は、ロヒンギャ問題で非難を続けている。

おととし8月には、少数派のイスラム教徒ロヒンギャの武装勢力とミャンマー軍の戦闘をきっかけに、70万人余りのロヒンギャの人たちが、隣国バングラデシュに避難する事態となった。ラカイン州は、そんなロヒンギャ問題の中心地。ラカイン族とロヒンギャの対立が20年以上続いてきた。

河野の訪問は、戦闘の発生以来、外国の閣僚級で初。ロヒンギャの人たちの村を訪れ、多くの住民に囲まれる中、住民の声に耳を傾ける河野の姿は、メディアを通じて世界に発信された。

ミャンマー批判を展開していたイギリスのジョンソン外相(現首相)が訪問したのは、その1か月後だった。

在任中、河野はミャンマーを3回訪れている。その意図は何だったのか。

ことし1月、国会の外交演説で次のように述べている。
「自由、民主主義、人権の尊重といった基本的価値に基づいた国際秩序の中で、それぞれの速度で民主化を目指すアジアの声を代弁していく」

強調したのは、アジアの途上国が、自立した経済発展を果たせるよう、人材育成など、中長期的な視点で支援を行う重要性だった。

途上国との外交に注目が集まることは少ない。
しかし、途上国、とりわけアジアの途上国が日本に寄せる期待は小さくない。

乗り越えられない「壁」

一方で、近隣諸国との間では、多くの点で長年の外交課題の具体的な解決には至らなかった。

韓国と徴用問題

私が、最後の会見で「積み残したのは何か」と質問した際に、河野が「返す返すも残念だ」と悔しさをにじませたのは、悪化する日韓関係だった。

就任以来、カン・ギョンファ(康京和)外相との会談は、20回近くにのぼる。

携帯電話で頻繁にやりとりする関係を築き、河野自身、カン外相とは、「お互い、いろいろなことがわかっていて、信頼関係も厚い」と話していた。

閣僚同士の信頼関係をベースに、未来志向の日韓関係を作っていこうとしたやさき。

去年10月、太平洋戦争中の「徴用」をめぐる問題で、韓国の最高裁判所が、日本企業に賠償を命じる判決を言い渡した。

その後、戦後最悪と言われるまでに悪化した日韓関係は、事態打開の糸口さえ見いだせない状況が続いている。

ロシアと北方領土

河野が、祖父の一郎、父の洋平についで3代にわたって取り組んだロシアとの北方領土交渉。

戦後70年以上たっても解決しない日本外交の難題は、具体的に大きく動くことはなかった。

河野は、最後の会見で、「日ロの平和条約交渉が新たなステージに入ったときに、その交渉の責任者をやらせていただいたことは、感謝している」と、言葉少なに触れた。

ライフワークとしての中東外交

河野が掲げた「日本外交の5本柱」の1つ、中東外交。

駆け出しの議員時代から、河野は中東諸国の人脈づくりをライフワークとしてきた。外務大臣として最初の外相電話会談はサウジアラビアだった。在任中、あわせて8回にわたって、中東地域を訪問。

サウジアラビアでは、アメリカのジョージタウン大学時代の学友と閣僚どうしとして再会を果たしたこともあった。日本のエネルギー安全保障にとって中東の安定は死活的に重要だ。

就任から1か月。河野は、日本とアラブ諸国の経済的な関係を、政治的、戦略的なものに踏み出すため、「日本・アラブ政治対話」を初めて立ち上げた。

その後も、中東地域の安全保障に関する会合に積極的に出席。しかし、河野の思いとは裏腹に、アメリカとイランの対立を契機に、中東情勢は緊張の一途をたどっていく。

2年に1度と決めたアラブとの政治対話は、内閣改造と重なり、2年後の今も、次の開催は決まっていない。

「やんちゃ感」

ある重鎮議員は、河野の魅力を、「やんちゃ感」と表現した。

河野はメディアが入る外相会談の冒頭、多くの場合で英語を使い続けた。

だが、外務官僚が言うところの“外交プロトコル(=儀礼)”では、
「外相会談は双方とも母国語で」
が通例だ。「ニュアンスの違いなど、母国語でないと誤解を招く」からだとされている。

外務官僚の意を体したわけではないだろうが、霞クラブ(外務省記者クラブ)の一部からは、批判も出た。

しかし馬耳東風の河野は、
「霞クラブには会談の冒頭の英語を理解するくらいの人に所属してほしい」
「霞クラブに所属する記者は、ほぼ全員が国際部でなく政治部に所属。取材の対象が『外交』ではなく、『政局』の質問ばかり」
と、ブログなどに綴った。

また、外務大臣用の専用機の導入を打ち上げた時には、「袋叩き」にあった。
結局、導入は見送られたが、来年度予算案の概算要求に盛り込まれたチャーター機の利用代は、500時間分として10億5000万円。これも一部からは批判された。

ただ、入閣前には「脱原発」を公言し続けてきた河野。今は…

「ずいぶん大人になってきた」先の重鎮議員は、最近の河野をこう評した。

“外遊”はどうあるべきか

持ち前の突破力をもってしても、在任2年余りで目に見える成果を出せるほど、外交は簡単なものではなかったのかも知れない。

ただ、「スタンプラリー外遊」という批判には、気にする素振りはない。

最後の会見で、自らの大臣としての総括を聞いてみた。

「No country shall be left behind(どの国も取り残さない)の精神だ」

得意の英語で答えた。
このワーディング、国連の持続可能な開発目標「SDGs」の理念、
「No one will be left behind(誰1人取り残さない)」
をもじったフレーズだ。

就任当初にASEANの外相会合で「電話一本で外交が済むと思うな」と言われたという河野。

直接訪問することで、2国間関係を強化し、日本型支援の強みを伝える。同時に、日本政府が掲げる「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて、国際社会での日本の存在感を高めたい。

それが、“外遊”に込めた思いの表れだろう。

「この2年余りで、日本に対する国際的な会合への参加要請が増えた。日本が外交的影響力を維持し、日本やアジアの立場を発信していくためには、外務大臣が先頭に立って動くことがこれからも求められる」

河野の言葉に、後任の茂木は何を思うのか。

「記録より、記憶に残る外交」
茂木が率いる日本外交の行く末には、何が待っているのか。

(文中敬称略)

政治部記者
高島 浩
2012年入局。新潟局を経て国際部。2019年8月から政治部で外務省担当。専門は中国。