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「上方喜劇」の歴史(前編)

おちょ簿

千代が道頓堀でお茶子として奉公していた大正時代、芝居の街・道頓堀では歌舞伎や喜劇など、さまざまな芝居が上演され、人々を楽しませていました。当時人気を集めていた「上方喜劇」と役者たちについて、上方芸能考証を担当した古川 綾子さんにお話を伺いました。

 

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歌舞伎の「チャリ場」や、即興コント「にわか」

 

「笑わせるお芝居」というのはどの時代にもあります。古くは「狂言」がそうですね。歌舞伎にも滑稽な場面があって「チャリ場(ば)」と呼ばれていました。また、江戸時代中頃から、いまのコントに似ている、演劇より上演時間も短く、即興性の高い「にわか」という芸能も人気でした。

 

オリジナルのにわかよりも、歌舞伎のパロディーが人気で、今でいうとお笑い芸人がドラマのパロディーを演じるようなイメージですね。

 

にわかは素人が演じる芸能でしたが、人気の高まりとともに幕末にはプロのにわか師が登場して、明治30年代までブームが続きました。

 

「にわか」は芝居の要素を取り入れた「喜劇」へ

 

そんなにわかブームを見て、売れない歌舞伎役者たちが「もう少し本格的な芝居に寄せたにわかをやろう」と始めたのが「曽我廼家(そがのや)喜劇」でした。試行錯誤を経て、道頓堀の「浪花(なにわ)座」で、曽我廼家 五郎と曽我廼家 十郎は日本で初となる喜劇団「曽我廼家兄弟劇」を旗上げし、興業を行ったのが明治37年2月。ここが「上方喜劇の始まり」とされています。

 

「曽我廼家兄弟劇」は「曽我廼家五郎劇」と「曽我廼家十郎一派」に分かれます。泣かせて笑わせる人情喜劇を得意とした五郎率いる「曽我廼家五郎劇」はその後、長く圧倒的な人気を誇りました。

 

才能豊かな喜劇役者たちの登場

 

一方の「曽我廼家十郎一派」を率いた十郎は、「天性の喜劇役者」と呼ばれる才能の持ち主でした。にわかの要素であるダジャレやパロディーを大切にし、舞台にあらわれただけで笑いを誘うような存在だったといわれています。

 

この十郎に弟子入りしたのが曽我廼家 十吾(とうご)です。8歳からにわかの舞台に立っていた十吾は十郎のもとで芸に磨きをかけ、「天性のにわか師」と呼ばれるまでになります。得意な役どころは「おばあさん」。プライベートでは自由気ままなところがあって、「とんずらの十吾」と呼ばれていたとか。

 

その後、「曽我廼家十郎一派」に現代劇の新派の役者が加わって、「第一次松竹家庭劇」が生まれます。そしてさらに「松竹新喜劇」の誕生へと、上方喜劇の歴史は続いていきます。

 

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古川 綾子(ふるかわ あやこ)

1973年生まれ、大阪府出身。上方芸能研究者。元大阪府立上方演芸資料館学芸員、元国際日本文化研究センター助教。芸術選奨文部科学大臣賞選考審査員、文化庁芸術祭執行委員会審査委員など。著書に『上方芸人自分史秘録』(日本経済新聞出版社、2011年)。