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2021年1月24日

コラム 横山操と「青龍社」

1/24 「雄々しき日本画 横山操 伝統への挑戦」、いかがでしたか?日美ブログでは美術団体「青龍社」との関係から横山操を読みときます。こちらもどうぞ。

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1956年発表の「炎炎桜島」(新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵)。この作品で青龍展の最高賞を受賞した。 

異端画家・川端龍子がつくった「青龍社」

日本画家・川端龍子や「青龍社」との関わりについて語らずして横山操への理解を深めることはできないかもしれません。

1920年、新潟県生まれの横山操は戦後の1950年代半ばからその作品が注目を集めるようになっていきますが、その出発点となったのは川端龍子が中心となって設立した美術団体「青龍社」の団体展「青龍展」において、1940年に初入選を果たしたことです。

このときのことを横山は後年「青龍社に入選することが、アバンギャルドの一員になったような気がして嬉しかったものであった。」と語っています。青龍展は、クラシカルな作品の多かった院展とは対照的に、当時の常識をくつがえすような革新的な絵描きが集まることで知られていました。

しかし喜びも束の間、横山は直後に徴兵され終戦までの5年間を中国で従軍。さらにシベリアで5年間抑留され石炭を掘る仕事に従事します。ようやく1950年に復員。空白の10年を経て、青龍社の門を再びくぐり、以後毎年青龍展に出品、賞を重ねていきました。

大スケールの日本画

そして1956年、青龍展における最高賞であり過去にはひとりの受賞者しか出たことがなかった「青龍賞」を、噴火する桜島を描いた「炎炎桜島」でもらいます。次第に横山操への注目が高まりそのダイナミック画風もあいまって “戦後日本画壇の風雲児”などとうたわれるようになりました。「これまで川端龍子一人といわれたこの会場芸術展に、有力新人横山撰がぐんぐん伸びてきたのは壮観」と当時の評にも書かれています。(美術評論家・河北倫明による当時の展評)

特徴の一つはその迫力いっぱいの大画面。「炎炎桜島」は幅が4m以上。同じ年の「溶鉱炉」に至っては幅が10mを越します。いずれも従来の日本画とは一線を画する圧巻のスケールです。 

もっとも大作主義は青龍社の十八番でもありました。師・川端龍子がそれまで所属していた院展を抜けて青龍展を始めたのも、大画面の日本画を出品しようとしたところ否定されてしまったことがきっかけでした。広々とした会場にふさわしい絵を目指したつもりが、床の間空間に飾ることを前提として小さく優美にまとめる院展の方向性と合わなかったのです。

そして川端は横山のことを特別に目をかけ、注目すべき新人として折あるごとに推していました。

青龍社からの脱退

しかし皮肉なことに大作が理由で横山操は青龍社とたもとを分かつことにもなりました。1962年の夏の終わり、次の青龍展に出品する予定の横山の新作「十勝岳」が大き過ぎると先輩の門人から問題視され、それがきっかけで横山は脱退届を提出します。川端は何も言わず、追うことはしませんでした。青龍社は横山脱退後4年後、1966年の川端龍子死去をもって解散となります。

横山操は節目節目で過去の自作を焼却したことが知られていますが、青龍社を脱退するときも新しい出発を期して大量に作品を処分したそうです。しかし青龍社を辞しても横山操にとって川端龍子が特別な存在であり続けたことは違いありません。

展覧会情報

「生誕100年記念 日本画家 横山操展 —その画業と知られざる顔—」
1月23日〜3月21日
新潟市新津美術館(新潟)