タシはこうして議員になった!

ある者は“壁”を壊すために。ある者は“架け橋”になるために。
政治への無関心が広がっているとも指摘されるこの国で、あえて政治の世界に足を踏み入れた。
外国で生まれ育ち、長年住み続ける日本で、なぜ、政治家の道を選んだのか。
(鮎合真介)

インドから来て20年

「写真を撮るときは、うしろの『ガネーシャ』が私で隠れないようにしてくださいね。失礼にあたるから」

唐突に言われて、私は一瞬、何のことか分からず戸惑った。

ガネーシャとは象の頭に人間の体を持つヒンズー教の神様のことだ。ようやく意味を理解した私は、こう思った。「神様に失礼がないようにしなければ…」
カメラを握る手が緊張してきた。

撮影時の注意点を教えてくれたのは、よぎさん、本名 プラニク・ヨゲンドラさん(42歳)。

インド出身で日本在住歴はおよそ20年になる。
ことし4月、東京・江戸川区の区議会議員選挙に立候補し、初めての当選を果たした。

「議員になろうと思ったのは、2016年ごろに江戸川区・西葛西でインド人街のような『リトルインディア』を作ろうという話が持ち上がったことがきっかけです」

江戸川区は日本で最もインド人が多い自治体だ。特に「西葛西」という地区に集中していて、それを活用しようという構想を民間団体が提唱したのだが、よぎさんは疑問を感じたという。

「経済的な持続性がないし、人のためにならないと思いました。インド人も含めていろんな人と意見交換しましたが、『このままではダメだ』と同じような意見を持つ人たちがほかにもいました」

突き動かしたのは

実はよぎさんも西葛西に住んだ経験がある。1997年に国費留学生として初めて来日した後、留学や就職などでインドと日本をしばらく往来し、2003年からは日本に定住。2005年に江戸川区に引っ越し、居を構えたのがインド人の多い西葛西の団地だった。

「団地に住んで、インド人の中のコミュニティーにいたので、コミュニティーとして何を求めているかというのは痛感していました。『リトルインディア』の構想では、インド人のための病院を建てるなどと言ってたんですが、それよりも英語を話せる医者を増やしたほうがいい。そういうふうにもう少し正しい方向に持っていくためには、自分から行動を起こすべきかなと思いました」

しかし、議員になる決意がすぐに固まったわけではなかった。2012年に日本国籍を取得したため立候補できる資格はあったものの、しばらくしゅん巡していた。結果的に、ことし1月、別の用事で江戸川区役所を訪れた時に、ついでに選挙管理委員会に足を運んでみたという。

「『選挙に出たいんです』と言ったら、『国籍は取得していますか』と聞かれました。『はい』と答えると、『いいですね、大歓迎ですよ』と言われたんです。しかも、すごく積極的にいろいろと教えてくれました」

だが、そのあとも悩みは続いた。一番の問題は30万円の供託金だった。

「票が十分に得られなければ没収されてしまうのに、お金の余裕はそんなになかった。だから選挙に出るか出ないか、ことし3月まではすごい迷ったままでした」

最終的に借金をすることで供託金を工面したよぎさん。ことし3月、みずからの政治団体を立ち上げ、本格的に選挙に向けた活動を始めた。

勝てる自信はなかったというが、結果は6477票を得て5番目での当選。日本で初めてのインド出身議員が誕生した。

みんなを”ハッピー”に

そんなよぎさんに今後の目標を尋ねると「議員になったばかりなので、これからが勉強です」としつつも、次のように話してくれた。

「将来を見据えて江戸川区の戦略を考えていきたい。まずは外国出身ということで、多文化共生に向けて何ができるかを一番、期待されていると思う。外国人と日本人双方の意見を聞き、お互いを近づけて理解し合い、偏見を減らし、生活しやすい社会を目指す。そのための仕組みをいろいろと考えたい。最終的にみんなが『ハッピー』になればいいんです」

一方で、次のような思いも打ち明けてくれた。

「正直に言うと、あまりに外国出身と言われると、少し苦しい立場なんです。議会で私が何か言っても、『あなたは外国人に関する議案だけで意見は十分ではないですか』とは思われたくない。私にとって外国人であれ日本人であれ、みんな同じ区民です。新しい観点から社会全体で何を良くしていけるか考えていきたい」

議長は”ニューヨーカー”

外国出身の議員の中には、議長まで務めた人物もいる。
愛知県犬山市の市議会議員、ビアンキ・アンソニーさん(61歳)だ。

ビアンキさんはアメリカ・ニューヨーク生まれの生っ粋のニューヨーカー。
現在5期目で2017年からの2年間、議長を務めた。

「行政も議員もみんな日本人。私どうやってここ(議長)まで来たのかと正直思いましたよ。日本社会は外国人には入りにくいと言われていますが、議会の中で私は一番大事な議長として認められ、それで普通に議会が動きました」

31年前、愛知県でホームステイしたことがきっかけで日本で暮らすようになった。その後、犬山市の教育委員会に在籍し、中学校の英語講師になったが、それが運命を大きく変えた。

「子どものために何かしようとすると、教育委員会で『前例がない』とか『条例に引っかかる』とか言われて、よく戦いました。教育委員会の壁は私が外国人だからかなあと思っていたけど、実は行政と市民の間にもいろんな壁がありました」

前例よりも”前進”

その壁を「どうしても壊したい!」と2003年、市議会議員選挙に立候補。
本人も予想外のトップ当選を果たした。

「びっくりしました。犬山市議会の歴史で最多得票数(当時)だったので、すごかった。もちろん話題性もあったが、市民が変化を求めている表れだったと思います」

でも、議員になってみると、ヘンなことがたくさんあったという。

「びっくりしたのは議員どうしが議論しないことでした。『何これ?どうやって議会で物事を決めているの?』と思いました。それと声が大きい議員が全部を仕切ろうとしていました。でも自分の考えで動くのが議員の仕事ではないですか?私たちはただの駒ではありません。私が議員になった時は、まだそういう風土が残っていました」

開かれた議会を目指したい。議会のインターネット配信や、公共事業について市民から意見を募る「パブリックコメント制度」を提案し、実現にこぎつけた。そして2017年、議長に就任。当初より強く望んでいた、ある制度を導入した。

「議員になって最も印象に残っているのは、やはり議長時代の2年間です。1番大きかったのは、フリースピーチの実現でした」

「こんなに注目されたことにびっくりしました。市民が議場で意見を言う場を設けるのは当たり前のことです。議員にとってはいいプレッシャーになるし、行政もすごく敏感になりました。議員の中には『会議室でやったほうがいい』と言う人がいますが、意味が分かっていない。議場でやることに大きな意味があるんです」

外国人かどうか それは関係ない

前例のないことに挑戦してきたビアンキさん。市民のために働くのであれば外国出身かどうかは関係がないという。

「外国にルーツを持つ議員が増えることは自然な成り行きです。しかも、それは日本にとってプラスになるはずです。議員にまでなる人は、わざわざ日本国籍を取って日本に長く住んでいるので、一生懸命に仕事をすると思う。一生懸命に仕事をして市民のためになるなら、外国人か日本人かは関係ないです」

地球の裏側からも

バラエティーに富む議員の出身国は、地球の裏側にまで広がっている。
東京・墨田区で区議会議員を務める井上ノエミさん(57歳)だ。

井上さんは南米のほぼ中央に位置するボリビアの生まれ。もともとはボリビアの中央銀行や国連で勤務した経験を持つ、バリバリのキャリアウーマンだった。

そんな井上さんが日本の政治家を目指すようになったのは、日本人の夫の影響があるという。

「私がニューヨークの国連で働いていたとき、ユニセフ=国連児童基金で仕事をしていた夫と知り合い、結婚しました。日本に来たのは1995年で、夫が政治家になるためでした。私は夫の選挙をいつも手伝い、日本の社会や政治のことをたくさん学んだのです」

なかでも、日本社会のあり方に疑問を感じることが多々あったという。

「日本は先進国で経済的にも大変発展した国なのに、女性の地位がとても低いです。また、日本に住む外国人の女性もいろいろな問題を抱えていて、解決に取り組みたいと思いました」

井上さんは2011年、墨田区議会議員選挙に立候補し、初当選。現在は3期目だ。

「墨田区でも外国人が増えているので、多文化共生社会を作るために、外国人も日本人と同じサポートが受けられるようにしたいと思います。例えば、病院に通訳がいるとか外国語でも弁護士に相談できるとかです。実際にはなかなか実現が難しいのが現状ですが、問題の少ない平和な社会を作るのが私の役割だと思っています」

”元祖”に聞いてみた

「政治に参加したいという外国出身の人が多いことは本当にうれしいです。私も心の底から応援したいです」

そう話すのは、元参議院議員のツルネン・マルテイさん(79歳)。
欧米出身の初めての国会議員として活躍した、外国出身議員のまさに“元祖”だ。
この人の話を聞かずして、この取材は終われない。

6年前に政界を引退したツルネンさんは、鎌倉市の閑静な住宅街にある自宅で家族と暮らしている。

北欧のフィンランド出身。もともとキリスト教の宣教師として来日し、日本の古典文学の翻訳や英会話塾などで生計を立てながら日本国籍を取得した後、1992年、神奈川県湯河原町の町議会議員選挙に立候補し、初当選した。

「英会話塾の生徒の中には何人かの地方議員もいて、彼らから議員と議会の仕事がどういうものか教わりました。一方で、湯河原の議員の人たちの評判は、当時とても悪かった。こうしたことを見聞きするなかで議員や議会の仕事に興味が湧き、そして次第に、議員になることが私の使命だと思うようになったのです」

その後、国政選挙に挑戦したものの4回連続で落選。5回目も立候補するかどうか迷っていたが、2002年、同じく比例代表で当選した大橋巨泉さんが辞職したことで、繰り上げ当選を果たした。初の“青い目の議員”の誕生は、当時、大きな話題となった。

ビー・ポジティブ!

ツルネンさんには政治家として心がけていたことがあるという。

「嫌だったのは選挙でのネガティブキャンペーンや、政策を訴えるよりもいかに相手の評判を悪くするかということでした。私が心がけていたのは『ビー・ポジティブ!』、つまり前向きに政策をやる、ということでした。選挙で応援をもらうときも相手候補を批判・攻撃せずに政策を訴えてほしい、ということを条件にしていました」

そして、力を込めたのが仲間を作ることの大切さだ。

「議員1人にできることは本当に限られています。だから、仲間を作ることが大切です。ある政策をテーマに議員連盟などの結成を呼びかければ、すぐに賛同する人たちが集まります。そして、できるだけ党派の垣根を超えて一緒に勉強していくのです。私の国会議員としての最も大きな実績は、野党時代にほかの会派の議員とともに法律をつくったことです。1人では何もできません。多くの仲間と一緒にやることが大事でした」

最後にツルネンさんは後輩たちに、こうエールを送った。

「彼らには外から見た人の目、日本人がなかなか気づかないこと、新しい進歩を起こすための役割があります。そして、閉鎖的な日本社会の側面を変えていく。彼らには議会の中だけではなく、社会の中でも日本人と外国人が共生するために、提言や提案をポジティブにやってほしいですね」

今はまだマイノリティーといえる外国出身の議員たち。
だが、日本で暮らす外国人が増えていく中で、その存在感は将来ますます高まっていくのではないだろうか。今後も彼らの動向から目が離せない。

ネットワーク報道部記者
鮎合 真介
平成20年入局。佐賀局、沖縄局、横浜局、国際部を経て現所属。趣味はランニング、琉球古典音楽(三線)。