平成おじさん誕生で初証言

新たな元号が発表されるまで2週間を切った。
元号が「昭和」から「平成」に改められた30年前、元号が発表されたその瞬間は、今でも人々の記憶に鮮明に残っている。発表を担った当時の官房長官、小渕は一躍、時の人となった。
選定から発表に至るまでにどのような動きがあったのか。あの日、総理大臣や官房長官を間近で見ていた側近たちが、NHKの取材に初めて口を開いた。
(政治部・官邸担当 内田幸作/佐久間慶介)

その時が、来た

昭和64年1月7日、午前6時15分。
総理大臣、竹下登は、いつもよりも早く東京・世田谷区の総理大臣私邸を出発した。

当初、向かったのは官邸。しかし、すぐに行き先を皇居へと変えた。
前日から、昭和天皇の容体が良くないことが、ひそかに宮内庁などから伝えられていたのだ。

当日、竹下に付き添っていたのは、警察庁から総理大臣秘書官として出向していた上野治男。30年の時を経て、初めてこの時の様子を明らかにした。

「私邸に入ったら総理はもう着替えていて、ネクタイをしていた。総理は『もう出よう。官邸で前進待機だ』と言われ出発した。高速道路に乗ったところで電話があり、御所から『すぐにお越し下さい』ということだった」

午前6時半前、およそ10分で皇居・吹上御所に到着した竹下は、昭和天皇に拝謁した。

最期の姿を目にした竹下は、「寝室には皇太子ご夫妻と医者と看護婦がいた。全員が直立不動で首がうなだれていた」と述べた。

上野は拝謁後のマスコミ対応も考慮し、「深く静かにお休みになられていたということですね」と確認したところ、竹下はうなずいた。

上野は「お隠れになった」と悟ったという。

いつも移動の車内では、たばこを吸うのが習慣となっていた竹下も、この時は吸わなかったという。

元号選定へ

この日、もう1人の主役である当時の官房長官、小渕恵三は、竹下が皇居に駆けつける少し前の午前6時20分に総理大臣官邸に入った。その15分後には緊急の記者会見に臨み、昭和天皇の危篤を発表。

続いて午前7時55分に、小渕が崩御を明らかにした。

そして竹下、小渕はそろって、午前8時22分からの臨時閣議に臨んだ。ここでは新しい元号の選定手続きに入ることが報告され、新元号を決めるための作業が始まった。

ただ、これは表向きな話にすぎない。

元号の選定について、政府は「元号選定手続」でその手順を定めている。それによると、まずは、総理大臣が考案者を選び、元号の候補を典拠(出典)とともに提出してもらい、官房長官が候補の中から数個を原案として選ぶことになっている。その後、各界の有識者からなる「元号に関する懇談会」や衆参両院の正副議長の意見を聞き、全閣僚会議で協議し、最後に閣議で、新元号に改める政令を決定することにしている。

しかし、こうした手続きをたった1日というわずかな時間で行うことは不可能だ。このため実際には、極秘裏に選定作業が進められていた。この背景には、昭和天皇が亡くなることを想定して準備にあたれば、さまざまな批判が出ることが予想されたからだ。

当時、改元の実務を取り仕切った元内閣内政審議室長の的場順三は、病状が悪化した昭和63年9月から選定作業が本格化したと指摘した。

「やっていないといいながら、やっていた。そこは『あうんの呼吸』で歴代の総理大臣には進ちょく状況は伝えていた。総理大臣をやる人というのはさすがで、『聞かなかったことにしよう。よろしく頼むな』と言われた。このため(元号の)候補案はすべて回収していた」

また的場は当初から、竹下は新しい元号には「平成」を本命視していたと指摘した。「総理、官房長官は同じ意見だった。異論があればまとまらず、何度もやらないといけなかったが、2人とも異論はなかった」

決定、そして発表

臨時閣議のあと、竹下は想定されていた通り、分刻みのスケジュールをこなした。

総理大臣謹話の発表や皇居での記帳、さらに1度官邸に戻ったあと再び皇居に向い、皇位を継承した新天皇が最初に臨む儀式「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」に出席。

ようやく官邸に戻ったのが、昼前だった。

その後、元号選定に向けた最終局面に入る。
選定手続にもとづいて、午後0時半ごろから小渕が当時の法制局長官、味村に意見を聞き候補案を絞った。この後、小渕はすぐに竹下のもとに報告に入り、午後1時すぎから元号に関する懇談会に臨んだ。

さらに小渕は途中で懇談会を抜け、国会で衆参両院の正副議長からも意見を聴取した。

そして竹下と小渕は、午後1時50分からの全閣僚会議に出席して、閣僚らと新しい元号を協議。
午後2時すぎからは臨時閣議に切り替え、最終的に「平成」を決めた。

閣議が終わったあとの午後2時36分。あまりにも有名となったあのシーンが始まる。小渕による記者会見。

小渕は生乾きの「平成」とかかれた書を掲げ、「新しい元号は『平成』であります」と第一声を発した。

誤算か、人柄か

この記者会見。「元号選定手続」の上では、誰が行うかなど定めてられてはいない。このため竹下は、昭和天皇が亡くなる前に小渕と話し、小渕に任せることを決めていたという。当時、官房長官の秘書官で、上野の後輩に当たる警察官僚だった石附弘は次のように述べた。

「たぶん10月ごろではなかったかと思うが、僕の記憶では、官房長官が総理のところにご相談に行かれた。それで政府の唯一のスポークスマンである官房長官が発表すべきだという話になった」

「官房長官は、元号が国民の理想となり、広く受け入れてもらい、あるいは親しまれるものにしたいと考えていた。だから国民にわかりやすい元号の発表方法を検討するよう指示された」

この指示のもと、石附はテレビカメラの前で「平成」を掲げる発表方法を具申し、小渕は採用。テレビでは繰り返し、この場面が流れて、小渕はいちやく時の人となった。

石附によると、発表以降、道を歩いている小学校、低学年くらいの男の子が小渕を指差して『平成おじさん!』と突然、言った場面に遭遇したこともあったそうだ。この時、小渕は苦笑しつつも、内心喜んでいる様子だったとのことだ。

一方、竹下は、この話を耳にすると、的場に対して、次のように述べたという。
「総理から『小渕ちゃんはこれ(発表)をやって、平成おじさんになった』と言われたので、『総理、やっぱり総理にこれをやってもらうべきだったですかね。普通、総理は就任と退任の挨拶しかされないのが慣例。だけどあれは特別だから、僕らが考えて、官房長官にも申し上げた方がよかったですかね』と申し上げたら、『だわな』とおっしゃった」

竹下にとって、小渕に大役を任せたことは誤算だったのかもしれないが、今となっては分からない。

これについて竹下の長女の金丸一子。
「父が『あれは俺がすべきだったのにお前たちは気が利かないな』と言って、内閣の方を怒ることはないと思う。ただ、あっちがキャーキャー言われているのを見ながら、『うらやましいな』というくらいの感覚だという気はする」

竹下のモットーは、「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」だ。
一子は当時を思い出しながら、本当のところは分からないが、父らしい仕事をしてくれたのではないかと当時を振り返った。

最初の臨時閣議の開始から元号発表まで、わずか6時間。その1日が、30年の時を経て再びやってくる。政府は平成の際の手続きを踏まえ、候補案を十数案に絞り込むなど、準備を進めている。

当時の総理大臣や官房長官らが悩みながらも、平和への願いを込めて選定された「平成」は、国民に広く受け入れられたといってもいいだろう。

新元号は、同じように国民に受け入れられるのか。「平成のその先」は間近に迫っている。

(文中敬称略)

政治部記者
内田 幸作
平成14年入局。北九州局を経て政治部へ。現在、官邸担当。 
政治部記者
佐久間 慶介
平成24年入局。福島局から政治部へ。現在、官邸担当。ゴルフ、スキーが趣味。