アメリカ統治下では、沖縄の行政トップである琉球政府主席は、ながらく米軍政府の任命によって決まっていました。 そのため、「主席は米民政府の代行機関にすぎない」と表現され、 沖縄の人の思いが直接には反映されない状況でした。 度重なる要求の結果、復帰が近づく68年に「公選の権利」を獲得。 復帰を見据え「即時無条件前面返還」を掲げた屋良朝苗氏が当選し、初の公選行政主席になりました。
小学生だったぼくでも「屋良主席」という言葉はとてもよく憶えていました。 自然とそういう呼び方を憶えていました。
1968年の琉球政府主席公選では、屋良朝苗と西銘順治の一騎打ちとなりました。 屋良が「即時無条件全面返還」を唱えたのに対し、西銘は斬新的な沖縄の日本復帰を目指し 「一体化」を掲げます。西銘は、屋良の言うように「即時」に沖縄が日本に復帰し、 米軍基地が沖縄から撤去すれば、沖縄は戦前のように「イモとハダシ」の貧しい生活に戻ると強調しました。 結局、多くの住民たちは屋良に投票しました。 屋良の勝利は、日米両政府に大きな衝撃を与え、翌1969年の沖縄返還合意につながっていくのです。