新元号を探る
平成の次にくるのは?

「元号とかやめてほしいわそろそろ」
ホリエモンこと、実業家の堀江貴文氏が天皇陛下の退位に向けた特例法成立のニュースを見た際の反応です。元号を使う和暦と西暦を使い分けることへの煩わしさを漏らしたものと見られます。元号は世界で唯一、日本だけで使われていて、政府は皇太子さまが即位される来年5月1日、元号を改める「改元」を行う方針です。平成の次の元号は? 新元号の有力候補は? 取材を進めていくと、過去に考案されながら選に漏れた「未採用元号」から選ばれる可能性も高いことが見えてきました。歴史的経緯をふり返りながら「平成」に代わる新たな元号を探ります。

元号の存廃をめぐる議論

天皇陛下が来年4月30日に退位され、翌5月1日に皇太子さまが即位されることが決まりました。政府は元号法に基づき、皇太子さまの即位に合わせて、平成に代わる元号を定める「改元」を行う方針で、政府内からは国民生活への影響を考慮し、改元の半年程度前には「平成」に代わる新しい元号を発表したいという声が聞かれます。

新元号は、記者にとって大スクープの対象で、しれつな取材合戦がすでに始まっていますが、元号をめぐってはさまざまな意見があるのも事実です。

存続を求める人たちからは「世界で唯一、日本だけに残る元号だからこそ、日本語と同じように文化として残していくことに意義がある。使う漢字の意味や画数、出典まで考えて、自分の子どもに名前をつけるのと同様、元号にもこだわるべきだ」といった意見が聞かれます。

これに対し、「和暦を西暦に換算するときの計算が面倒。来年は平成と新元号が併存するとなると、さらにややこしい。いまや『メートル』や『キログラム』を使うことに誰も文句なんてないのだから、元号なんて使わなくなっても問題ない」などという意見も聞かれます。

“247”の元号

元号は紀元前の中国、前漢の武帝の時代に、漢字と数字の組み合わせで年次を表したのが始まりとされ、皇帝が領土や領民を時間的に支配する、その支配の象徴だったという指摘もあります。

中国からの影響を受けた日本や朝鮮半島、ベトナムなど、アジアの漢字文化圏に広まり、日本では、西暦645年に孝徳天皇が定めた「大化」から、今の「平成」に至るまで、1300年余りの間に247の元号が使われてきました。日本ではかつて天皇の代替わりだけではなく、自然災害などを理由に改元が行われ、天皇一代で8つの元号が使われたという記録もあります。

明治の改元の際に、こうした慣習は改められ、天皇一代に使う元号を1つとする「一世一元制」が採用され、明治22年に発布された旧皇室典範には「一世一元制」が明記されました。また明治42年に交付された登極令では皇位継承後、直ちに元号を改めることや元号は枢密院に意見を求めたあと、天皇が定めることなどが定められました。

漂流する元号

戦後、日本国憲法が施行されるのに合わせて旧皇室典範が改正され、登極令も廃止されると、元号に関する一切の規定が失われます。元号はその法的根拠を失い、いわば漂流することになったのです。

(旧元号法案)

政府は昭和21年、日本国憲法が公布されてから施行されるまでの間に、元号の根拠となる元号法の制定を目指したものの、GHQ=連合国軍総司令部の反対に遭い、断念しました。

その後、保守層に加え、与党内からも元号の法制化を求める意見が強まったのに対し、当時の社会党や共産党などの野党は反発。元号の存廃をめぐる議論は、政治の表舞台でも繰り広げられることになりました。

世論調査結果から元号法制定へ

そこで政府は元号についての世論調査を実施しました。昭和52年の調査では、元号制度について「あった方がよい」と回答した人が全体の8割近くを占め、政府は法制化に向けてかじを切ります。

(元号法公布の御名御璽)

昭和54年、「元号は政令で定める」と「元号は皇位の継承があった場合に限り改める」という2つの項からなる元号法が成立。元号は法的根拠を取り戻しました。

しかし、「大化」から「昭和」に至るまで、およそ1300年にわたり天皇みずからが決めてきた元号の位置づけは大きく変わり、元号は政府が法律に基づき政令で定めることになりました。

改元手続きも明文化

このとき政府は、改元の具体的な手続きについても整理しました。元号法の施行後、閣議に報告された「元号選定手続」では4段階に分けて記されています。

(1)候補名の考案
総理大臣が若干名の有識者に候補名の考案を委嘱。有識者は2案から5案程度の候補を、その意味や典拠などの説明を付して提出します。

(2)候補名の整理
総理府総務長官(今の官房長官)が、▽国民の理想としてふさわしいよい意味を持つ▽漢字2字▽書きやすい▽読みやすい▽過去に元号やおくり名(天皇や皇后などの崩御後の呼び名)として使われていない▽一般的に使われていないといった6項目に留意し、候補を検討・整理。総理大臣に報告します。

(3)原案の選定
総理大臣の指示を受け、総理府総務長官、官房長官、内閣法制局長官(今の官房長官と内閣法制局長官)が会議を開いて候補を精査。原案として数個を選び、全閣僚会議で協議したうえで、衆参両院の正副議長の意見を聞きます。

(4)新元号の決定
最後に元号を改める政令を閣議決定し、新元号は決まります。昭和天皇が78歳を迎えられていた昭和54年、「昭和」の次の改元に向けた手続きが明文化されました。

元号に使われた72文字

新たな元号を探るため、過去の元号を調べてみました。これまでの247の元号で使われた漢字は、延べ504文字。単純計算の247×2(文字)で延べ494文字とならないのは、奈良時代に「天平感宝」、「天平勝宝」、「天平宝字」、「天平神護」、「神護景雲」の漢字4文字の元号が5つあったためです。

この504文字を整理していくと、実際に使われたのは72文字の漢字に限られることがわかります。

さらにこの72文字を使われた回数が多い順に並べると、
▽「永」が最も多く29回
▽「元」と「天」が27回
▽「治」が21回
▽「応」が20回
▽「正」「長」「文」「和」が19回
▽「安」が17回
▽「延」と「暦」が16回などと続きます。

同じ漢字が何度も使われていることからも、「元号選定手続」で示されたような、「よい意味を持ち、読みやすく、書きやすい漢字」というのは、極めて限られているのではないかと考えられます。

カギは既出漢字

では、新元号は、この72文字の組み合わせと考えていいのか? そうとも言い切れません。というのは、例えば「平成」の「成」、「昭和」の「昭」の字は、いずれも初めて元号に使われた漢字だったからです。

しかし、平成26年に出版された「日本年号史大事典」によれば、新元号の候補として考案されたものの、採用されなかった「未採用元号」まで範囲を広げれば、「成」は10回、「昭」は6回も使われているのです。

ここから新たな元号は、過去に元号で使われた72文字に、「未採用元号」で使われた100文字余りを加えた漢字の組み合わせの範囲内に収まる可能性が高いと推測できます。

さらに、これまでの元号の中には、小学校や中学校などで学ぶ常用漢字に含まれない、例えば「雉」「祚」「禄」といった漢字が使われています。よい意味を持っていたとしても、「読みやすく、書きやすい」という条件に照らせば、常用漢字ではない漢字が使われる可能性はほとんどないと考えられます。

ア・カ・ナ・ヤ・ラ・ワ

一方、平成の改元を振り返ると、「平成」「修文」「正化」の3つの原案から新元号を「平成」に選ぶにあたり、アルファベットの頭文字が重要な要素となったことが知られています。つまり、「修文」や「正化」は、アルファベットにしたときの頭文字が「S」で、元号をアルファベットの頭文字を使って表す際に「昭和」の「S」と重なってしまい、不都合が起きてしまうと指摘されたのです。

今回の改元でも、こうした考えを踏襲するのであれば、アルファベットの頭文字が「明治」の「M」、「大正」の「T」、「昭和」の「S」、「平成」の「H」と重なってしまう元号は選ばれません。つまり「サ行」「タ行」「ハ行」「マ行」ではなく、「ア行」「カ行」「ナ行」「ヤ行」「ラ行」「ワ行」のいずれかから始まる新元号が採用される可能性が高いと言えます。

明確な典拠が必要

加えて「元号選定手続」では「考案者は、候補名の提出に当たり、各候補名の意味、典拠等の説明を付するものとする」としています。単によい意味を持ち、読みやすく、書きやすい漢字をパズルのように組み合わせながら考案するのではなく、従来通り漢籍=中国の書物を典拠とするのか、あるいは国書=日本の書物を典拠とするのかは別として、あくまで、なにがしかの典拠から引いてくる必要があるのです。

平成改元、報道各社も予想

新元号に近づくため、専門家の知恵を借りようと、「日本年号史大事典」を編さんした、京都産業大学の所功名誉教授を取材しました。

所氏は、平成の改元の際の思い出話を語りました。所氏によれば、報道各社の記者が、これまでの元号に使われた漢字を組み合わせて予想した元号を一覧にして持ってきたといいます。

「あの当時皆さん忙しかったのに、当時まだコンピューターも普及していないのに、みんな考えて『これが可能性が高い』とかいうようなことをずいぶんシミュレーションしたんです。もう目の前で『どうですか』と言うから、『いいですね』と言うだけで僕は何も言いませんでしたけども。本当に7~8社の人が真剣になって絞り込んだ結果、『なかなかいい案を絞り込んでいる』と思いましたよ。重要なことは、みんなが選んだ中には『平成』は入っていなかった」

実は「未採用元号」!

「『平成』は、実は幕末の『慶応』という年号が1865年に決まったときの10何個あった案のうちの1つなんです」

資料を調べてみると、「平成」は、確かに慶応の改元の際に、菅原道真の末えいで漢籍=中国の書物の専門家でもあった、高辻脩長が候補として考案したものでした。

さらにさかのぼると、「昭和」は「未採用元号」ではありませんでしたが、「大正」は判明しているだけで5回目、「明治」は11回目、その前の「慶応」も5回目の提案で採用されたかつての「未採用元号」でした。

しかも、典拠か考案者が判明している平安時代中期以降の202の元号を見ていくと、65%にあたる132の元号がかつて候補にのぼった「未採用元号」にあたることもわかりました。

「戦前に、森本角蔵という先生が『日本年號大觀』という著書を出されて、そこにはちゃんと、どういう案にはどういう出典があってということが書いてあります。しかも、過去ちゃんと朝廷の会議に出されて議論され、結果的に選ばれなかったけれども、そこに出るほどの案ですからいい案なんですよ」

所氏は、「未採用元号」から新元号が選ばれる可能性を示唆しました。

平成改元を踏襲

「新しい元号は平成であります」

昭和最後の日となった昭和64年1月7日、小渕官房長官は「元号選定手続」に基づく手続きを経て記者会見に臨み、白木の額に入れられた「平成」の書を掲げました。小渕官房長官は、総理大臣談話を紹介。「平成には、国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められており、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っている」などと読み上げました。

「新しい元号は、昭和や平成がそうであったように、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざすものとしていきたい。発表等の手順については、平成の元号を定めた手順を踏まえていきたい。平成の時は、小渕官房長官が発表したわけでもあるので、そういったことも踏まえていきたい」

ことし1月、安倍総理大臣は、当時の総理大臣談話と同じ言い回しを使いつつ、官房長官が記者会見で発表するという方法も含めて、平成の改元の手続きを踏襲する意向を示しました。

平成改元の裏側に迫る!

「平成」に代わる元号にさらに近づくには、どうすればいいのか。安倍総理大臣が踏襲する意向を示した、平成の改元手続きを再検証することにしました。

NHKをはじめ、報道各社が出版した当時の記録などを読み返すと、政府は元号法の制定よりも前から秘密裏に「昭和」に代わる元号の準備作業を進めていたことなどが記されています。また改元に際しては、「平成」「修文」「正化」の3つの原案のうち、政府は当初から「平成」を本命視していた可能性が高いことや、将来的にはみずからのおくり名ともなる「平成」が今の天皇陛下(当時は皇太子さま)には事前に伝えられていたと見られることなども指摘されていました。

そこで平成の改元にあたり、当時の内閣内政審議室長として、現場の責任者を務めていた的場順三氏を取材しました。

秘密裏に進められた選定手続き

昭和60年7月、内閣審議室長(のちの内閣内政審議室長)に就任した的場氏。すでに有識者から提出を受けていた新元号の候補と、「元号選定手続」をさらに具体化したマニュアルを、前任者から引き継いだことを明らかにしたうえで、当時の苦労を語りました。

「(新元号の候補などは、)政治家に預けることはしなかった。僕の責任で保秘が十分利くようなところで厳重に管理していた。歴代の室長も大変だったようで、重責から逃れられると『やれやれ』と言って私に引き継いでいった」と述べました。そして「元号の候補を常に準備し、手続きを踏んでいても、考案した先生が亡くなったら、その候補は使えなくなる。表の手続きとしては、崩御の瞬間に(考案を)委嘱するところから始まるとなっているから、崩御のときにいない先生の案は誰がなんと言おうと使えるわけがない。あとは先帝陛下と有識者との『命の競争』になる」と指摘しました。

つまり元号の考案は、天皇の崩御のあとに委嘱することになっているので、天皇の崩御よりも前に有識者が亡くなってしまえば、結果的にその有識者への委嘱はできず、事前に有識者が提出していた候補は使えなくなるというのです。

委嘱する有識者の条件

「大学の先生方の世界でもジェラシーがあるわけで『なぜあいつで、俺じゃないのか』と言われたら困る。最低限でも日本学士院の会員であること、そして文化功労者や文化勲章の受章者であること、それに匹敵する著名な人という感じ。大学は東京だけでなく、京都も九州も北海道も東北もある。みんなに使ってもらうのだから、そこから考えなきゃいけない」と述べました。

日本学士院では、日本学士院法に基づき、研究者である会員が新たな会員を選ぶという手続きが定められているため、研究者みずからが選んだ研究者ということであれば、ほかの研究者からも批判が出にくいと考えたのです。そして的場氏は、みずから有識者のもとへ足を運び、新元号の候補を考えてもらうよう依頼したそうです。

また的場氏は、前任者から、当時存命だった▽中国哲学が専門の宇野精一東京大学名誉教授▽東洋史が専門の貝塚茂樹京都大学名誉教授▽日本古代史が専門の坂本太郎東京大学名誉教授の3人の案を引き継いだとしています。

しかし、昭和62年2月に貝塚氏と坂本氏が相次いで亡くなったため、新たに▽国文学が専門の市古貞次東京大学名誉教授▽中国哲学が専門の平岡武夫京都大学名誉教授▽中国文学が専門の目加田誠九州大学名誉教授▽東洋史が専門の山本達郎東京大学名誉教授の4人に考案を依頼。平岡氏が辞退したため、実際の改元に際しては、市古氏、宇野氏、目加田氏、山本氏の4人から集めた候補が手元に残っていました。

「平成」「修文」「正化」の3原案

ただ市古氏の候補は、原案に絞る段階で選から漏れます。的場氏は、元号は伝統的に漢籍から選ばれており、市古氏が研究の対象としていた国書は、ひらがなで書かれたものが多いことなどから、適切な候補を見つけるのが難しかったのだろうと振り返ります。

ただ的場氏は「もしいい案ができなかったとしても、国文学の専門家を選んでおくことが将来につながると思った」と述べ、国書から元号を選ぶことを当時から選択肢に入れていたと明かしました。

的場氏は、市古氏以外の山本氏、目加田氏、宇野氏の3人が提出した候補の中から、それぞれ1番いい案を選ぶことにしたとしています。その結果、昭和に代わる元号として、▽山本氏考案の「平成」▽目加田氏考案の「修文」▽宇野氏考案の「正化」の3つの原案に絞り込まれました。

当初から本命だった「平成(へいせい)」

ただ3つの原案のうち、的場氏は、当初から「平成」を本命視していたといいます。元号をアルファベットの頭文字を使って表す際に、「修文」や「正化」では、「昭和」の「S」と重なり、不都合が起きてしまうと考えたのです。

これに加えて、的場氏は「平成」を考案した山本氏と天皇陛下の関係にも言及しました。

「どうも、今の天皇陛下と山本先生は何度も皇太子時代に会っておられて、(天皇陛下も山本氏のことを)お知りだったみたいだ。そういう人間関係も必要なんですよ」

さらに、「平成」をどう読むかも政府内で議論となったということです。

「『平城(へいぜい)天皇』というのがおられたから、それはやっぱり『へいせい』だなと」

平成を「へいぜい」と読ませれば、今の天皇陛下のおくり名(崩御後の呼び名)も「へいぜいてんのう」となります。これでは、西暦806年に即位した「平城(へいぜい)天皇」と混同してしまうからです。

安岡正篤氏考案説を否定

一方、最初に「平成」を考案したのは、陽明学者の安岡正篤氏で、それを山本氏が引き継いだという見方がいまも根強くあります。今回、的場氏は、安岡氏が最初の考案者であることも強く否定しました。

「私が何か誘導したかのように書く向きもあるが、誘導なんて雰囲気じゃない。亡くなった人の案を新しい先生のところに持って行き、『これでやってください』なんて不遜なことは言えない。言ってごらんよ、『じゃあ私は辞めます』と言われますから。(安岡氏が「平成」を提出していた可能性は)ゼロです」

想定通りの手続きで

こうした事前の準備を経て、昭和天皇が崩御された1月7日には、ほぼ政府の想定通りに改元手続きが進められました。

午前6時33分に昭和天皇が崩御。
午前7時55分、藤森宮内庁長官が記者会見で崩御を発表すると、政府は早速、市古氏を含めた4人の有識者に、電話で正式に考案を委嘱します。
午前8時20分すぎに始まった1回目の臨時閣議では「元号選定手続」を一部改正。各界の有識者8人からなる「元号に関する懇談会」を設置し、新元号についての意見を求める手続きを追加することなどが報告されました。改元に、広く国民の意見を反映させようという判断からです。
そして、その直後に学界やマスコミなどを代表する8人の有識者には、速やかに懇談会の開催が電話で伝えられました。各界の代表は事前に選ばれていて、昭和天皇の病状悪化に伴い、遠方に出かけることも控えるように伝えていたと的場氏は振り返りました。

その後、小渕官房長官は味村内閣法制局長官と協議したうえで、「平成」、「修文」、「正化」を原案とすることを、正式に竹下総理大臣に報告。「元号に関する懇談会」、衆参両院の正副議長からの意見聴取、全閣僚会議と手続きはスムーズに進み、その日2回目の臨時閣議で改元の政令を決定しました。この間、懇談会の8人の有識者や衆参両院の正副議長は、情報漏えいを防ぐため、その場で待機し、外部との接触を禁じられました。

テレビを意識した記者会見

そして午後2時35分、小渕官房長官は新元号「平成」を発表。そのときに掲げられた「平成」の書は、墨がまだ生乾きだったといいます。2回目の臨時閣議が終わったあと、官邸向かいの総理府で待機していた総理府人事課辞令専門職の河東純一氏が速やかに書き上げたものでした。

そして、白木の額、厚紙の箱に入れられ、紺色の風呂敷に包まれたうえで官邸に運び込まれました。「テレビ時代」に対応するため、小渕官房長官の秘書官が書を掲げて発表するというアイデアを思いついたと言われています。

ここまでを見てくると、一連の改元の手続きはすべて事前に決められていたということがよく分かります。「昭和」に代わる新元号は、正式な手続きを経ていないため決まってはいないものの、内々には内定していたということも言えるかもしれません。

皇居への事前連絡

一方、将来的にはみずからのおくり名ともなる「平成」の新元号は、あらかじめ、今の天皇陛下(当時の皇太子さま)にも伝えられていたのでしょうか。

的場氏は、早い段階から事務方のトップ、当時の石原官房副長官が藤森宮内庁長官とやり取りしていた可能性を指摘しました。また、当時官房副長官を務めていた石原信雄氏も、みずからの著書などで、少なくとも小渕官房長官が「平成」発表の記者会見を開くよりも前には、即位されたばかりの天皇陛下に新元号を伝えていたことを明らかにしています。

これまでとは違い、政府が元号を決めることになった以上、事前に天皇陛下の「ご裁可を仰ぐ」ようなことをすれば、今の憲法の精神に反してしまいます。一方、「天皇陛下がみずからのおくり名を、テレビを通じて初めて知るというのは避けるべきだ」といった指摘もあり、その結果、公式発表よりも前に、天皇陛下に新元号が伝わるよう綿密な準備を進めていたのです。

元号は″時代の理想″

では、新たな元号には、どのようなものがふさわしいのか。改めて所氏に話を聞きました。

「幕末には、『慶応』が選ばれるだけの、『平成』が選ばれたときには『修文』や『正化』よりも『平成』が選ばれるような時代の背景や文化的雰囲気があると思う。21世紀に入った今の段階で、どのような文字が時代の理想、国民の理想を表すのにふさわしいかという観点で、候補を絞り込んでいくときのセンスが問われる」

「私は、物事を地球規模で考え、『地球村』でみんながちゃんと生きていけるようにするためには、何を考えなきゃいけないかということがいま問われていると思う。21世紀というのは、例えば環境問題、そして食糧問題、水問題、あるいは資源問題、いろいろあると思うが、決しておろそかにできないということはみんな思っている」

「元号は、3年・5年の課題に対応するのではなくて、30年・50年先を、あえて言えば21世紀を見通して、どういう時代の理想が考えられるかという中で選ばれていく。菅官房長官や関係者がいろんな人の知恵を借りて絞り込んでいかれつつある、というか、ひょっとしたらもう絞り込まれていると思いますけどね。それ以上のことは、もう私にはわかりません」

そして所氏は「ぜひ、伏見さんも選んでみてください」と付け加えました。

加熱する新元号取材

大正の改元で、朝日新聞は当時「1年生記者」だった緒方竹虎氏が新元号をいち早く入手し、号外速報したとしていて、今も会社案内やホームページ上に記しています。

また昭和の改元では、大正天皇の崩御直後に、東京日日新聞(今の毎日新聞)が「元号は『光文』」とした号外を出しました。

そして平成の改元では、毎日新聞が「ドキュメント新元号平成」に「毎日新聞は正式発表約30分前にスクープ、夕刊早版(三版)から速報してその幕を閉じた」と書いている一方、読売新聞は「平成改元」に「昭和改元の時のような誤報事件、またスクープもなく、新元号『平成』は決まった」と書いています。

大正の改元以降、マスコミがこぞって新たな元号をいち早く報じようとしのぎを削り、社史として刻もうとする姿勢がよく分かります。

一方、政府高官は、今回の改元にあたって、「新元号が事前に漏れ、報道されるようなことがあれば必ず差し替える」と強調しています。いち早く新元号を入手したうえで、政府が「手続き上、もう引き返せない」というぎりぎりのところまで待ってから報道するしかありません。

今回は、さまざまな記録や関係者への取材を通じ、平成の改元について振り返りました。一連の取材を通じて感じたのはすでに自分も生まれ、小学生になっていた、たった30年前の出来事であっても、正確に伝えるのは容易ではないということです。30年もたてば、元号の候補を考案した有識者を含め、亡くなってしまった関係者も多く、たとえご存命であったとしても、立場によって見方や意見が分かれるうえ、時間の経過とともに記憶も不正確にならざるをえないからです。

崩御ではなく、退位に伴う今回の改元はどのように進められるのか。そして政府は、「平成」に代わる新元号にどんなメッセージを込めるのか。新元号をいち早く入手し、報道することに加えて、歴史の1ページをより深く、より正確に記録できるよう、取材を尽くしていきたいと思いました。

参考文献

▽覆刻版日本年號大觀(森本角蔵、昭和58年・講談社)
▽日本年号史大事典(所功編著、平成26年・雄山閣)
▽新版元号事典(川口謙二・池田政弘、昭和61年・東京美術)
▽元号全247総覧(山本博文編著、平成29年・悟空出版)
▽象徴天皇「高齢譲位」の真相(所功、平成29年・ベストセラーズ)
▽新元号「平成」誕生とマスコミ攻防戦(小渕恵三、文藝春秋・平成7年1月号)
▽官邸2668日~政策決定の舞台裏~(石原信雄、平成7年・日本放送出版協会)
▽石原信雄メモ「大喪と即位の礼」(石原信雄、文藝春秋・平成24年2月号)
▽日本の7つの大問題(的場順三、平成27年・海竜社)
▽新元号「平成」決定までの舞台裏(的場順三、文藝春秋・平成30年2月号)
▽全記録・昭和の終った日(NHK報道局編、平成元年・日本放送出版協会)
▽ドキュメント新元号平成(毎日新聞政治部、平成元年・角川書店)
▽平成改元(読売新聞政治部、平成元年・行研出版局)
▽竹下政権・五七六日(後藤謙次、平成12年・行研出版局)
▽小渕恵三・全人像(後藤謙次、平成3年・行研出版局)
▽天皇の影法師(猪瀬直樹、昭和58年・朝日新聞社)
▽ドキュメント昭和が終わった日(佐野眞一、平成21年・文藝春秋)

政治部記者
伏見 周祐
平成15年入局。水戸局、報道局選挙プロジェクトを経て、政治部。現在、官邸取材を担当。