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2019年9月10日(火)

戦後74年 “忘れられた日本人”の思い

戦前にフィリピンに移住した日本人男性の子どもとして生まれ、戦後、現地に取り残されたいわゆる「フィリピン残留日本人」。
これまでにおよそ3,800人の存在が確認され、そのうち1,000人あまりが日本とフィリピンのどちらの国籍もないまま“忘れられた”存在となっていることがわかってきました。
その中で、ここ数年で新たに47人の「残留日本人」が確認された場所があります。
フィリピン南西部にあるパラワン島です。
この夏行われた現地調査で彼らは「自分が“日本人”だと認めてほしい」という思いをずっと秘めてきていたことがわかりました。

フィリピン・パラワン島で生きる“残留日本人”

(2019年)8月15日。
残留日本人を支援するNPOの事務局長・猪俣典弘さんが、パラワン島の調査に入りました。
やってきたのは、首都・マニラから飛行機と船で10時間ほどの島北部の漁村です。

日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれたハラダ・ロザリナさん、79歳です。
ハラダさんは、日本にルーツがあることを隠すため、島の奥地に住み続けてきたといいます。

ハラダ・ロザリオさん
「殺されるのが怖かったのです。」

NPOフィリピン日系人リーガルサポートセンター 猪俣典弘さん
「身の危険があったのですか?」

ハラダ・ロザリオさん
「そうです。
だから隠れてきました。」

反日感情残るパラワン島

戦前、生きる糧を求めて3万人の日本人が移住したフィリピン。
パラワン島にも、130人ほどの日本人が暮らしていました。
しかし、太平洋戦争が始まると、日本軍がパラワン島を占領。
軍は島の住民を拷問にかけるなど残虐な行為を続けました。
当時ゲリラ兵として戦った島民に話を聞くと、日本人への憎しみは今も残っているといいます。

元ゲリラ兵 レオポルド・タビンガさん
「日本兵は銃剣で私の叔母を刺し殺した。
私たちも日本人を生きたまま海岸に埋めた。
島民の怒りは消えることはない。」

口に出せなかった日本人としての思い

島民の憎しみを一身に浴びてきた「残留日本人」。
この日面会したタワラ・アントニオさんは、タワラという日本の名前を隠して生きてきました。
しかし、人生の終盤を迎え、自分が日本人であることを認めてもらいたいと考えるようになったといいます。

タワラ・アントニオさん
「ようやく話ができる人に会うことができました。」

タワラさんが、大切にしてきた宝物を見せてくれました。
日本とのつながりを示す、出生証明書。
身の危険を感じながらもずっと隠し持ってきました。

父親の名前は、「タワラ・トメジロウ」。
出生地は「横浜」と記されています。
タワラさんは、これまで口に出せなかった思いを猪俣さんに明かしました。

タワラ・アントニオさん
「ここには日本人の父のことが記されています。
それは言葉にならない喜びです。
この証明書こそが私のアイデンティティのよりどころなんです。」

日本人の父親とのつながり 確かめたい

今回、猪俣さんが調査した「残留日本人」は7人。
全員が生きているうちに自分のルーツをたどりたいという願いを持っていました。
特にその思いを強く抱いていたのが、オオシタ・フリオさんです。

案内されたのは、戦時中、地元ゲリラに銃殺された父親の墓。
いまでも父親の最期の言葉が耳から離れないといいます。

オオシタ・フリオさん
「父は『子どもだけは助けてくれ』とゲリラに頼んでいました。
そのあと胸を打たれて死んでしまいました。」

自分の命に代えて子どもを守った父親を誇りに思ってきたオオシタさん。
今も父親から教わった日本語の歌を覚えています。

歌うオオシタさん
「は~ながさ~く、
は~ながさ~く、
どこへ~きた~。」

来年90歳になるオオシタさん。
命あるうちに父親と自分のつながりを確かめたいという思いが強くなっています。

オオシタ・フリオさん
「ずっと自分は日本人だと思って生きていました。
でも父の祖国・日本をまだ見たことがありません。
猪俣さんと会って希望が生まれました。」

戦後70年以上、忘れられた存在となってきたパラワン島の「残留日本人」。
一刻も早い支援が必要だと、NPOでは考えています。

NPOフィリピン日系人リーガルサポートセンター 猪俣典弘さん
「戦後74年の今になって、自分の命が尽きそうな時期に入ってるときに、いよいよ助けを求めてきている。
我々日本人が同胞の残留2世たちにしてあげられることは、時間が迫っている。」

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