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映画考証・森脇清隆さんに聞く「千代がいた大正後期~昭和初期の映画製作」

おちょ簿

千代が映画女優としてのスタートを切ったのは京都の「鶴亀撮影所」。千代が在籍していた大正後期は、実際に京都を中心に数多くの映画が作られた時期でもありました。そんな活気あふれる撮影所は、実際はどんな様子だったのでしょうか? 「おちょやん」で映画考証を務める、京都文化博物館の森脇清隆さんにお話を伺いました。

 

庶民が気軽に楽しめた娯楽の王者が「映画」だった

 

――大正後期、日本で映画が人気になったのにはどんな理由があるのでしょうか。

 

江戸時代の大衆娯楽の中心は舞台でしたが、明治時代あたりから映画が人気を博していきました。当時、市電に乗り映画を見てカレーを食べて帰っても50銭あれば足りたそうですから、一般庶民でも気軽に楽しめる娯楽だったのでしょう。また映画の映像表現が、当時の人には新鮮で面白かったということもありますね。たとえば忍者が消えるシーンでは、映画なら一瞬で人を消すことができます。そんな映像に人々が驚き、千代が鶴亀撮影所に女優として働き始めた大正後期あたりからは、少しずつ大衆娯楽の王者は映画に変わっていきました。

 

――舞台から映画へ転向するように命じられた女優・高城百合子が、それに抵抗すべく逃げ出すエピソード(第12回)がありました。その昔、映画はどのように見られていたのでしょうか?

 

伝統や格式を大事にする舞台役者たちは「自分たちは板(舞台)の上で芝居をしているが、映画俳優は土の上で芝居をしている」と、映画俳優をからかっていたようです。

しかし、そんな“伝統と格式”は、逆に映画の成長を後押しすることにもなります。歌舞伎の看板の一枚目には、必ず座長である長男の名前が使われ、それ以外の役者たちは、長男よりたとえ芝居がうまくて人気があっても、長男を差し置いて一枚目=主役にはなれませんでした。そんな歌舞伎界では看板の二枚目や三枚目にしかなれない、不遇だけれど人気のあるハンサムな俳優たちが、映画へと活路を見いだしていったのです。阪東妻三郎、市川右太衛門、嵐寛寿郎といった歌舞伎役者たちは、新しいメディアである映画に次々と出演し、人気を博していきました。ちなみに「二枚目俳優」という言葉は、この歌舞伎の看板から来ている言葉です。

 

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新しいものにワクワクし夢中になった人たちが集まった映画撮影所

 

――千代は鶴亀撮影所の試験にすんなりと合格しましたが、当時は簡単に合格するようなものだったのでしょうか?

 

歌舞伎では女性の役を女形(男性)が演じるように、映画でも女性の役を男性が演じた時期がありました。しかし時代が進むと、女性の役は女性が演じるのが普通になっていきます。しかし、女性が役者になることは、世間的には“はしたない”と見られていて、女性は役者もスタッフも少なかったのです。ですから撮影所にとっては、女性はウェルカムな状態だったのでしょう。

 

――鶴亀撮影所には、所長や監督など、かなり個性的な人たちが集まっています。

 

歌舞伎界からあぶれた人たちが映画界に集まってきたという側面もあり、将来性も全く見えない仕事ですので、映画は“不良の仕事”という見方をする人もいました。映画は、当時としては非常に新しい表現ですから、そんな新しいものにワクワクし夢中になった人は、普通の人とは違う感性を持った人たちだったのかもしれませんね。ちなみに当時の撮影所の平均年齢は25〜30歳くらい。金もうけだけを目的に撮影所で働いていた人が少なかったのは確かでしょう。

 

また、ドラマでは撮影所のスタッフはかなり荒々しい気性を持った人として描かれていますが、実際もそのような人は多かったようです。特に照明技士は、当時から非常に重い機材を、表現に合わせ素早く移動・セッティングする必要があり、かつ、強力な光を発していたために危険な仕事とされ、気性の荒い、命知らずな人が多くいました。ただ俳優さん、女優さん達からは、よりたくさん光を当ててもらって、よりきれいに撮ってもらいたいということで、カメラを扱う撮影技士とともにとても大切にされました。

 

――京都には今も撮影所が残っていますが、京都で映画が栄えた理由は何だと思われますか?

 

理由は複数あると思いますが…。“日本映画の父”と呼ばれるマキノ省三は、もとは京都の芝居小屋「千本座」を経営していた人です。彼は舞台監督の経験を活かし自ら映画監督となり、次々と映画を撮影していきました。さらに尾上松之助といったアクロバティックな動きをする俳優を見いだし、時代劇を次々に製作。こうしたスター俳優の出現によって京都で撮影した映画は圧倒的な人気を博していきました。

 

また、京都の土地柄もあるのではないかと思います。京都の伝統的な工芸品は実用の域を超えて、美しさにより感動を与え、価値を高めていきました。現在も京都には日本有数の映画撮影所のほか、世界的なゲームメーカー、人気作を数多く手がけるアニメ制作会社といった、“モーションでエモーションを伝える”ことを得意とする会社があります。これらの会社の共通点は「影を動かすことで、見る人の感情を揺さぶり感動を与えること」。つまり、京都にはもともとコンテンツ産業の地盤があって、その地盤は現在も受け継がれているということではないでしょうか。こうした魅力にとりつかれた人たちが、京都には今も昔もたくさん存在している、ということなのだと思います。

 

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