2021年07月30日 (金)
ウガンダ選手団が残したもの
選手団の相次ぐ感染確認で、全員が濃厚接触者となったウガンダの選手団を受け入れた、ホストタウン、大阪・泉佐野市。
選手たちが去ったあと、残していったのは、意外なものでした。
(NHK大阪放送局 記者 鶴本 宏)
■相次ぐ感染、そして失踪
出だしから混乱続きでした。
コロナ禍が続く中での開催となった東京オリンピック。
開催のおよそ1か月前のことし6月、成田空港に降り立ったウガンダの選手団は、いきなり困難に直面します。
選手団の1人が検疫所での検査で陽性と確認されたのです。
ただこのとき、国は濃厚接触者をどのように判定するのか明確な基準を持っておらず、残る選手団8人は、そのままホストタウンの大阪・泉佐野市のホテルに、貸し切りバスで半日かけてやってきました。
■受け入れるホテル
ホストタウンは本来、海外の選手たちとの草の根レベルでの国際交流を目的としています。
泉佐野市でも、地元の子どもたちとの交流行事などが予定されていましたが、選手団の感染確認を受けて行事はすべて中止となり、選手たちはホテルと練習会場との往復だけの日々を強いられることになりました。
泉佐野市に到着後、地元の保健所は選手団全員を濃厚接触者に認定。
後日、さらに1人の感染が新たに確認され、選手団はしばらくホテルから一歩も出ることができない日々を過ごしました。
そんな日々を、ホストタウンのホテルは、「おもてなしの心」で支え続けていました。
■地元の味を
遠い外国で慣れないホテル暮らし。
気落ちする選手たちを少しでも元気づけたいと、滞在先のホテルの社長、西隆さんは、選手たちの支援に乗り出します。
ウガンダ大使館が派遣したシェフの協力を得て、「ポショ」と呼ばれるトウモロコシの粉で作る現地では主食となっている料理や、手羽先を使ったカレーのような料理など、母国の味を毎日用意しました。
海外に滞在したときに食べたくなる、白いご飯にみそ汁。選手たちにとってはそんな存在だったのかもしれません。
■失踪
しかし、そんな矢先、ホテルは異例の事態に直面します。
事前合宿中に世界ランキングが下がったことで、オリンピックへの出場ができなくなったウエイトリフティングの選手が、「生活の苦しい国には戻らず、日本で仕事をしたい」などと記したメモを残して失踪したのです。
ホテルでは、泉佐野市が委託した旅行会社の社員が夜間も交代で人の出入りを見守っていましたが、ホテルはもちろん誰かがいなくなることを前提に「監視」していたわけではありません。
「ホテルは穏やかに過ごしてもらうところであり、刑務所ではありません。」
ホテル側はそう話していましたが、「何を警備していたんだ」とか、「もし見つからなかったらどうするんだ」などと、ホテル側を責めたてる内容の心ない電話やメールが何本も寄せられたと言います。
その一方で、選手たちを励ます多数のメールや手紙がホテルには送られてきました。
選手たちの食事会場となったレストランの壁にすべて張り出され、このうち、英語で書かれた市民からの手紙には、こう記されていました。
「選手団の皆さんを応援する多くの日本人がいることを知ってほしいです。皆さんのオリンピックでの成功を願わせてください。日本での思い出が最終的には良いものとなりますよう願っています。」
■旅立ちの日
今月20日。残る選手団は、東京の選手村に向けて旅立ちました。
結局、市民との直接の交流はゼロ。
草の根の国際交流のため、泉佐野市は交通費や宿泊費など、あわせておよそ7150万円もの予算を計上していました。
その費用に見合った効果はあったのか。
私は、ウガンダの選手団、そして泉佐野市がホストタウンとなったことをどう受け止めているのか、街の人たちに話を聞いてみました。
60代の会社員の男性。
「市民との交流は1つの目的だったので、非常に残念だ。今後、オリンピックが終わってからもスポーツイベントなどを開いて市民が参加できるようにしてほしい。」
70代の主婦。
「市民交流に税金を使うのはある程度はしかたない。スポーツをしている若い人たちも交流したかったのではないか。小さな町なので予算的に大変だと思うが、今後、さらに交流を広げてほしい。」
もちろん、市民全員が同じ意見ではないはずです。
それでも、コロナ禍が続く中、できるかぎり行った対応に、好意的な声が多かったように感じました。
こんな市民やホテル側の思いは、ウガンダ選手団に届いていたのか、出発にあわせて出されたコメントに、その答えがありました。
「泉佐野に滞在できとてもうれしく思います。事前合宿を受け入れてくださり感謝申し上げます。すばらしいおもてなしをいただきました」と
「到着したときは隔離されるなどの非常に困難な時期を過ごしました。一方で皆さんの温かいサポートを賜りありがたく思っています。皆さんのことを忘れず泉佐野で過ごした時間を心に留めてオリンピックに参加したいと思います。」
ホテルを後にし、バスに乗り込む選手たちの手には、小さな贈り物がありました。
地元の子どもたちがメッセージを寄せたタンブラーです。
何と書いてあるのかまでは見えませんでしたが、全員が大事そうに手にしていました。
走り去るバスに向かって、「頑張れ!」と声をかける市の職員たちに、必死に手を振るウガンダの選手の姿もありました。
波乱続きだった1か月のホストタウンとしての日々。
直接のふれあいはありませんでしたが、少なくとも「ウガンダ」という、なじみが薄かった東アフリカにある国の名前は、多くの市民に刻まれたことは確かです。
ウガンダ選手団が残したもの。
それは、決して目には見えませんが、意外と大きなものだったのかもしれません。
滞在先のホテルの社長、西隆さんは言います。
「苦労はありましたが、受け入れをしてよかったです。今後、オリンピックが終わって時間があれば、ぜひまた寄ってほしいです。そのときは歓待します。」
かんさい深掘り
ニュースほっと関西 特集・リポート
ほっと関西ブログ
関西 NEWS WEB
京都 NEWS WEB
兵庫 NEWS WEB
和歌山 NEWS WEB
滋賀 NEWS WEB
奈良 NEWS WEB