
原爆投下から74年を迎えた長崎。
被爆者の平均年齢が82歳を超え、依然として、被爆体験の継承が大きな課題です。
そんな中、注目を集めているのは、被爆50年の年につくられた、通称「黒本」と呼ばれる被爆体験記です。
この「黒本」の中に、今まで全く知らなかった家族の被爆体験を見つける人が相次いでいるのです。
原爆投下から74年を迎えた長崎。
被爆者の平均年齢が82歳を超え、依然として、被爆体験の継承が大きな課題です。
そんな中、注目を集めているのは、被爆50年の年につくられた、通称「黒本」と呼ばれる被爆体験記です。
この「黒本」の中に、今まで全く知らなかった家族の被爆体験を見つける人が相次いでいるのです。
国立長崎追悼平和祈念館に収められた被爆体験記は、8万人分、200冊にのぼります。
平成7年、国は当時存命だった被爆者全員に被爆体験を募り、この冊子にまとめました。
そこには、被爆者たちが家族にも言えなかった正直な思いが直筆でつづられています。
被爆者の手記より
「何べんも死のうと思った。
でも子どものためにがんばりました。」
これは、電柱にのぼって作業している間に被爆して、黒焦げになった人の絵です。
記憶からぬぐい去れなかった、あの日の光景です。
長崎市内の中学校ではここ数年、この「黒本」を平和学習に取り入れるところが増えています。
この日、生徒たちは被爆したおじいさんやおばあさんが「黒本」に被爆体験を残していないか調べていました。
中学2年生の松岡春花さんは、祖父の被爆体験記を見つけました。
そこにあったのは、今まで聞いたことのない祖父の被爆体験でした。
松岡さんの祖父の手記より
“家族全員で食事中、突然ピカッと光がしたので、父と一緒に近くの山の頂上までひた走り長崎方面を見たところ、火が一面に見え、長崎が燃えていた。”
松岡春花さん
「祖父から聞いたことのない話しだった。
いつも会った時は明るく笑って接してくれるので、こういいう苦しいことを体験して、それで笑って接してくれているのがありがたい。」
こうして、黒本を通じて家族の被爆体験と出会う人が増えています。
その1人、川村千恵さんは、2年前、父親の死をきっかけに「黒本」の存在を知りました。
川村千恵さん
「私は黒本に書かれていることを知りませんでしたし、もし読んでいなかったら、父のことを知ろうと思うこともなかったかも知れません。」
黒本には、聞いたこともなかった父・進さんの苦しみが記されていました。
平原進さんの手記より
“直接の被爆症状はないと思うが、毎年8月9日の前後2~3週間は下痢症状が続き、回復するものの心配したことであった。”
ここを読んだ川村千恵さんは、「父の下痢症状について、私は『貝にあたったんじゃないの』とか、非常に心ないひと言を投げかけていた。笑顔の奥の悲しさを読み取ってあげられなかった」と語ります。
去年(2018年)、川村さんは父がどこでどのように被爆したのか確かめるため、長女の夏紀さんと一緒に長崎を訪れました。
平和祈念館の黒本を手にした二人は、あらためて進さんの直筆の被爆体験に向き合いました。
1945年8月9日。
進さんは爆心地からおよそ3キロの路上で被爆しました。
平原進さんの手記より
「運送会社に連絡のため、外出の途中、出島町にあった長崎民友新聞社の直前で被爆した。」
「数秒向こうにいたなら爆心地からさえぎるものもないところであったので、体に直接の影響があったものと思う。」
川村夏紀さん
「想像以上に爆心地の近くっていうか。
もっと遠いところにいて、光を浴びちゃった程度かと思ったけど。」
川村さんは、進さんの被爆した現場を確かめにいきました。
そして、被爆の瞬間、父がほんの数メートルの違いで直接の熱線を逃れていたことを知りました。
川村千恵さん
「ここにもし父がいたら、ここにいたとしたら、爆心の被爆の雲は見えていたと思いますし、直接の被害があったので、おそらく私はこの世に生まれていないのかなと思います。
父が本当にここで苦しい思いをしたんだなと思うと、よく頑張ったねって言ってあげたいです。
生きていてくれてありがとうって言いたいです。」
被爆体験記、黒本。
秘められてきた被爆体験が74年の時を超え、あの日の事実を伝えています。