僕は漢字が書けません

何度練習しても、漢字が書けないという少年がいます。
彼は都内の中学3年生。苦しんでいるのは、いまだ原因不明の障害のせいです。
彼にとって、「学ぶ」とは一体どういうことなのか。
そして彼のような障害がある人たちに、手は差し伸べられているのか。
1人の少年を通じて見えてくる、いまを取材しました。
(政治部 並木幸一)

字が、書けない

都内の中学3年生が書いた、理科のテストの解答用紙です。

こちらは、彼がパソコンで打ったものです。何を書こうとしていたかがわかります。

「光の直進」「乱反射」「全反射」…
問題を解く力はありますが、解答用紙に記入できないのです。

8年前、彼は“読み書き障害”と診断されました。発達障害の中の学習障害の1つです。

“読み書き障害”に詳しい国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所の稲垣真澄部長によれば、いまだ原因は分かっていないといいます。

「この障害は1896年にイギリスで症例が報告されたのが最初です。通常は1つの文字を見た時に音のイメージができる。その次に文字が組み合わさって単語として意味を理解する。さらに文脈があって単語の意味を判断していく。これらの作業を脳がいっぺんに行いますが、『読み書き障害』は、この一連の作業に支障があるんです。このため、診断するには文章を読む時の流暢(りゅうちょう)さと正確性を診ます」

最初に気づいたのは…

彼が文字に対する苦手意識を持ちはじめたのは、幼稚園の年長の頃。母親と遊びに行った公園でのことでした。「近くの公園に行って、自転車を借りる受付で自分の名前を書かなければいけなかったんですが、友達と同じようにちゃんと書けなかったんです」

その様子を目の当たりにした母親は、違和感を覚え、一緒に名前を書く練習を始めました。しかし、字の一部が反転してしまうなど、隣に見本があってもうまく書くことができず、名前が書けるようになるまで半年かかったといいます。

「例えば『た』という文字がありますよね。全然書けないから『十』の横に『こ』を書けばいいんだよと、文字を分割して教えるという工夫もしてみました。でもなかなか書けず、ひらがなのドリルを何冊も買って練習させました。その時はすごく不安になりました」

その後、インターネットで「文字 読めない」などのキーワードを、必死に検索した母親は、“読み書き障害”ということばにたどりつきました。
「それまでは、ちょっと不器用なのかな、何かおかしいのかなとしか思えていなかったんですが、まさしくこれだったんだって。でも、対処方法はあるんだと、少し前向きになれました」

その後、親子で専門医のもとを訪れ、問診や知能テストなどの検査を経て、小学1年生の11月、「読み書き障害」の診断を受けました。最初に相談してから1年がたっていました。

小学校での生活は幼稚園とは大きく異なります。
先生が黒板に書いた内容をノートに写すのも、人一倍時間がかかる彼は、これまで以上にストレスを感じていったといいます。

「漢字の反復練習がとにかく苦痛でした。ノートの1ページ全体に何度も同じ漢字を書くんですが、何度書いてもうまくならない。当時はストレスを感じていて、すべての練習問題を破り捨て、何をするにもとにかく拒否するといった時期もありました」

学校は「パソコンOK」に

彼は、母親とともに学校や担任の教諭と話し合った上で、一定の配慮を受けることになりました。
テストの解答欄をほかの児童より大きくしてもらう、多少字が間違っていても書こうとしている内容が正しければ正解にしてもらうといった対応です。

なかでも、効果があったというのが、ICT=情報通信技術の活用。彼にとっては、鉛筆を持って紙に字を書くことは複雑な動作になります。そこで、6年生の時に小型のワープロを使い始めると、ストレスも減り、テストの正答率も上がりました。

現在通っている中学校でも、授業の板書はパソコンを使っています。また、テストの時は、パソコンで打ち出したものを印刷して提出することも認められています。
さらに、この中学校では、授業の前におよそ10分間、毎朝読書の時間を設けていますが、彼は電子辞書の音声読み上げ機能を利用して、イヤホンを使って学習しています。

この中学校では、発達障害の生徒を受け入れたことはありますが、「読み書き障害」の診断を受けた生徒を受け入れるのは初めてでした。受け入れた校長は、最初は思い込みがあったといいます。

「最初は正直、練習すればうまくなるのではないかと思ったんです。しかし、それは間違っていた。本人、保護者と話し合って、どういう配慮ができるのかを考えながら対応しています。ちょうど教育現場に『合理的配慮※』という考え方が入ってきたため、授業へのパソコンなどの導入は自然な流れでした。ただ、生徒どうしの関係には細心の注意を払いました」

(※合理的配慮…平成28年4月1日施行の障害者差別解消法では、行政機関等や事業者に対して、障害者から何らかの対応を必要としている意思が伝えられた時に、負担が重すぎない範囲で対応することを求めている)

周りの生徒たちに「合理的配慮」を理解してもらうため、導入する際の説明は欠かせなかったと言います。
「教員には『合理的配慮』と言えばわかります。しかし、子どもたちに『合理的配慮』とだけ言っても理解できない。なぜ特別扱いするのかとか、それがきっかけでいじめが起きることもあるかもしれない。彼の場合は、保護者も、クラスメートに症状を伝えることに同意してくれたので、先生がしっかり説明してわかってもらえました」

高校受験を来年に控え、自宅での勉強も、音声による教材とパソコンでの学習を組み合わせて行っています。
障害者差別解消法では、入試での合理的配慮も求めていますが、彼が入試でどういった配慮が認められるのか、今後、中学校を通じて受験する高校や教育委員会と調整することになっています。

まだまだ「知られてない」

小学5年生の時から彼を支援してきたNPO法人「エッジ」の会長、藤堂栄子さんは、「読み書き障害」は、まだ広く知られておらず、支援態勢が十分とは言えないと指摘します。

「認知度はまだまだ低く、字が汚いとか、勉強不足だとか言われ、自信をなくしたり、あきらめたりして不登校になる子どもも多いんです。ですから、周りの大人が、しっかりと気付いてあげることが大事です。学校現場でも、『合理的配慮』が浸透しておらず、パソコンの導入などができないところもありますが、プリントのレイアウトを変えるとか、テストの問題文を読み上げてあげるとか、すぐにできることもたくさんあると思います」

母親も、早く障害に気づき、学校に理解してもらうことが大切だと感じています。

「親はどうしても『教え方が悪いのかな』など、自分のせいだと思ってしまいがちです。でも、そうではなくて、子どもがどう苦しんでいるかをちゃんと見て、診断してもらうことが必要だと思います。また、学校との関係は、『先生と伴走する。学校とチームでいる』という意識を大切にしています。対立するのではなく、一緒に何ができるかを考えていくことが重要だと思います」

早期発見のために

「読み書き障害」の早期発見につなげる研究も進んでいます。
先に登場した稲垣部長は、幼稚園や保育園の段階でも、簡単に調査できるように、項目を絞ったチェックシートの使用を提案しています。

シートには「文字を読むことに関心がない」や「単語の発音を正確に言えないことがある」、「文字や文字らしきものを書きたがらない」といった19のチェック項目が載っていて、「読み書き障害」などの早期発見につながるとしています。

「チェックシートは幼稚園の先生や保育士向けのもので、こうしたチェックを通じて、あれ?と思ったら、文字に対する苦手意識を持たないように、絵本の読み聞かせをするなど、まずは現場でできる対応をしてもらい、早い時期に専門の医療機関で診てもらって、支援していくことが大切です。幼少期から大学まで、教育現場での合理的配慮をしっかりと引き継いでいく体制づくりが重要なんです」

国は、政治は、何ができるか

支援の動きは、国会にも広がりつつあります。
超党派の議員連盟が、「読書バリアフリー法案」の成立を目指しているのです。

視覚障害や発達障害のある人たちが読書しやすい環境を整備しようと、国や地方自治体に対して、公立図書館などで専用の図書を充実させるよう求めています。この中には点字図書のほか、音声で読み上げる形式の本も含まれています。
また、出版社から障害者に対して本のデータの提供が行われるよう、国が仕組みづくりを支援することも盛り込まれています。

文部科学省を担当する私は、取材で「学習障害」「ICT」といった「言葉」を耳にする機会は何度もありましたが、「現場」のことは理解できていませんでした。

「『読み書き障害』は、正しく理解してくれる人と、そうではない人がいます。読み書きができないことは不便だけれども、人に協力してもらうことで、できることもあります。『読み書き障害』に理解のある人が少しでも増えていってほしいです」
そんな彼の言葉が、印象に残っています。

情報の伝達や記録の手段として、学校現場に限らず、当たり前のように生活の一部になっている「文字」ですが、文字が書けなくても一生懸命学ぶ彼の姿を見て、子どもの個性や能力を伸ばすことの本質とは何なのかを考えさせられました。
法案の行方など、今後も取材を続けます。

政治部記者
並木 幸一
2011年入局。山口局から政治部へ。総理番を経て、18年夏からは文部科学省を担当。趣味はミュージカル鑑賞とプロレス観戦。