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2020年7月26日

コラム 棟方に影響を与えたもうひとりの師「河井寬次郎」

7/26放送の日曜美術館「自然児、棟方志功〜師・柳宗悦との交流〜」では、“世界のムナカタ”と呼ばれた版画家、棟方志功と、棟方を見出し大版画家に導いた民藝運動の思想家・柳宗悦の交流について取り上げました。日美ブログでは、同じく棟方志功に多大な影響を与えた陶芸家・河井寬次郎との関係についてご紹介します。

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河井次郎記念館の看板には棟方志功の文字が使われている。

河井次郎との出会い

1936年、棟方志功が国画会展に出した作品『大和し美し』が民藝運動の創始者・柳宗悦と陶芸家・濱田庄司の目に留まり、さらに柳宗悦がその年の秋に開館を控えていた日本民藝館のために買い上げたことがきっかけで、その後も柳と強い絆で結ばれていきました。濱田庄司との縁もこれを機に続いていきます。しかしもうひとり、棟方志功にとって大きな影響を与えた人物と言えば、同じく民藝運動の中心的存在であった陶芸家の河井次郎です。河井は柳・濱田からの連絡を受けて、京都から訪ねて行きました。

それから柳と河井の2人は、当時東京・中野に住んでいた棟方の自宅を訪れましたが、「京都で仏像が見たい」と言う棟方に答えて、その翌日、河井は棟方を伴って京都の自邸に戻りました。結局1か月以上にもわたり棟方は河井邸に滞在。京都を巡るのと合わせて、河井から『碧厳録(へきがんろく)』という禅の書の手ほどきも受けました。棟方の作品の背景にある仏教の思想も、河井からの影響によるところが小さくありませんでした。

福光時代と河井寛次郎

棟方は太平洋戦争末期、戦火を逃れて東京から富山県西砺波郡福光町(にしとなみぐんふくみつまち。旧町名。現在の南砺市にあたる)に疎開しますが、そのきっかけを作ったのも河井です。棟方は青森市の出身ですが、地元には疎開しませんでした。疎開するより前、棟方は河井からの紹介で福光町の浄土真宗寺院・光徳寺の住職と知り合っており、以来一年に数度光徳寺を訪れる間柄になります。福光町へ疎開したのもその縁があったことは大きく、事実、疎開直後は光徳寺に住まわせてもらっています。現在、光徳寺には棟方が残した迫力のある襖絵や、濱田庄司、河井寛次郎らの民藝の器などが多数所蔵されています。

その後も河井との関係は深く、戦後直後の1947年には河井が富山の棟方のもとを訪れ、このときの訪問がきっかけで河井の詩集『火の願ひ』に棟方が挿絵をつけることになります。

また福光時代の棟方の代表作と言われている戦後第一弾の大作「鐘溪頌(しょうけいしょう)」全24柵。これは京都の河井の窯の名前「鐘溪窯(しょうけいよう)」の名を冠しており、師への尊敬を込めた作品と言われています。鐘溪窯の名は河井邸があった東山の町名、鐘鋳町(かねいちょう)に基づいています。町名はその昔、方広寺の巨大な釣り鐘を登り窯で鋳た場所という歴史から付いたとされています。1971年に京都府の大気汚染防止条例によって京都市内の登り窯は使用規制され、以来、街なかでその姿を見られなくなりましたが、もともと東山にはたくさんの登り窯がありました。河井次郎の使っていた鐘溪窯は現在も記念館の奥で大切に保存されています。

師に捧げた棟方志功の痕跡

棟方は『火の願ひ』に挿絵をつけた際、河井から贈られた茶碗を「愛染丸(あいぜんまる)」と銘をつけて大変大事にし、終生その付き合いは続きました。河井の自邸兼アトリエは現在河井次郎記念館として保存・一般公開がされていますが、その看板の文字は棟方志功の書によるものです。

-関連情報-
◎東京・駒場の日本民藝館では、「<特別展>洋風画と泥絵」の併設展として「棟方志功 師との交感」が開催中。棟方志功、河井寬次郎、濱田庄司の作品が展示されています。9/6まで。※会期中、入館するには事前予約が必要です。

◎河井次郎記念館
河井次郎の住まい兼仕事場が記念館として公開されています。
京都府京都市東山区五条坂鐘鋳町569

※詳細につきましては施設のHPにてご確認ください。