これまでの放送

2020年8月13日(木)

100歳の元兵士 生き延びる尊さ

新潟県在住の佐藤哲雄さん、100歳。1944年に始まったインド北東部でのインパール作戦に参加した元日本兵です。無謀な行軍、砲弾による大けが、壮絶な戦場から帰還し、生きてきました。終戦から75年。生き抜く尊さと戦争に対するメッセージを伺いました。


佐藤さんが持ち帰ってきた機密史料「陸軍戦時名簿」

「陸軍戦時名簿」と呼ばれる軍の公式記録。いつ、どこへ、どう向かったのかなど、インパール作戦での行動の詳細について、現地で書かれたものですが、軍の機密史料で戦後に多くが焼却されたため、とても貴重です。佐藤さんが、戦地からひそかに持ち帰ってきました。

佐藤さん
「(記録係が)『ほらぁ佐藤これ持ってけ、内緒だぞ』って丸めて投げてよこしたんだ。どこ入れたらいいと考えて、靴の底入れて持ち帰ったんだけどの。」

十分な食糧もない無謀な行軍 自身を襲った大けが

“三月十五日 作戦開始ノタメ『コダン』出発”

ビルマ・現在のミャンマーを制圧した日本軍は、1944年(昭和19年)3月、敵の補給の要衝、コヒマを抑えるため、国境に近いコダンを出発しました。

急峻な山をいくつも越えていく過酷な進路。ところが、佐藤さんの部隊に与えられた食糧や輸送手段は牛と羊、合わせて8頭。最大の難所は、それらを連れて川幅600メートルにもおよぶ大河・チンドウィン河を渡ることでした。

佐藤さん
「牛はみんなパーッと流されてしまった。羊か何か2頭か3頭かいたけれども、あとみんな川に落ちてしまった。」

食糧も輸送手段も失い、絶望感が漂う中、佐藤さんは大けがに見舞われます。

“左膝関節、砲弾破片創ヲ受ケ野戦病院ニ入院”

佐藤さん
「破片が刺さったちょうど筋と筋の間に入って、骨のところまでいって止まったが、貫通はしなかった。でも麻酔がなくて、ぶった切って弾を出した。」

壮絶な敗走路「白骨街道」

“六月二八日 転進”

満身創痍のさなかに出された、事実上の撤退を意味する「転進命令」。しかしそれは、さらなる悲劇の始まりでした。日本兵の多くは敵の攻撃ではなく、「栄養失調」や「マラリア」で命を落としていったのです。日本兵が敗走する道には白骨化した大量の遺体が放置され、“白骨街道”と呼ばれました。

佐藤さん
「“ハゲタカ”、羽広げれば6尺ある鳥だな。その野郎がのさばって人間の肉を食っちまう。(戦地では)なんぼ戦友でも助けてやろうなんていう考えはおきないんだわ、邪道になってしまうんだな、人間っていう頭がねぇんだ。」

飢えや精神的な苦しみから解放されようと、みずから手りゅう弾に手をかけた者も少なくありませんでした。

生還諦めない裏にあった“ある言葉”

それでも佐藤さんが最後まで生きることを諦めなかったのは、かつての上官から言われた“ある言葉”があったからでした。

佐藤さん
「戦地行っても、『死ぬばかりが国のためじゃない。生きて帰ってきて日本のために働け』とこう言うんだ。」

その言葉をおくった三田清四郎少佐(さんた)。佐藤さんの出征前の上官でした。立派に死ぬことが当たり前だとされていた中、三田少佐の言葉が、戦地で大きな支えになったといいます。佐藤さんは終戦までのおよそ2年にわたり、ビルマの戦場を逃げ続け、生き延びることができました。

佐藤さん
「それ(三田少佐の言葉)が一番影響したな。生きねばならないとな。その人の言葉がなければ、生きねばという考えは起きなかった。」

100歳で実感する“生き延びることの尊さ”

帰国後も、三田少佐の言葉が頭から離れなかったという佐藤さんは、ふるさとに戻り、林業などで生計をたてました。終戦から75年。佐藤さんは100歳を迎えた今、孫やひ孫にも恵まれ、戦争のない平和な暮らしの大切さを実感しているといいます。

佐藤さん
「『必ず帰ってきて日本のために働け』って言うたっていうことは本当だなと、やっぱり身にしみているな。だから、その言葉だけは忘れない。戦争すれば死なねばならない。死んだ人は2度と帰らない。忘れてはならないな。」

※放送時には、「兵籍簿」とお伝えしましたが、正しくは「陸軍戦時名簿」でした。訂正します。

取材:伊原弘将アナウンサー(NHK新潟)

Page Top