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2019年8月8日(木)

インパール作戦の“悲惨さ” 市民の視点で

太平洋戦争中、最も過酷な戦いの一つと言われた「インパール作戦」。
旧日本軍は、当時イギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指し進軍。
激しい戦闘や食料など物資の不足により、インド国内だけで3万人に上る日本兵が亡くなりました。
退却した道沿いは日本兵の骨で埋め尽くされ、「白骨街道」とも呼ばれるほど悲惨な状況でした。
さらに戦闘に巻き込まれ、多くの住民たちも犠牲になりました。

地元の人が設立した資料館

作戦から75年となる今年(2019年)、インパール近郊に戦争の歴史を伝える資料館がオープンしました。
館内には現地で発掘された遺品など、貴重な資料が展示されています。

この資料館は、地元の有志が中心となり、日本の財団から資金の援助も受けて設立しました。
設立の中心メンバーの一人、ハオバム・ジョイレンバさんは、地元の仲間と3年以上議論を重ね開館にこぎ着けました。
これまでインドにあった戦争資料館は、軍の輝かしい栄光をアピールするものがほとんどでした。
しかしジョイレンバさんたちは、市民の視点に立った展示が必要だと考え、沖縄の資料館などを視察。
地元の人々から集めた証言を元に、戦争に翻弄された住民の姿を伝えることにしたのです。

ハオバム・ジョイレンバさん
「ここは戦場となりましたが、住民たちは戦争の当事者ではありません。
私たちは日本軍の側でもイギリス軍の側でもありませんでした。
戦時中、現地の住民たちがどう感じたのかを伝えたいのです。」

明らかになった日本兵の実態

開館を前にジョイレンバさんたちは証言を集めるため、かつて旧日本軍が立ち寄った村を回りました。

日本兵と交流があったという村人が見せてくれたのは、日本兵から譲り受けたという「はんごう」。
前線へ向かう途中で村に来た兵士たちは友好的で、村人も食料の調達を手伝ったと言います。

日本兵と交流があった村人
「私たちと顔も似ているし、正直者で、多くの兵士と友達になりました。
地元の野草を日本の『セリ』と同じだと言って気に入り、カレーにして食べていましたよ。」

しかしその後、戦況は悪化し日本軍は撤退。
再び村にやって来た時、兵士たちの態度はひょう変していました。

日本兵と交流があった村人
「戻ってきた兵士たちは、皆とても飢えていました。
私たちから無理矢理、食料を奪っていきました。
ある若者は、酒を渡すのを拒んだため兵士とけんかになり、そして最後には殺されてしまったのです。」

ハオバム・ジョイレンバさん
「彼らの体験は、非常につらいものでした。
飢えや戦闘が身近にあった当時の状況が、いかに大変だったのか理解しようと思います。」

戦争を双方の立場から伝えたい

資料館には住民の視点だけでなく、別の角度から戦争の悲惨さを伝える資料も展示されていました。
インパール作戦に参加した元日本兵が描いた絵です。
ぬかるんだ山道で動かなくなった車を押し続ける兵士たち。
作戦の過酷さが描かれています。

絵を寄贈したのは、土谷仁志さんです。
土谷さんの父親は、静岡県から出征しインパール作戦に参加しましたが、奇跡的に生還しました。

土谷さんの父親が残した絵や文章には、当時の日本兵たちが置かれた想像を絶するような状況が、生々しく記録されています。
食べ物が無くなり、死んだ兵士のヘルメットで拾った「もみ」を脱穀して食べたこと。
飢えや病気で戦友たちが次々と亡くなり、死体があふれ悪臭が漂う道を歩き続けたこと。

土谷仁志さん
「よく生きて帰れたなっていうか。
本当に戦争の悲惨さが描いてありますし、ちょっと読んでいて涙が出てくる。」

“戦争に勝者はいない”

ジョイレンバさんは、土谷さんの父親の絵を飾るため専用のスペースを設けました。
地元の住民や兵士たち、双方の視点からこの戦争を考えることが、平和を築く出発点になると考えています。

ハオバム・ジョイレンバさん
「戦争中は、兵士も住民も非常につらい困難に直面しました。
そこから私たちが学ぶべきなのは、戦争が何をもたらすのか、戦争に勝者はいないということなのです。」

ジョイレンバさんは、今後この資料館を地元の子どもや学生たちが歴史や平和を学ぶ教育の場として、活用してもらいたいと考えています。

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