2020年09月07日 (月)
"銀閣寺" 当初の建設予定地はどこに?
枯れ山水に水墨画、佗茶(わびちゃ)・・・。華やかな北山文化で花開いた室町文化は、室町時代中期に入り、わび・さびや幽玄など簡素さの中に価値を見いだした東山文化として広がりと深みを見せました。その東山文化の拠点となったのが、銀閣寺の建つ東山山荘です。室町幕府の8代将軍、足利義政が隠居の地として建設しました。
この東山山荘、もともとは違う場所に建設が予定されていました。それがいったいどこなのか。これまで具体的な場所は分かっていませんでした。
今回、その場所が初めて明らかになりました。思わぬところで発見された古文書と、その古文書に沿った研究者の町歩きのたまものでした。
建設予定地からは、これまでとはイメージの異なる義政の意図が見え隠れします。
(大阪放送局記者 三谷維摩)
■謎だった当初の建設予定地
東山山荘は室町幕府の8代将軍、足利義政が隠居後の居住地として1465年に建設を計画しました。
当初は「恵雲院」という寺の敷地を建設予定地としていたことが分かっていて、実際に、義政自身も恵雲院を視察したという記録が残されているほか、材木の調達にも取りかかっていたことが分かっています。
ところがその後、建設予定地は変更され、現在の場所に建設されます。
そして、恵雲院自体は戦国時代に消滅してしまい、当初の建設予定地がどこだったのか、分からなくなっていました。
南禅寺の文書などから、恵雲院が数十ある南禅寺の塔頭(たっちゅう)のひとつだったことは分かっていましたが、手がかりはそこまで。「南禅寺の敷地内にあったのではないか」といった推測もされていましたが、具体的な場所は分からずじまいでした。
■思わぬ記載を発見
その、もともとの建設予定地を突き止めたと発表したのが、大阪大谷大学文学部の馬部隆弘 准教授です。
馬部准教授は、戦国時代の京都の戦乱について研究していて、2018年8月、名古屋市博物館が所蔵する土豪に関する史料を確認しに行きました。その中で、当時の京都で土地を売買した際の証書、「売券」を見つけました。
売券は、史料としてはありふれたもので、当初は、この古文書の重要性に気づかなかったといいます。ところが、ある日、売買する地目の欄に「恵雲院」の文字を見つけました。
売券では、冒頭部分に「四至(しいし)」という土地の四辺を記載するのが一般的でした。
見つかった売券でも、▽東は「若王子ノ藪」、▽南は「同川(=若王子川)」、▽西は「トイ(=土居)」、▽北は「りょう徳寺の馬場」と書かれていたのです。
大阪大谷大学文学部 馬部隆弘 准教授
「この史料は、個人の収集家が集めたさまざまな古文書のひとつで、体系立っているわけでもないので、そこまで注目されていませんでした。私も最初は、ありふれた史料だと思っていましたが、記載に気づいたときには『これはえらい物を見つけてしまったな』と思いました」
■謎解きスタート
若王子にある川
この土地はいったいどこなのか。地図を確認すると、若王子という地名はいまも残っていました。東は藪、南は川。この2辺はすぐに特定できました。
問題は北と西です。北の「りょう徳寺」に関する情報は残されていませんでした。しかし、西の「土居」は手がかりになりそうです。
土地の境界線を「土居」と表現するからには、それなりの段差があったのではないか。馬部准教授は現地を実際にくまなく歩いて回り、地形を注意深く観察しました。
奥の駐車場が低く、車の屋根しか見えないのがわかる
そして、若王子川に沿って西へ向かって歩いて行くと気になる光景が目に入りました。空き地の向こう側に、車の屋根の部分だけ見え隠れしています。
駐車場と奥の住宅街に段差があるのがわかる
回り込んでみると、やはり、数メートルの段差になっていました。ほかは平たんな土地が続く中で、ここだけ段差になっていることから、土地の境界線として記載された「土居」はこの場所ではないかと、馬部准教授は結論づけたのです。
こうして、東山山荘の当初の建設予定地は、いまの場所から1キロほど南で、街の中心部にも近い、京都市左京区南禅寺北ノ坊町周辺の50メートル四方ほどの場所だったと特定することができました。謎がひとつ、解けた瞬間です。
南禅寺の境内ではないかという推測もありましたが、南禅寺からも500メートルほど離れた場所となっています。
■場所特定の意義とは
今回、東山山荘の本来の予定地が明らかになったことは、単に謎がひとつ解けたということ以上の意義があると、馬部准教授は指摘しています。
東山山荘は「わび・さび」に代表される東山文化の中心で、足利義政は隠居してそうした文化に没頭したイメージがついています。しかし実際には、隠居後も積極的に政治に関わり「隠居政治」を行おうとしていたという見立てが現在の主流となっています。
隠居後の生活拠点を、現在、東山山荘の建つ東山の北端ではなく、より南側の寺社が建ち並び、京都と東日本を結ぶ幹線である東海道にも近い場所に据えようとしていたことは、義政のそうした精力的な意図を裏付ける発見でもあるということです。
大阪大谷大学文学部 馬部隆弘 准教授
「今回の研究は、古文書の分析と、実際に土地の形状を分析する地理学とが合わさって新たな発見に至ったという意味でも意義深いと思っています。京都はさまざまな場所が何らかの形で発掘調査がされている印象がありますが、今回の場所は、これまで一切、発掘調査がされていないということでした。今後、何らかの調査が行われて、さらなる発見につながることを期待しています」
思わぬところで発見された1つの古文書がきっかけで、解明された歴史の謎。
もしかすると、みなさんの身近な蔵で眠る古文書が、歴史上の重大なミステリーを解き明かす端緒になるかもしれません。
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