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2019年8月6日(火)

広島原爆投下から74年 “核兵器のない世界を”

ことし(2019年)再開館した原爆資料館は、被爆した遺品などの「実物」の展示とともに、被爆者みずからが描いた「絵」の展示にも力を入れています。
この絵の作者の中に、戦後70年近く、自らの被爆の体験をほとんど語ってこなかった男性がいます。
しかし男性は、数年前から、次々と原爆の絵を描き始めました。

絵に込めた“あの日”の思い

広島市の原爆資料館に飾られた1枚の絵。
描かれているのは、暗闇の中を歩く人びとです。
水を求め生きようともがく姿。
ある被爆者が見た、あの日の光景です。

作者の横田礼右さん、78歳です。
爆心地から4キロ離れた自宅で被爆しました。
「70歳を超えて、幼いころの記憶が次々によみがえるようになった」という横田さん。
被爆者が少なくなる中、絵で被爆の実相を伝えようと取り組んでいます。

横田礼右さん
「ここ4~5年、(絵が)“天から降ってきた”感覚です。
絵ならどこの国(の人)にも伝わるし、絵を見てそれぞれ考えることは違ってもいいと思うんですよ。
その人が感じるニュアンスで、また他の人に伝えてもらえたらいい。」

横田さんの絵の特徴は、その色彩です。
犠牲になった多くの人間のやけどや血、そして焼き尽くされた炭のような光景など、被爆した広島を赤と黒で描いています。
その数は5年間で600点に上ります。

当時、4歳だった横田さん。
被爆の瞬間をスケッチに残しています。

横田礼右さん
「記憶に残っているのが、爆風ですよ。
異常だったですよ。」

体にガラスが刺さり大けがをしたものの、一命をとりとめました。
横田さんには、この日の夜、自宅の窓から見えた忘れられない光景があります。
全身が焼けただれた被爆者の目、そして歯です。
その「白さ」が、幼い心に強く刻み込まれました。

横田礼右さん
「(被爆者が)大きな声でどなるわけですよ。
『水をくれ、なんかないか』と言うので、(窓の)隙間から見たら、目と歯がものすごく印象に残って。」

6月、横田さんは新たな作品の制作に取りかかりました。
怒りを表す被爆者たちを描いたあと、最後に横田さんは、「白」の絵の具を取り出しました。
今回、この「白」に、原爆の悲惨さとは違う新たな意味をこめようとしていました。

原爆で焼き尽くされた広島。
被爆者の指の先にあるのは、「輝く希望の光」です。
戦争、そして核がない世界を望む人びとの思いが「白」に重ねられています。

横田礼右さん
「光を感じてほしい。
悪いのは戦争で、人間が悪いわけではないので、“望みはありますよ”と。
望みの光の象徴ということです。
死ぬまで描こうと思っています。
それがやっぱり生かされている自分に与えられた使命じゃないかなという気がしています。」

原爆投下の当日に撮影された「写真」が数枚しか残っていない中、あの日、目にした光景が皮膚感覚とともに表現された被爆者の絵は「現実・事実」としての意味を持っています。
自らの体験を語ることのできる被爆者が年々少なくなる中、こうした絵の役割はさらに増していると言えます。
こうした被爆の現実を学んだ若い世代の中からは、新たな動きも始まっています。

思い受け継ぎ 動く

原爆資料館の近くにあるこちらのカフェ。
資料館を訪れた後、そこで考えたことを話し合う場がほしいと、若い世代が立ち上げました。
ここでは、毎月6のつく日は、被爆者と語り合うイベントが開催されています。
被爆者とは、年の離れた友人のように語り合います。
原爆のことを自分の問題として捉えてもらうためです。

被爆者との交流を続けるカフェの仲間と新たな活動を始めた人がいます。
田中美穂さんです。
広島ゆかりの国会議員に直接会い、「核政策についての考え方」をたずねていくというものです。

田中美穂さん
「若い人たちがやることによって身近なものに感じてもらえたら一番いいと思いますし、被爆者の方には『頼もしい』と思ってもらいたい。」

きっかけとなったのは、2年前、国連で採択された核兵器を禁止する条約についての日本政府の対応でした。
条約は「核を持つ国と持たない国の分断を深める」として、交渉にすら参加しなかったからです。
これは被爆国として取るべき姿勢なのか、違和感を抱いた田中さん。
政府をただす立場にある国会議員一人一人から、条約についての考え方を聞き取り、公開することにしました。

佐藤公治 衆議院議員
「私の思いは賛同しております。
できればこういうことの中心的な国であってもらいたい。」

条約を批准すべきだという意見がある一方で、ただちに条約に賛同するのは難しいという考え方もありました。

小林史明 衆議院議員
「現時点でどちらかの立場を強くすると、どちらかの交渉は難しくなってしまう。
条約を批准することは難しい。」

田中美穂さん
「自分たちと反対の意見に出会うことが多い。
距離の取り方が特に最初は難しかったです。」

活動を通して核をめぐるさまざまな意見に接した田中さんたちは、報告会を開いたり、活動の成果をネットで公開したりして、核をめぐる議論をさらに活発にしていきたいとしています。

田中美穂さん
「(核の使用は)二度とあってはいけない。
それが起こるかどうかは今生きている世代にかかっているわけで、しっかりと今の若い世代が自覚するということが大事だと思います。」

実は、田中さんも、カフェを立ち上げた女性も、広島県外の出身です。
74年前を経験していなくても、広島の出身でなくても、被爆者の思いを受け継ぐことはできるといえそうです。
市民レベルの動きが活発になっている一方、核兵器廃絶に向けた政治の動きは停滞しています。
核兵器禁止条約に対する日本政府の姿勢は今も変わっていませんし、今月(8月)には、これまで核軍縮の流れをつくってきたアメリカとロシアのINF=中距離核ミサイル全廃条約が失効しました。
こうした中、広島は、被爆から74年の原爆の日を迎えています。

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