ノーベル平和賞 ICAN
事務局長が見た「核と日本」

核兵器禁止条約の採択に貢献し、去年のノーベル平和賞を受賞した国際NGOのICAN=核兵器廃絶国際キャンペーン。事務局長を務めるベアトリス・フィンさんが、今月1週間にわたって日本を訪れました。ノーベル平和賞受賞のあと、初めての海外出張先に被爆国・日本を選んだフィンさん。被爆地の長崎と広島、そして東京で、核兵器廃絶に向け取り組んできた被爆者や市民、そして与野党の国会議員との対話を重ねました。フィンさんは、日本が直面する核をめぐる問題をどう受け止め、日本の人々は彼女をどう迎えたのでしょうか。滞在中の同行取材や日本を離れる前に行ったインタビューで振り返ります。
(国際部記者 古山彰子)

「ずっと行ってみたかった日本」

ベアトリス・フィンさんは北欧のスウェーデン出身の35歳。世界101の国と地域にある468団体と連携し、核兵器禁止条約の実現に向けて働きかけてきたICAN=核兵器廃絶国際キャンペーンを率いています。

スイスのジュネーブに事務所を置くICANは、数人のスタッフが世界中の団体と連絡を取り合い、各国の政府や市民に核兵器禁止条約への賛同を呼びかけ、去年条約の採択へとこぎ着けました。

去年12月のノーベル平和賞の授賞式で、フィンさんが広島で被爆したサーロー節子さんとともに受賞スピーチを行い、世界に核兵器廃絶を呼びかけた姿を覚えている方も多いと思います。

幼いころ生まれ育ったスウェーデンで、貧困や紛争から逃れてきた同世代の移民や難民の子どもたちと接し、国際情勢に関心を持つようになったというフィンさん。イギリス・ロンドンの大学院で法律を学んだあと、ジュネーブで人権問題に取り組むNGOに参加。核軍縮を話し合う国際会議に出席したことで、核兵器の非人道性や不条理さを知り、ICANに加わったといいます。

ただ、これまで多くの被爆者たちの証言を聴いてきたものの、実は一度も日本を訪れたことがありませんでした。ノーベル賞の受賞が決まった去年、ジュネーブのご自宅で話を聞いたところ、フィンさんはこう話していました。

「これまでさまざまな国際会議で多くの被爆者の証言を聴き、広島と長崎にはずっと行ってみたかった。招待されたこともあったけれど、幼い2人の子どもがいて、遠い日本に渡航するのは簡単ではなかった。今回ノーベル平和賞の受賞を機に、思い切って行ってみることにします」

真っ先に足を運んだ被爆地

今月12日、日本に到着したフィンさんが真っ先に向かったのが、被爆地の長崎、そして広島でした。

フィンさんが新幹線の広島駅に降り立つと、改札口では市民やNGOの人たちがICANのロゴや花束を持って熱烈に出迎えました。長年「ヒロシマ」を世界に伝える活動をしてきたNGOの人たちは、世界各国の政府と交渉を続け核兵器禁止条約の採択に貢献したフィンさんを抱きしめ、喜びを分かち合っていました。

長崎と広島で2つの原爆資料館を訪れ、展示品1つ1つを丁寧に見て回ったフィンさん。とりわけ長い時間足を止めじっくりと見入っていたのが、原爆が投下される前の町の様子を写した写真の数々でした。

女性たちが買い物に出かけ、子どもたちが水泳を楽しむ、当たり前にあった光景。そこで暮らしていた人々には今の私たちと同じように日々の暮らしがあり、たった1発の原爆がそれを破壊してしまったことを、改めて実感したといいます。

広島では、8歳の時に広島市で被爆し英語で被爆体験を伝えてきた小倉桂子さん(80)にも話を聴きました。心に突き刺さったのは、被爆した女性たちに関する証言だったといいます。

被爆者の小倉桂子さん:
「被爆した妊娠3か月から4か月の女性の中には、その後死産したり、生まれる子どもに障害があったりすることもありました。だから被爆者は恐れられ、被爆者と結婚すべきではないとまで言う人もいたんです」

私生活では6歳の女の子と3歳の男の子を育てているフィンさんにとって、自分と同じ年頃の女性や幼い子どもたちが被爆して苦しんだという事実は、何より身につまされるものでした。
「自分の目で原爆資料館や広島の町並みを見たうえで、被爆者の証言を聴いてたいへん心が揺さぶられました。世界中の人々に核兵器の使用が非常に非人道的なものであることを感じてもらいたいし、今後も日本政府を含め世界の国々に対して、核兵器廃絶の訴えを強めていきたい」

長年、被爆体験を語り継いできた小倉さんも、フィンさんとの交流を通して活動を続けていく決意を新たにしていました。
「私たちの思いを受け継いでくれる人なんだなあと、託せる人だというのを感じましたね。彼女のようにたくさんの人が来たい広島にするために、私もまだまだやらなきゃいけない」

政治家たち 異なる2つの意見

熱烈な歓迎を受けた長崎と広島での日程を終え、フィンさんは一路東京に向かいました。核兵器禁止条約について、与野党の国会議員と議論する討論会に参加するためです。

日本政府は、唯一の戦争被爆国として、核兵器廃絶に向け核保有国と非保有国の橋渡し役をするとする一方で、禁止条約については「現実的な核軍縮につながらない」として、一貫して反対の立場をとり続けています。とりわけ北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威を前に、アメリカの核抑止力に依存せざるをえないという立場を強調しています。

与野党の幹部が一堂に会し核兵器禁止条約について意見を表明するのは、極めて異例のことです。国会内の会場には、政府に対して条約への署名を求めてきた被爆者の姿もあり、大勢の報道陣が詰めかけました。

フィンさんは、唯一の戦争被爆国である日本の政治家一人一人が核兵器禁止条約と真剣に向き合い、意見を表明してほしいと呼びかけました。
「核兵器がもたらす人道的影響、経済的ダメージ、そして代償を直接知っているのは日本だけです。核兵器禁止条約に参加することをなぜためらうのか、何を恐れているのか、どうか教えてください」

討論会では、政府関係者や与野党の代表がそれぞれの意見を表明しました。北朝鮮の脅威を前にアメリカの核抑止力がかつてなく重要だという意見もあれば、政府に対し核兵器禁止条約への署名を迫る意見もありました。

佐藤外務副大臣(自民党):
「北朝鮮をはじめとする厳しい安全保障環境を踏まえれば、アメリカの抑止力の維持は不可欠だ。条約は、現実の安全保障を踏まえず作成された側面もあり、政府として署名できない」

共産党の志位委員長:
「日本政府も核兵器禁止条約に参加して、日本は核による安全保障という考え方は捨てたと、だからあなたも捨てなさいと北朝鮮に迫ることが、政府の立場を最も強いものにする」

私も会場ですべての党の意見表明を聞いていましたが、条約への賛否が分かれる一方で、条約を支持するのかしないのか、条約とどう向き合うべきと考えているのか、必ずしも明瞭とはいえない発言も目立ちました。有権者である私たちが、核兵器廃絶に向けた党の政策を理解するには、あいまい過ぎると感じる意見もありました。

1時間半の討論会はあっという間に終わり、多様な意見に耳を傾けたフィンさんは、これをきっかけに政界でも活発な議論が始まることに期待を寄せました。

「政府、そして与野党の代表の発言を聞き、核兵器禁止条約について日本には2つの異なる意見があると痛感しました。核・ミサイル開発を進める北朝鮮の脅威などを理由に『禁止条約に賛成できない』という政府や一部の党の意見、そして『核兵器の使用が二度と繰り返されないため、日本が先頭を切って条約に署名してほしい』という意見です」
「ただ、日米同盟を維持したままであっても、日本のために核兵器は使ってほしくないと、アメリカに言うことはできるはずです。同じようにアメリカの核の傘に頼るNATO=北大西洋条約機構のノルウェーでは、議会で議論が始まっています。アメリカと軍事的な関係が強い私の母国のスウェーデンも同じです。日本が禁止条約に署名すれば、アメリカと同盟関係にあるほかの国々にも大きな影響を与えるでしょう。ほかの同盟国ともぜひ意見を交わしてほしい」

ノーベル平和賞をきっかけに高まる関心

一方で、フィンさんはICANがノーベル平和賞を受賞したことをきっかけに、日本の世論の関心が高まっていると感じる場面もありました。

国会議員との討論会が行われた同じ日の夜、都内で開かれた一般向けの講演会には、学生から高齢者までおよそ200人が集まりました。そこには以前からICANとともに活動してきた被爆者やNGOのメンバーのほかに、フィンさんの来日を知り話を聞いてみたいと駆けつけた市民の姿も見られました。

参加した女子大学生:
「フィンさんが話していた核兵器がいかに非合理的かという主張に、私も共感しました。私たち市民が声をあげて、政府を動かしていかなければいけないと感じました」

参加した弁護士の男性:
「民主主義国家で、核兵器をなくそうという声が大きくなれば、政治家や政府は無視できないという当たり前のことを、わかりやすく語ってくれた。政府が核兵器をなくすためのリーダーシップを国際社会で発揮していける状況を、私たちがつくらなければいけないと思った」

影響力を持つ日本の選択

移動時間を除けば1週間足らずの滞在で、異なるさまざまな日本の意見に接したフィンさん。

唯一の戦争被爆国として核兵器の人道的影響をほかのどの国よりも知り、核兵器廃絶に向けてリーダーシップを発揮したい日本。
一方で、原爆を投下した当のアメリカの核の傘に入る安全保障政策を取り、北朝鮮の脅威を前にアメリカの核抑止力に一層頼ろうとする日本。

はっきりと感じたのは、日本が核問題をめぐる大きなジレンマに直面しながら、政治レベルでも市民レベルでも、まだまだ議論が不十分だということでした。

日本を離れる前日、私たちのインタビューに応じてくれたフィンさんは、こんなメッセージを残してくれました。

「私たちの活動の中心には被爆者たちの声がありました。今回来日し、その声をさらに広く世界に伝えていきたいと思いました。日本政府は核兵器禁止条約に署名しないと言っていますが、それは政府ではなく国民が決めるべきことです。いちばん怖いのは無関心であり、社会の沈黙です。条約について考え方が異なるのは当たり前で、だからこそ議論することが大切なのです。私は日本が条約に署名すると確信しています。そしていつの日かすべての国が署名することも信じています。問題は、それが核兵器が再び使われる前なのか、後になるのかということです」

同行取材を終えて

日本では誰もが義務教育で広島と長崎への原爆投下を学び、戦争を二度と繰り返してはならないと教わります。しかし、原爆投下から73年がたった今でも、世界には地球を何度も滅ぼせるだけの1万5000発もの核兵器が存在し、アメリカの大統領は、核兵器を発射する通信機器を収めた「核のフットボール」と呼ばれるカバンを、常に持ち歩いているのです。

「日本人は本当に国を守るためにアメリカに核兵器を使ってほしいのか、日本のために他国を核兵器で攻撃してほしいのか、もっと考えてほしい」と話していたフィンさん。

北朝鮮の核の脅威が高まる今だからこそ、日本が核問題とどう向き合っていくのか、私たち一人一人が考え、臆することなく議論し、答えを導き出す努力が必要だと、フィンさんの同行取材を通じて感じました。

国際部記者
古山 彰子
平成23年入局。広島局を経て、国際部へ。現在、欧州・中東地域担当。