高額な抗がん
廃棄の実態

日本人の死因で最も多い「がん」。近年、革新的な抗がん剤が登場する一方、こうした新薬は価格が高く、医療現場で処方が増えると、その分、国の財政が圧迫される構図が続いています。こうした中、患者に投与された後、使い切れずに廃棄された抗がん剤が年間730億円余りにのぼるという試算を専門家がまとめました。なぜ、高額な抗がん剤がこれほど、廃棄されているのか。国の対策は?
(政治部 厚生労働省担当記者 奥住憲史)

それは、1本の電話から

厚生労働省の担当になり3か月が過ぎようとしていた11月初めの午後。厚生労働省9階の記者クラブのブースで、私は山積みになった資料に目を通しながら、次の取材テーマに思いをめぐらせていました。

そこへ、けたたましく鳴る1本の電話。「使い残しの薬=残薬」に関する情報でした。「余った抗がん剤が医療機関で廃棄されているなんて、本当だろうか?」

詳しい事情を飲み込めないまま、手探りの取材が始まりました。

止まらない“医療費”の膨張と、高額な薬剤

「42兆3644億円」

皆さんは、この数字を見て何を感じますか? あまりにもケタが大きく、ピンとこないかもしれませんが、これは、平成27年度に国民が医療機関で病気やけがの治療を受けるのにかかった費用の総額です。

「私には関係ないよ」とはいきません。このうちの40%近くにあたる「16兆4700億円」は公費、つまり、私たちが納めている税金で賄われているのです。

この巨額な医療費はこれからも膨らみ続けるとみられ、その分、私たちの負担も否応無しに増えていくわけです。

医療費を押し上げる一因とされているのが、公的医療保険が適用される高額な薬です。

例えば、高い治療効果から「夢の抗がん剤」とも呼ばれる「オプジーボ」。手術ができないほど進行した肺がんや皮膚がんを縮小させるなど、これまでの抗がん剤には無い治療効果が確認された一方、国の負担分も含めて年間およそ3500万円もの費用がかかることで、注目を集めました。

ことし2月に緊急的に価格が引き下げられましたが、それでも、患者1人で年間1000万円以上かかるケースもあります。

廃棄額は“738億円”

ところが、こうした高額な抗がん剤が、患者に投与された後、使い切れずに廃棄されているというのです。

私は、ある関係者を通じて、慶應大学大学院の岩本隆 特任教授を取材しました。

岩本氏から渡された資料のタイトルは「医療費の抑制に向けて」。使い切れずに廃棄された抗がん剤が、金額に換算してどの程度の規模になるのか、国立がん研究センター中央病院の協力を得て推計した詳細なデータが記されていました。

資料を読み込もうと、表紙をめくって最初に目に飛び込んできたのは、「廃棄額は738億円」という数字でした。奇をてらうでもなく、淡々と記されたこの数字に、私は衝撃を受けました。

永田町・霞が関では、伸び続ける社会保障費をどうやって削減するのか、業界団体も巻き込んだ激しい議論が毎年、繰り返されているだけに、決して小さな金額ではないと感じたからです。

岩本氏は、去年7月からことし6月までに販売された100種類の抗がん剤の廃棄率などのデータをもとに試算した結果、全国で1年間に廃棄される抗がん剤は全体の9.8%、金額にしておよそ738億円にのぼるとしています。

廃棄額が最も多いのは「アバスチン」という抗がん剤で、およそ99億3000万円、次いで、先に触れた「オプジーボ」が90億7000万円などとなっています。全体の廃棄額の8割にあたる、およそ601億円分は、病床数が200床以上の病院で廃棄されたとしています。

抗がん剤、廃棄の現場で

「抗がん剤が廃棄される現場を見たい」

私は、調査資料を裏付ける現場を取材し、証言を得ようと、関東地方のある病院を訪ねました。

そこで、通常は関係者しか入ることのできない、抗がん剤の「調製室」を特別に見せてもらいました。室内では、手袋にマスク、キャップにゴーグル、ガウンに身を包んだ専属の薬剤師たちが、処方箋に基づいて黙々と抗がん剤の調製作業にあたっていました。

よく見ると、彼らの足元には、いくつものバケツが…。そっと中を覗き込むと、医療用の廃棄物として、使い終わった注射針などと一緒に、袋に入った抗がん剤の瓶が大量に捨てられていました。

バケツから袋を取り出してみると、4分の1ほど薬が残っている瓶もありました。

抗がん剤はなぜ余る?

医療機関で患者に投与される高額な抗がん剤。なぜ使い切れずに余ってしまうのか。

ポイントは、「抗がん剤の使用量」と「販売方法」にありました。

抗がん剤の使用量は、患者の体重などに応じて細かく変わります。たとえば、「オプジーボ」を体重70キロの患者に投与する場合、1回210ミリグラムとされています。

しかし、「オプジーボ」は、「100ミリグラム入り」と「20ミリグラム入り」の2種類しか販売されていません。

このため、薬の調製にあたる薬剤師は、「100ミリグラム入り」を2本、「20ミリグラム入り」の半分だけを使います。すると、「20ミリグラム入り」は、10ミリグラム余ってしまうのです。

使い切れなかった分を別の患者に投与することは禁止されていませんが、多くの医療機関は、1度開封された薬が細菌に感染する可能性があることなどを考慮して、そのまま廃棄しているのが実情です。

では、なぜ、量を少なくして販売しないのでしょうか。厚生労働省は、開発費用などのコストに見合わないため、製薬メーカーの判断で、販売する薬の種類を絞り込んでいると説明しています。

私が取材した、ある病院の薬剤師は、「正直、『もったいない』と思うが、抗がん剤を投与するには『安全であること』が大前提なので、それが十分担保されない限り、余った薬を別の患者に投与しないで、廃棄するのはやむを得ない」と話していました。

調査にあたった専門家は

今回の調査にあたった慶應大学大学院の岩本隆 特任教授は、「安全性を確保するガイドラインをしっかり作った上で、抗がん剤の処方が多い病院を中心に、残った薬を捨てずに次の患者に使うようにすれば、国の医療費を年間500億円ほど削減できるのではないか」と話しています。

岩本氏によれば、国内の病院の中には、数年前から独自に定めた安全基準に基づいて、余った抗がん剤を別の患者に投与し、医療費の削減につなげている病院もあるということです。

厚生労働省 “残薬”活用の検討に乗り出す

自民党の行政改革推進本部も、「余った薬を捨てずに活用すべきだ」と指摘しているのを受けて、厚生労働省は、11月中旬、専門家による研究班を発足させました。

使い切れなかった抗がん剤を、別の患者に安全に投与するために必要な機材や、薬剤師の配置のあり方、それに投与の手順などを盛り込んだガイドラインを今年度中に取りまとめる方針です。さらに、医療費の削減効果がどの程度あるのかも調べることにしています。

取材を終えて

国の来年度の予算編成で、政府は、6300億円程度が見込まれる社会保障費の伸びを5000億円程度に抑える方針です。このため、今、永田町と霞が関では、医療機関に支払われる診療報酬を来年度、どう改定するのか、議論が熱を帯び始めています。

それだけに、余った抗がん剤を別の患者に使うことで、年間数百億円の医療費を削減できるとした専門家の提言は、社会保障費をめぐる議論に別の角度から一石を投じるものだと思います。

限られた財源の中で、誰もが必要な分だけ、良質な医療を受けられるようにするためには、「負担とサービス」のバランスを保ち続けるための努力と工夫が必要なのではないか。

「超高齢化社会・日本」に突きつけられた課題解決の糸口を探るべく、これからも丹念に取材を続けたいと思います。

政治部記者
奥住 憲史
平成23年入局。金沢局、秋田局を経て政治部へ。現在、厚生労働省担当。趣味は麻雀。