'
日曜美術館サイトにもどる
アートシーンサイトにもどる
2020年5月10日

コラム 萩焼 三輪休雪の世界

5/10放送の日曜美術館「萩焼 三輪休雪の世界」いかがでしたか? 放送と連動してお届けしているアートコラム、今回は代々の三輪休雪が培ってきた革新の精神を萩の土地と歴史からたどります。

20200510_nichibi_artcolumn2.jpg

革新の気質のルーツ!?

「不走時流(ふそうじりゅう)」。時代に流されず常に己の考えを重んじて進むこと。幕末時代、萩に逃れていた尊王攘夷派の公卿・三条実美(さねとみ)から贈られたこの言葉を10代三輪休雪が家訓とし、三輪窯を「不走庵」と号したと言います。

しかし、なぜこの言葉が三条実美から贈られることになったのでしょうか?
それは現在の13代三輪休雪の曽祖父にあたる8代当主の三輪雪山が、高杉晋作率いる奇兵隊に参加していたことと関係しているようです。

萩は吉田松陰生誕の地にして松下村塾のあった場所。そして明治維新への道を切り開いたその教え子たち――高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文、久坂玄瑞などを輩出した土地です。また海防の目的で藩庁を山口に移すまでは萩が長州藩の中心でした。

「八代は(中略)壮年のころは防長※の天地は尊皇攘夷(じょうい)の真ッただ中で、安閑として茶碗を焼いてばかりはいられません。血気の走るところ土を捨て馬関に走り、奇兵隊に投じたのでした。総督は高杉晋作、伊藤博文公あたりは、隊長くらいのところで、日夜同じ釜の飯を食い、国事に悲憤の涙を絞ったと申しておりました。」(10代三輪休雪が「防長新聞」で行っていた連載記事から引用)
※防長(ぼうちょう)……長州藩の通称

健康上の理由から奇兵隊は離れることとなり陶工の道に戻ったそうですが、交流は続き、明治になった後も木戸孝允、伊藤博文、山県有朋などが三輪窯を訪れていた模様です。

さて、三条実美は政変により京都から萩に逃れてきたのが1863年8月、長州藩の賓客として滞在した後、1865年の正月には九州に入り2月に太宰府に移っています。この間に三条実美とのご縁があり、そうしたきっかけから揮毫を贈られることになったという経緯ではないでしょうか(奇兵隊は三条実美はじめ公卿が長州に滞在した折の警護も務めています)。三輪家が代々受け継いでいる革新の気概は、維新の精神とつながっているのかもしれません。

萩の旅に思いをはせて

維新の始まりの場所ともいうべき松下村塾は三輪窯からすぐ、歩いて10分の距離です。松下村塾の建物は今、松陰神社の境内に保存されています。吉田松陰を祀る松陰神社はもともと松下村塾のすぐ脇にあった祠でしたが、明治時代、伊藤博文らの嘆願によって神社が創建されました。

他にも、松陰神社のすぐ南にある伊藤博文の旧宅や、旧城下町にある高杉晋作誕生地や木戸孝允旧宅、久坂玄瑞誕生地など、萩は維新ゆかりの場所に事欠きません。また城下町のすぐ隣りにある山口県立萩美術館・浦上記念館※は、代々の三輪休雪の作品を観ることができるミュージアムです。
山口県立萩美術館・浦上記念館は新型コロナウイルス感染症の状況を鑑み5/25まで休館中です。

そうそう、旅と言えば土地の食べ物も楽しみのひとつですが、萩の人なら知っていて県外の人なら聞き覚えがないであろう「金太郎」、機会があればぜひ食してみてください。鮮やかな朱色が美しく、甘みがあり、萩地方で古くから親しまれてきた地魚です。ともあれ、旅の情緒が味わえる日常が一日も早く戻ってくることを祈るばかりです。