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2017年5月2日(火)

“言論へのテロ” 30年の問いかけ

高瀬
「忘れてはいけない事件から、明日で30年になります。」

銃弾でひしゃげたボールペン。
新聞記者の胸ポケットにあったものです。
1987年5月3日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件。
目出し帽を被った男が侵入し無言で散弾銃を発砲。

至近距離から銃弾を受け、1人の記者が亡くなりました。
小尻知博さん、当時29歳でした。

犯人は「赤報隊」と名乗り、犯行声明文を送ってきました。

“反日分子には極刑あるのみ”

犯人は捕まらず、15年前に時効になりました。
事件は今の社会にも影を落としています。

高瀬
「30年前に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件。
1人が死亡、もう1人が重傷を負いました。」

和久田
「『赤報隊』を名乗る犯人は、他の支局にも爆発物を仕掛けるなど、あわせて5件の事件を起こしました。
そのたびに送られてきた声明文は、『日本を否定するものは許さない』と、意にそぐわないものは排除すると主張し、戦後初めて起きた『言論へのテロ』とされました。」

高瀬
「30年たとうとする今なお、事件と向き合い続けている人たちがいます。」

“言論へのテロ”から30年 今に問いかけるもの

リポート:森亮介(大阪局)

当時現場にいた記者が、事件のあと抱え続けてきた思いをNHKのカメラの前で初めて語りました。
高山顕治さん、55歳です。
埼玉県内にある朝日新聞の支局で、記者として働いています。
当時、阪神支局にいた高山さん。

高山顕治さん
「3人掛けのソファー。
犯人はこの辺に。」

同僚が撃たれるのを目の前で目撃しました。
 

高山顕治さん
「小尻さんが死んだと言われた時の、悔しさというか衝撃というか、わーって叫びたくなるような悔しさみたいのは、今でもやっぱり思い出す。
それは30年たってもあまり変わっていない。」

高山さんは事件のあと、銃を持つ男が枕元に立っている夢を何度も見ました。
その恐怖は今も消えていません。
それでも高山さんは、記者を辞めようとは思わなかったと言います。
言論へのテロに屈してはならないと、今も記事を書き続けています。

高山顕治さん
「もちろん怖いですけど、それでひるんだら元も子もないというか、相手の思うつぼ。
声を上げ続ける。
記事なり写真なりでやっぱり発信し続ける、声を上げ続けることは大事だと、それはずっと思っている。」

前例のない言論へのテロ。
その動機はなんだったのか。
事件直後から捜査を指揮した警察幹部です。
犯行につながる思想的背景をたどろうとしましたが、難航したと言います。

兵庫県警 元捜査1課長 山下征士さん
「言論機関を狙った事件はどういうのがあるか、最初の勉強からスタートする必要があったので、手探りで勉強していったというのが正直な犯人の絞り方の捜査だった。」

NHKが入手した警察の捜査資料。
警察は、朝日新聞が報道した記事に反感を抱く可能性のある人物やグループを徹底的に洗い出し、1万人以上をリストアップしました。

新興の宗教団体の活動を問題視した報道が原因ではないか。
東京裁判や靖国神社の参拝を巡る記事に異議を唱えるグループの犯行ではないか。
警察は捜査対象として10人程度まで絞り込みましたが、結局、犯人を特定できませんでした。

あれから30年。
赤報隊のような考え方が今もあると感じる人がいます。
現在も取材を続けている樋田毅さん。
阪神支局の元記者で、この事件の取材班のリーダーも勤めました。

 

樋田毅さん
「恐怖よりも、犯人への怒りのほうがはるかに強かった。
小尻記者はかわいい後輩、その後輩記者が29歳で殺された。
こんなことは許すわけにはいかない。」

ここ数年、樋田さんが強い危機感を抱いていることがあります。
外国人を激しい言葉でののしるヘイトスピーチ。
インタ-ネット上で広がり続ける憎しみの連鎖。

自分の意にそぐわないものは排除するという不寛容な言動。
かつての赤報隊のような考えが、今の社会で増えているのではないかと感じています。

樋田毅さん
「短絡的で、『処刑だ』とか『死ね』とか、『反日だ』と決めつけてレッテル貼りをして、赤報隊の主張のしかたをまねたような言論や文言がインターネット上で飛び交っている。
これが赤報隊の影響と言えるかもしれないと思う。」

赤報隊の声明文にある一文です。

“われわれは日本のどこにでもいる”

樋田さんは事件があった日が近づくと、言論について考える講演を行っています。
他人の考えを一方的に排除しようという風潮に警鐘を鳴らしています。

樋田毅さん
「今の状況を赤報隊は喜んで見ている。
お互いにそれぞれできることをやりあって、連携しあっていかなければ、この自由な社会は保てない。」

樋田毅さん
「これは赤報隊との戦いなんだ。
今本当に考えないと、後戻りができないような社会になりかねないと思う。」

“言論へのテロ”が残したもの

和久田
「取材にあたった神戸放送局のスレイマン記者です。
事件に関わった記者や捜査員は、今なお事件と向き合い続けているんですね。
30年前に起きた事件を取材して、どう感じましたか?」

スレイマン・アーデル記者(神戸局)
「私が生まれたのは、まさに事件が起きた年です。
新聞の報道を封じ込めようという目的で、いち記者を殺害するという理不尽な犯行に、私自身も同じ記者として、強い憤り、怒りを感じました。
取材に応じてくれた人たちからは、亡くなった記者の無念を晴らしたいという思いと、言論への暴力を決して許してはならないという強い執念を感じました。
また捜査員の多くは『情報を知る手段として、新聞が最も身近なものの1つだった当時、それを封じ込めようとする犯行に、言いようのない不気味さと、不可解さを感じた』と口にしていました。
犯人を特定できなかったことで言論への暴力をゆるしてしまい、それを罪に問えなかった、今の社会に不安を残したことを悔やんでいました。」

“言論”はいま

高瀬
「この30年前の事件は今、何を投げかけているのでしょうか?」

スレイマン記者
「『異なる意見を許さない』という不寛容さが続いていることに、事件に関わった人たちは危機感を持っていました。
インターネットによって、誰もが自分の意見を発信できるようになりました。
それに対して、人を傷つけたり、人格を否定したりして、他人の意見を押さえ込むような言動も数多く目にします。
赤報隊のような殺意は持っていなくても、匿名性に隠れることで自制がきかなくなり、他人の痛みを無視した、むき出しの差別、憎悪が広がっています。
他人の意見を一方的に封じ込める動きが加速すると、誰も意見を言わなくなり、民主主義の根幹が揺らぎかねません。
考えが異なる人たちの存在を認め、意見を交わし合うことでしか自由な社会は守れないということを、30年前の事件から学ばなければならないと感じました。」

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