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2021年5月30日

コラム 1400年の時を超えて続く太子信仰

「太子の夢 法隆寺の至宝」いかがでしたか? 日美ブログでは1400年の時を通じ、聖徳太子が日本人にとっての心のよりどころであり信仰の対象であり続けたことを表す「太子信仰」にスポットをあてます。こちらもあわせてどうぞ。

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重要文化財 「聖徳太子坐像(七歳像)」 奈良・法隆寺蔵

今年2021年は聖徳太子が亡くなって1400年にあたるとされ、各所で関連する行事や法要が行われています。

そもそも聖徳太子と日常的に呼んでいますが、本当の名前は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」。聖徳太子という尊称が登場するようになるのは、厩戸皇子の死後1世紀以上が経った8世紀以降のことです。

実際に優秀な政治家であったと伝えられていますが、没後に伝説が付け加えられた向きもあるようです。かの有名な「10人の話を聞き分けた」というエピソードは奈良時代に編纂された歴史書『日本書紀』中の記述などがもととなっていますが、当時すでに高まりつつあった太子信仰とともに脚色された向きが強いと考えられています。

救世観音と如意輪観音

太子信仰の火付け役のひとりとなったのは8世紀初め、法隆寺敷地内に「東院伽藍」を造営した僧・行信とされています(それ以前、法隆寺には金堂や五重塔で知られる西院伽藍しかありませんでした)。夢殿を建て、その本尊として観音像を安置しました。聖徳太子等身の像とされ、救世観音と呼ばれるようになりました。救世観音はもともと仏教の経典の中に説かれているわけではなく、平安時代の法華経信仰の広まりに乗じ、聖徳太子の伝説が付帯されていくにつれて民間で定着していった観音菩薩であるようです。したがって救世観音といえば聖徳太子の代名詞のように語られています。 

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重要文化財 「如意輪観音菩薩坐像」 奈良・法隆寺蔵

聖徳太子は如意輪観音の化身と語られることもありますが、これもまた平安時代に民間で盛んになった如意輪観音信仰と関係しているようです。たとえば法隆寺東院と隣接している中宮寺の本尊「菩薩半跏像」(飛鳥時代の作)は伝・如意輪観音とも言われますが、その姿かたちから弥勒菩薩とされることも多い仏像です。つくられた当初は違ったけれど、その後の民間信仰がきっかけで如意輪観音とみなされるようになったのでは?と言われています。

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国宝 「聖徳太子絵伝」 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)

それから平安時代の作と伝えられる国宝「聖徳太子絵伝」(今回の「聖徳太子と法隆寺」展でも出品されていますが、奈良会場・前期のみの展示で、すでに展示は終了しています)について、現在では屏風絵の形式が取られていますが、もともとは法隆寺東院の中にある絵殿の内壁を飾っていた障子絵でした。明治時代初頭の廃仏毀釈運動(※)から寺宝を守るため皇室に献納した際に屏風絵として改装されたとのことです。

※廃仏毀釈……明治維新政府による「神仏分離令」をきっかけにして起きた仏教の排斥運動。寺院が焼き払われたり、仏像など文化財が破壊されるなどした。

宗派を超えた太子信仰

聖徳太子亡き後、太子信仰はさまざまな方面に浸透していきました。 平安時代、最澄が開いた天台宗は中国の慧思(えし)法師の法華経の教義を元にしています。そこから日本に法華経を招来した聖徳太子は慧思の生まれ変わりであるという説を唱えるようになり、天台宗のお寺において太子は特別な存在として扱われています。たとえば兵庫県加西市にある一乗寺には国宝「聖徳太子及び天台高僧像」が所蔵されていますが、文字通り天台宗の高僧と聖徳太子が並べられています。

平安時代の政治を司った藤原氏も太子信仰に熱心で、太子が建立したとされる寺のひとつ、大阪の四天王寺にたびたび赴き願掛けをしたことが知られています。四天王寺は藤原氏との結びつきなどもあり平安時代以降、太子信仰の中心的存在となりました。

真言宗においては空海の没後、平安時代末期頃から空海が聖徳太子の生まれかわりと考える「聖徳太子後身説」を打ち出しました。

鎌倉時代も太子信仰はとどまるところを知らず。時宗の開祖、一遍上人の全国行脚の模様を描いた絵巻物『一遍聖絵』の中では一遍が四天王寺や太子廟に参詣する様子が描かれています。

日蓮は日蓮宗を興しましたが、教義のよりどころとしたのは法華経ですから日本で最初に法華経を広めた人物として聖徳太子を崇拝していました。

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重要文化財 「聖徳太子像(孝養像)」 奈良・成福寺蔵

特に聖徳太子への思い入れが強かったことで知られるのは浄土真宗の開祖・親鸞です。太子は「和国の教主」、すなわち日本仏教の祖であると親鸞は語りました。浄土真宗のお寺の本堂では阿弥陀如来が本尊として中央を占め、その余間に七高僧と聖徳太子の画像が並んで安置されることになっていますが、聖徳太子への厚い信仰の表れです。
また番組では、16歳の頃の太子の姿をモチーフにした孝養像(きょうようぞう)について紹介しましたが、こうした像が特に多く見られるのも浄土真宗寺院と言われています。父・用明天皇の病気快癒を祈願する姿を表した像とされますが、みずら(※)の髪型をして、柄香炉(えごうろ)を持つ姿をしているのが特徴です。

※みずら…髪を左右に分け、毛先をそれぞれ耳の辺りで8字形に結んだ日本古代の男性の髪型。

現代まで連綿と息づく

室町時代には、鎌倉時代に興った禅宗が幕府の庇護を受けて普及していきますが、禅宗の祖は達磨。奈良県の達磨寺では達磨と太子が出会っていたという伝説が残されていますが、このように禅僧のあいだでも太子信仰がありました。

その後の時代においては、たとえば信長や家康の太子信仰にまつわるエピソードが数多く残っています。徳川家康は大坂冬の陣のさなか、戦勝祈願のために法隆寺に立ち寄りました。法隆寺は江戸時代を通じて徳川家の庇護を受けた徳川家ゆかりの寺でもありました。

聖徳太子は宗派を問わず信仰されてきた歴史があるので、現在もさまざまな宗派の寺院に聖徳太子像を安置した太子堂が見られます。「太子堂」という地名も地域に根付く太子信仰から発していることは言うまでもありません。今日でも太子信仰にもとづく風習が各地域に残っています。太子信仰は私たちの生活や文化の中に連綿と息づいてきたと言えるでしょう。

展覧会情報

◎聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」展
4/27-6/20 奈良国立博物館
7/13- 9/5 東京国立博物館