かな環境」が
意味するものとは?

「中核派秘密アジトを摘発、関西革命軍の最高幹部を逮捕。『天皇皇后両陛下ご臨席の式典への迫撃弾ゲリラ計画』など記載の水溶紙、およそ1500枚押収」

昭和天皇の大喪の礼、天皇陛下の即位の礼など一連の儀式が終わり、「立太子の礼」が行われたのが平成3年2月。その年の9月、滋賀県警察本部の発表です。現行憲法のもと、平成の代替わりにあたって初めて行われた一連の儀式の在り方をめぐって、伝統を重視する保守系の人たちと、政教分離などを重視する革新系の人たちの間で意見は鋭く対立。過激派によるゲリラ事件、右翼による銃撃事件なども全国で相次ぎ、崩御から3年を経てもなお、その余韻は残っていました。

陛下の退位に伴う一連の儀式まで残すところ1年余り。政府は、陛下のお気持ち表明の直後から「静かな環境」で検討を進めることの重要性を強調しています。一方、かつて対立した伝統や政教分離などを重視する人たちからは、退位に向けて、しっかりとした議論を行うことの重要性を指摘する意見も出ています。退位などの儀式の在り方をめぐる検討や論議をお伝えします。
(政治部記者 長谷川実)

狙われた葬列

東京・調布市の中央自動車道脇にあるのり面が突然爆発し、大量の土砂が高速道路をふさぎました。今から29年前の1989年2月24日、午後1時54分のことです。30分後には、昭和天皇のひつぎを乗せた葬列が現場を通ることになっていました。

事件を起こしたのは、「大喪の礼爆砕」を掲げていた過激派「革労協狭間派」でした。

昭和天皇の崩御や天皇陛下の即位に伴う式典の事務方の責任者を務めた元官房副長官の石原信雄さんを取材した際に、紹介されたエピソードです。

石原さんは、「私も葬列に随行していたが、沿道の人たちにお別れの時間が必要だと速度を落として走っていて、それが幸いした。通常の速度なら葬列を直撃していたかもしれなかった」と当時を振り返りました。過激派は葬列が通過する時間を計算し時限爆弾をセットしていたのです。

石原さんは、即位された天皇陛下のパレードでも、過激派のテロを警戒し、オープンカーと防弾車のどちらを使うかギリギリまで悩んだと言います。防弾車は安全ですが、即位された陛下が国民から見えにくくなるため、最終的にオープンカーを選びました。

覚えているかたも少なくないと思いますが、現行憲法のもとで初めてとなった平成への代替わりは、天皇制打倒を目的としたゲリラ事件が各地で起きる一方、「天皇に戦争責任はある」と発言した当時の長崎市長が右翼系のグループに所属する男に銃撃されるなど、社会が騒然とする中で行われました。

大論争に!

政府の資料によりますと、平成への代替わりでは、昭和天皇の崩御に伴い60、天皇陛下の即位に伴いおよそ30の儀式や行事が2年間にわたり続きました。

準備の過程では、古来続いた天皇制に基づく伝統的な儀式を望む意見の一方、現行憲法を踏まえ、国民主権を重視した形で儀式を行うよう求める意見が出されました。国会議員の襲撃事件まで起きていたほか、国会でも自民党と当時の社会党や共産党が鋭く対立し、激しい論戦が交わされました。

その中で特に大きな論争となったのが、伝統的な儀式と憲法の政教分離原則との整合をどう図るかという問題でした。

その背景には、天皇の代替わりに伴う詳細な定めがないことがありました。戦前の大日本帝国憲法や旧皇室典範には、代替わりに伴う式典などの大枠が定められていて、即位に関する儀式の細目を定めた「登極令」などもありました。しかし戦後、これらの法令は一斉に廃止されました。

天皇の代替わりに関する規定は、皇室典範で、「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」「天皇が崩じたときは大喪の礼を行う」と明記されるのみになっていたのです。

このため政府は、平成の代替わりにあたっては、戦後すぐの昭和22年、当時の宮内府が、「新たな規定が置かれない限り、従前の例に準じて事務を処理する」などとした通達を出していたことを踏まえ、憲法に反しない形で前例を踏襲することを模索したのです。

石原元官房副長官の苦闘

石原さんは、「戦前、皇位継承に伴う儀式は、皇室と政府が渾然一体で行う形となっていたが、調べてみると、神道形式で行われるものが多い。これに対し、新憲法は20条で、『国はいかなる宗教的活動もしてはならない』と書いてある。これをどう仕分けるかが問題だった」と述べました。

石原さんが特に苦慮した儀式が、新天皇が三種の神器などを引き継ぐ「剣璽等承継の儀」、昭和天皇の葬儀にあたる「大喪の礼」、そして即位にあたって国民の安寧などを祈る儀式「大嘗祭」でした。

このうち最初に行われた「剣璽等承継の儀」は、昭和天皇が崩御した1月7日、午前10時から皇居・宮殿の松の間で行われました。

儀式では、即位された天皇陛下が、三種の神器のうち、剣璽、つまり剣と曲玉、それに国事行為で使われる国璽と御璽を引き継ぐ形式が取られました。松の間には、三権の長などが整列し、天皇陛下が入室したあと、侍従が天皇陛下の前の「案」と呼ばれる台に剣と曲玉、それに国璽と御璽を置きました。そして天皇陛下は剣と曲玉を捧げ持った侍従らとともに松の間を退出し、そのあと、国璽と御璽を捧げ持った侍従が退出しました。

皇位を継ぐことは、以前は「践祚(せんそ)」とも呼ばれ、旧皇室典範には、「天皇崩するときは、皇嗣すなわち践祚し、祖宗の神器を承(う)く」とあります。つまり、天皇が崩御した時は、皇位継承順位1位の「皇嗣」がただちに皇位を継承し、歴代天皇に伝わる三種の神器を受け継ぐとされていたのです。

登極令の附式では、皇位を継承する「践祚の式」は以下の4つからなるとされています。

(1)「賢所(かしこどころ)の儀」
(2)「皇霊殿神殿に奉告の儀」
(3)「剣璽渡御の儀」
(4)「践祚後朝見の儀」

宗教色を薄める努力

石原さんは、剣璽などを引き継ぐ儀式は新天皇即位の最も大事な儀式の一つだとして、国の儀式として行うべく、憲法に抵触しないようさまざまな工夫をこらしました。

天照大神に即位したことを伝える「賢所の儀」と、歴代の天皇と八百万の神々に即位を伝える「皇霊殿神殿に奉告の儀」については、宗教色が強いため皇室の行事としました。

一方、「剣璽渡御の儀」の「渡御」は、神器がみずから天皇のもとに渡るという宗教的な考え方に基づいているという指摘も踏まえ、「承継」という非宗教的な言い方に変更しました。そして国事行為の際に使う、国璽・御璽も含めて受け継ぐことにしました。

さらに、新天皇や参列者は伝統的な装束ではなくモーニングを着用し、祭祀(さいし)をつかさどる掌典職(しょうてんしょく)は参加しないなど、宗教色を薄めるためのさまざまな措置を取り、憲法に定めのある国事行為として行うことにしたのです。

“玉虫色の政教分離”

「大喪の礼」は、昭和天皇が崩御してから1か月余りあとの2月24日、東京の新宿御苑で国内外からおよそ1万人が参列して行われました。

政府は、宗教色が強い「葬場殿(そうじょうでん)の儀」を皇室の行事として、「大喪の礼」を国事行為として分離する形をとりました。

「葬場殿の儀」では、伝統的方式にのっとり、鳥居を設置し、大真榊(おおまさかき)と呼ばれる供え物を置きましたが、続く「大喪の礼」は宗教色を排するため、祭官が退席し、鳥居と大真榊を撤去しました。政教分離の原則を考慮した苦肉の策でしたが、有識者からは、「ふたつの儀式が同じ場所で連続して行われており、『玉虫色の政教分離』だ」などといった批判も出されました。

“神と一体化”

石原さんが最も神経を使い、苦労したのが「大嘗祭」でした。きわめて宗教色が強い儀式とされていたからでした。

大嘗祭は、新しく収穫された米などを天照大神とすべての神々に供えた上で、みずからも食べ、国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈る儀式で、中心的な儀式の「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」は、天皇陛下の即位から2年近くがたった平成2年の11月22日から23日にかけて行われました。

使用する米を収穫する2つの地方を占いで選ぶ「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」など、関連する儀式や行事を含めれば20を超える大規模な儀式で、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式とされています。

過去、大嘗祭を行わなかった天皇は、「半帝」と呼ばれたこともありました。政府内では、即位に伴う一連の儀式の中でも、大嘗祭を行うのかどうか、行う場合は国の儀式とするのかどうかが大きな議論となりました。

石原さんは、「大嘗祭は天皇と神が一体となる儀式で、大嘗祭を行うことで天皇が初めて権威を身につけられるという理解もあり、皇室関係者にとって絶対に省くことのできない儀式だ。しかし徹頭徹尾、神道行事であり、政府が国事行為として行うわけにはいかなかった」と振り返りました。

政府は、慎重に検討を進めるため、憲法や宗教、歴史や哲学など幅広い専門家を呼び、ヒアリングを重ねましたが、「国事行為として行うべきだ」、「一切実施する必要はない」などと幅広い見解が示されました。

このため政府は、大嘗祭を国事行為ではなく皇室の行事とする一方、きわめて重要な伝統的皇位継承儀式で政府が手だてを講じることは当然だとして、予算は「内廷費」ではなく、「宮廷費」から支出すると整理しました。

「宮廷費」は、外国からの賓客の接遇や皇室関連の施設整備などにあてられる、宮内庁が管理する公金とされ、定期的に会計検査院の検査が行われています。一方、「内廷費」は、天皇皇后両陛下と皇太子ご一家の日常の生活費や宮中祭祀などのために毎年国庫から一定額を支出するもので、宮内庁は「内廷費は『御手元金(おてもときん)』で宮内庁の管理する公金ではない」としていて会計検査院の検査も行われていません。

大嘗祭を国事行為としない一方、経費は「宮廷費」から出す形を取ることで、相対立する左右双方の顔が立つ形をとったとも言えると思います。政府の資料によりますと、大嘗祭の費用はおよそ23億円で、昭和天皇の崩御から天皇陛下の即位に伴う一連の儀式などのために支出された予算は、警察の警備費用などを除いて、およそ130億円にのぼったということです。

各地で裁判に

大嘗祭に関する政府の対応をめぐって、政教分離の原則に反しており憲法違反だとして、各地で裁判が起こされました。

このうち、鹿児島県知事が大嘗祭に参列したことの合憲性が争われた裁判では、最高裁は、「知事の参列の目的は天皇に対する社会的儀礼を尽くすものであり、その効果も特定の宗教に対する援助や助長などにあたらない」として、政教分離の原則には反しないという判断を示しました。

一方、大阪や兵庫などの住民が大嘗祭への国費支出の差し止めなどを求めて訴えた裁判で、大阪高裁は平成7年の判決で、原告の請求を退けたものの、「宮廷費をもって執行したことは、国家神道に対する助長、促進になるような行為として政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概には否定できない」と指摘しました。政府の対応に疑義を示したとも言えます。ただ、いずれの裁判も最終的に、訴えられた国などが勝訴する結果となりました。

儀式は何のため?

そもそもなぜ、膨大な予算や多くの人員を動員して儀式を行うのでしょうか。

日本近代思想史が専門で、神奈川大学元学長の中島三千男さんは、「代替わり儀式は、国家の理念を可視化するものだ」と言います。「その時々の王が、『ウチの国家はこういうものなんですよ』ということを示すことで、国民を一つにまとめる。あるいは世界からその国についての理解をもらう。それが原則だ。だから当然、歴史や文化、その時々の王の力によって代替わり儀式のスタイルは変わっていく」と指摘しました。

中国風や仏教様式も

中島さんや、皇室の儀式に詳しい研究者によると、明治以前は、代替わりの儀式は神道の形式だけで行われてきたわけではなく、中国の影響を受けた装束が使われたり、仏教的な要素も取り入れられたりしてきたということです。

奈良時代の末からは、即位の儀式で、中国皇帝が着用した冠と似た「冕冠(べんかん)」と呼ばれる冠が使われたほか、平安時代の初期には、「唐風(とうふう)」と呼ばれる中国の「唐」の影響を強く受けたと見られる儀式が確立し、「袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)」という竜などの絵柄が入った中国皇帝の衣服が天皇の儀式の正装とされました。

また、天皇の即位に伴い過去に行われた「践祚仁王会(せんそにんのうえ)」や「即位灌頂(そくいかんじょう)」という儀式は仏教色の強いものだったということです。

「践祚仁王会」は、天皇の即位に際し、宮中や各地の寺で国家の安寧を願って一斉に読経を行うもので、「即位灌頂」は、天皇が即位の儀式で印を結び、真言を唱える儀式でした。

明治期に神道形式に

しかし、明治期に入ると、「唐風」の装束は使われなくなり、「即位灌頂」などの儀式も行われなくなりました。明治政府は、代替わり儀式から中国や仏教の影響を排し、神道形式で法制化したのです。

その理由について中島さんは、「『帝国主義国家に日本が植民地にされるかもしれない』という危機感から、幕末期に、『天皇を中心に統一国家をつくらなければならない』となった。だから天皇は立派なんだ、天皇が中心なんだということを、繰り返し繰り返しやってきたのが近現代の歴史だ」と説明しました。

そのうえで中島さんは、今回の代替わり儀式は重要な意味があると言います。

「天皇の即位の儀式は、仏教の要素も取り入れて行われた時代もあった。私が学生によく言っていたのは、『皆さんが伝統だと思っている儀式は明治以降のものだよ』と。しかし、今の憲法で初めてとなった前回の代替わりは、結局、戦前の神道形式そのままだった。今回の代替わりは、前回と違い、国民の象徴として即位した天皇が、象徴として退位する初めての例だ。これは今後の基準になっていくと思うし、儀式をどのように行うのか、非常に大事なことだと思っている」

今回の代替わりは

政府は、陛下の退位に向けた議論や検討で「静かな環境」で行うことの重要性を強調してきました。そして先月20日、菅官房長官をトップとする政府の準備委員会は、退位の式典などに関する案を示しました。

案では、退位の式典を来年4月30日に憲法で定める国事行為として行うこととし、具体的な式典の名称は仮称としたうえで「退位礼正殿の儀」とするとしています。剣璽と国璽・御璽の取り扱いについては、天皇陛下が松の間に入ったあと、侍従が剣璽などを捧げ持って入り、天皇陛下とともに退出することになりました。

準備委員会は、皇太子さまの即位に伴う「即位の礼」の検討を本格化していますが、基本的には、前回の例を踏襲することにしています。

伝統重視の神社界は

こうした政府の方針について、儀式や伝統を重視する立場を取る「時の流れ研究会」の前田孝和事務局長に話を聞きました。

「時の流れ研究会」は、全国およそ8万の神社で組織する神社本庁の機関誌を発行する「神社新報社」の研究団体です。

現在67歳の前田さんは、宮崎県の神社の三男として生まれ、大学卒業後、宮崎県や北海道の神社庁を経て、神社新報社に勤めながら「時の流れ研究会」の事務局長として近代神道史や海外の神社の研究にあたってきました。

前田さんは今回の代替わりについて、退位する天皇陛下から即位する皇太子さまへと、国民が目に見える形で皇位継承が行われたと理解できることが必要であり、そのためには皇位の象徴である剣璽がしっかりと引き継がれたように映る儀式にしてもらいたいと訴えました。

「法律的には、5月1日の午前0時で皇位は時をおかずに継承されたことになる。しかし、ご譲位の儀式とご即位の儀式が同じ日に同じ場所で、ひと続きで行われてこそ、国民も目に見える形で皇位継承を理解することができる。5月1日に連続して行ってもらいたい。それは憲法にも抵触しない」

しかし政府は、退位と即位の儀式を一連のものとして行えば、天皇陛下がみずからの意思で皇位を譲ったと受け取られかねず、憲法に抵触するおそれがあるとして、「退位の礼」を4月30日に、「即位の礼」を翌5月1日に行う方針です。

これについて前田さんは、「退位の儀式が『剣璽等承継の儀』と切り離され、4月30日に行われることになったのは残念だが、それならば『剣璽等承継の儀』に、上皇となられた天皇陛下にもお出ましいただき、上皇から新しい天皇陛下に剣璽を移す形式を取ってもらいたい。また『剣璽等承継の儀』では、皇位継承権のある男性皇族のみ供奉(ぐぶ・天皇に付き従う)してもらいたい」と主張しました。

そのうえで前田さんは、「儀式の在り方をめぐる議論はあってしかるべきだ。皇位継承の一連の儀式や行事を国民として注目し、見守っていただき、その結果として、国民に皇室制度を理解してもらいたい」と話していました。

前田さんが事務局長を務める「時の流れ研究会」は、儀式に関する主張を取り入れるよう政府に要望する見解を発表したほか、神社関係者や保守系の有識者は、政府や自民党議員にこうした見解を支持するよう働きかけています。

市民団体“政教分離を”

政教分離を重視する、市民団体「政教分離の会」の前事務局長で、現在は常任幹事を務める西川重則さんにも話を聞きました。

西川さんは現在90歳。19歳の時、太平洋戦争で当時のビルマ、今のミャンマーに出征していた当時24歳の兄を亡くし、戦後、出版社に勤めながら、政教分離などに関する市民運動に取り組んできました。また、「戦争は国会から始まる」が持論で、19年間、国会審議がある日は国会に足を運び、傍聴を続けています。

西川さんは、なぜ兄が戦争で亡くならなければならなかったのか考え続けたと言います。そして、多くの国民を戦争に巻き込んだ国家神道体制が二度と復活しないよう、政教分離を徹底すべきだと主張しました。

「日本には、ひどい侵略や加害の歴史がある。そして私は兄を戦争で亡くした戦没者遺族だ。日本は敗戦後、平和国家になり、その原則は民主主義だ。したがって民主主義、そして政教分離の原則に基づき、皇室は、退位なら退位、大嘗祭なら大嘗祭を、自分たちの責任で行えばいいのではないか」

西川さんは、政府の案では大嘗祭が前回と同様、宮廷費から費用を支出する方向とされていることについて、「前回、大嘗祭が行われる前の平成2年5月、私は参議院予算委員会に参考人として出席し、大嘗祭への政府の関与に反対した。あの時と私の主張は同じだ。大嘗祭は皇室の私的な行事であるにもかかわらず、特定の宗教に関わる話を国が国民に税金を払わせて行うのはおかしいのではないか。『2度目をやるのか』という思いだ」と話していました。

また西川さんは、「国民の間には、『憲法や政教分離など、そんなややこしいことを考えたくない』というような無関心が広がっていると思う。われわれのような意見を政府は無視しがちだが、どうすればいいのか、考えていきたい」と話していました。

「政教分離の会」は、今回の代替わり儀式をめぐって、政府に対して抗議文を送ることを検討しているほか、会の関係者は、政府が大嘗祭の費用を前回同様、宮廷費から支出したり、剣璽等承継の儀を国事行為として行ったりした場合は、憲法違反だとして訴訟を起こすことを模索しています。

議論を求める声

今回の取材で、伝統を重視する立場の前田さんと、政教分離などを重視する立場の西川さんという立場の違う2人に話を聞きましたが、双方とも「もっと代替わり儀式の在り方を議論すべきではないか」と訴えたことが印象に残りました。

菅官房長官は記者会見で、陛下の退位などについて語るとき、「静かな環境」で検討する重要性を強調します。政府関係者は、「大切なことは、古来の天皇制の復古を望む人から、天皇制はゆくゆくはいらないという人たちまで、国民がこぞって、陛下をねぎらい、皇太子さまの即位をことほぐ機運を醸成することだ」と説明しました。

こうした発言の背景には、前回の代替わりの際に、ゲリラ事件や襲撃事件などが相次いだことや、激しい論争が行われ、多くの訴訟が提起されたことがあるものと見られます。

ただ「静かな環境」を強調するあまり、前例踏襲などの方法が多用され、本来は国民みなで考えるべき課題や論点が置き去りになってしまうとすれば残念です。

来年の4月30日までまだ1年以上の時間があります。引き続き取材を続け、考え続けたいと思います。

政治部記者
長谷川 実