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2019年8月21日(水)

高校生が小学生に伝える“学童疎開”

写真は、都内のある小学校で使われる予定の、社会科の副教材です。
作ったのは、富山県の高校生たち。
原爆や空襲など多くのテーマがある中、選んだのは、いまの子どもたちも身近に感じることができる“学童疎開”でした。

学童疎開の記憶 高校生が挑む教材づくり

高校生たちは、当時の状況を知る人への聞き取りを重ねました。
田嶋絹子さんは、終戦の前後、東京から疎開してきた同じ年頃の子どもたちと半年余り過ごしました。

高校生
「(疎開児童の)1日の生活はどのようなものでしたか?」

田嶋絹子さん
「夜になると、疎開してきた子どもたちは東京の方に向かって、皇后陛下が作られた歌を歌い、ご両親へあいさつをしてから寝ていました。
田舎の子よりも、都会の子の受けた苦労って本当に大変だったろうと思います。
同じ子どもでもね。」

高校生
「初めて聞く話も多かった。
教材を作る題材も増えたと思います。」

戦火が激しさを増すなか、都市部の子どもを地方に移住させた学童疎開。
その数は、全国で40万人に上ると推計されています。
高校生たちが暮らす南砺市福光地区でも、東京にある小学校の児童100人余りが疎開生活を送りました。

教材作りを進めるのは、南砺福光高校の生徒たちです。
当時を知る人から聞き取った話を、記録していきます。
少子化のため、3年後の廃校が決まっているこの高校。
後世に残る活動に取り組もうと、学童疎開の歴史を小学生にも分かる教材にまとめるプロジェクトを立ち上げました。

横川葵(よこかわ・ひまり)さんです。
プロジェクトをきっかけに、学童疎開のことをほとんど知らなかったことに気づかされたと言います。

横川葵さん
「戦争は怖い、とかそのくらいしか思っていなくて、中学校では広島とか長崎のことを中心にずっと勉強していたので、自分が暮らす富山で疎開を受け入れていたとか、全然知らなかった。
みんな辛い思いをしていたことが、私たちが作る教材で伝わればいいかなと。」

疎開した子どもたちの気持ちを知る手がかりになったのが、残された絵日記です。
疎開中の暮らしは、「自分のことは全て自分で」。
遠くからマキや野菜を運ぶなど、慣れない土地での苦労や、「目に涙がたまってきたが、ぐっと我慢した」など、親元を離れて暮らす心情が綴られていました。

学童疎開の実態を伝える教材づくり、その仕上げに5月、東京から富山に疎開していた女性を招きました。
美川季子さん(みかわ・すえこ)です。
生徒たちは、体験した人にしか語れない思いをたずねました。

高校生
「福光の生活、住んでいく中ではどうでしたか?」

美川季子さん
「一時的には楽しかったと思うけど、根本的にはうちに帰りたいっていうのが、何しろ一番の気持ちでした。
福光にいたときに楽しかった思い出は、私にはないですね。」

終わりが見えない戦争。
家族と引き離され、見知らぬ土地で苦労した日々。
富山で終戦を迎えた子どもたちにとって疎開は、戦争そのものだったと語りました。

美川季子さん
「直接戦争に行かなくても、子どもたちにしわ寄せが一番きますよね。
私の日記でいうと、“私の戦争”が終わったのは、東京に帰った時ですよね。
戦争が終わって福光にいる間は、私たちの場合はまだ戦争は続いていたんですよね。」

”疎開生活は戦争そのものだった”。
生徒たちは議論を重ね、体験者の思いを教材に盛り込みました。
完成した教材は、疎開してきた東京の小学校で使われることが決まっています。
教材づくりを通して、高校生たちは子どもたちが強いられた体験に直にふれ、戦争が遠いものではないと感じ始めました。

横川葵さん
「今まではすごい、第三者の目ぐらいな立場で(戦争を)見ていたんですけど、今は寄り添えるというか、他人事じゃないっていうか、身近に感じることができて、今までたくさん聞いてきた話を次の世代の子にも伝えて、戦争は辛かったとか、辛そうだなとか想像でいいからしてもらって、戦争をしてはいけないって気持ちが次の世代にもつながっていってもらえばいいと思います。」

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