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2016年7月24日

第16回 長崎へ シーボルトを訪ねる旅

幕末の時代、ドイツ人の医師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、日本研究で大きな成果を残しました。

今回の日美旅では、シーボルトが暮らした町・長崎を訪ねます。

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長崎市鳴滝のシーボルト宅跡。後方の赤い建物がシーボルト記念館。

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医務官として来日したシーボルトは、日本についての情報収集役も兼任します。

シーボルトの雇い主・オランダ領東インド政庁は、魅力的な商品の産地であり未知の市場でもある日本の、正確な情報を得る必要がありました。シーボルトは自然科学についてのその深い知識を見込まれたのです。
彼が長崎で最も愛した場所、自宅があった鳴滝の邸宅跡をまず訪ねました。

鳴滝・シーボルト邸宅跡

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(左)長崎の足、路面電車。(右)鳴滝。江戸時代には長崎の有力者の別荘地でもあった。

坂が多い長崎で、旅の強い味方は路面電車です。長崎駅から15分ほど路面電車に揺られ、裏道を上ると、勢いのよい水の音が突然聞こえてきます。橋の下には涼しげな滝。

この場所の地名「鳴滝」にも合点が行きます。

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(左)シーボルト邸宅跡。旧宅があったのは、門の向こうの芝生の辺り。(右)シーボルト像。

うっそうとした木々に囲まれた静かな一角にシーボルト邸宅跡はあります。

この敷地内に、シーボルトは日本初の西洋医学の私塾・鳴滝塾を開校しました。シーボルトが教べんを執っていた当時、最新の知識を求めて日本中から医師たちが鳴滝塾の門をたたきました。

門をくぐると、アジサイの木立ちの中にシーボルトの胸像がありました。
アジサイはシーボルトにとって特別な植物でした。
長崎在住中深く愛した女性「お滝」の名前をとって、日本原産のアジサイに「ヒドランゲア・オタクサ」という学名をつけました。

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(左)ハマボウの花。(右)『日本植物誌』よりハマボウ。

また、訪問時にはアオイ科のハマボウが満開でした。この植物も、「ハイビスカス・ハマボウ」という学名がシーボルトによってつけられています。

シーボルトは、日本の植物をヨーロッパに輸入するための調査にも情熱を注ぎました。
19世紀のヨーロッパで、アジサイやギボウシなどの日本原産の植物が栽培されるようになった背景には、シーボルトの植物研究があったのです。

シーボルト記念館

シーボルト記念館は、邸宅跡に隣接して建てられています。

展示室は、シーボルト関連の資料の複製を中心に、シーボルトの生涯をたどることができる構成になっています。

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(左)シーボルト記念館。オランダ・ライデンにあるシーボルトハウスに似た外観。(右)その常設展示室。

『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』などの、シーボルトが日本の研究成果をまとめた挿画本では、ページいっぱいに描かれた、細密なイラストレーションに目を引かれます。

その下絵の多くを手掛けた絵師・川原慶賀(かわはらけいが)は、シーボルトの日本研究に欠かすことのできないパートナーでした。

シーボルトとは、当時の日本人にとってどんな存在だったのか、シーボルト記念館館長の織田 毅さんに聞きました。
「医学のみならず、植物学や動物学まで修めた“生きた西洋文明”とでもいう存在ですね。その来日は、大事件だったと言えるでしょう。当時の日本の知識人たちがとりこになったことは、さまざまな文献からうかがえます」

収蔵品には、シーボルトの人物像がかいま見える資料もあります。
たとえば、帰国後にお滝と二人の間に生まれた幼い娘・お稲(後の日本初の女性産科医・楠本イネ)に送ったカタカナ書きの手紙。
帰国後、シーボルトはドイツ人貴族の女性と結婚しますが、日本に残したお滝とお稲には生活に困らないように大金を残したと言われています。
自身、幼い頃に外科医だった父を失い、経済的な苦労のなかで医師の道に進んだシーボルト。来日中はドイツに残した母と育ての親である伯父への経済的な援助を欠かしませんでした。
知の巨人とでも言うべきシーボルトですが、情の厚さを感じさせるエピソードが残っているのです。

長崎歴史文化博物館

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長崎歴史文化博物館。かつて長崎奉行所があった場所にある。

6年7か月足らずの滞在で、なぜシーボルトの日本に関する調査は、以降の日本への視線を変えるほど実り多いものになったのでしょうか。

「長崎」という場所をキーワードに、その偉業について考えてみようと思い立ち、長崎歴史文化博物館を訪ねました。

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(左)長崎貿易の輸出品と輸入品。(右)時計や西洋画など、オランダとの交流に関係した資料の数々。

常設展示では、ポルトガル、朝鮮、中国、オランダとの交流という視点から、長崎の歴史がたどれるようになっています。

展示のあちこちに、遊び心が取り入れられているのが印象的です。
たとえば、長崎貿易を紹介した展示では、当時の貿易品が、その金額を当てるゲームとともに紹介されていました。

シーボルト来日以前から、オランダ語の通訳者「阿蘭陀通詞」(おらんだつうじ)によって西洋医学などの文献が数多く翻訳されていた長崎。
語学だけでなく学問にも長けた通詞たちは、シーボルトの日本研究の大きな情報源となったのです。
シーボルトの輝かしい功績の背景には、長崎の長い異文化交流の歴史があったことを実感しました。

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シーボルトとそれ以前に来日したオランダ商館員たち。

シーボルトの長崎での人気ぶりを伝える興味深いデータを見ることができました。

江戸時代後期、長崎に学んだ人々のデータを集計した「長崎遊学者総覧」の展示です。
当時、長崎は学問や芸術の最先端が集結する町でした。全国からたくさんの志の高い者たちが集まりました。平賀源内や吉田松陰など、幕末の芸術や思想に大きな影響を与えた顔ぶれの多くも、長崎に学んだ“遊学者”たちでした。
そしてこの展示を見ると、とりわけシーボルトのもとに集った人々の数が群を抜いて多いというデータに触れることができます。
“生きた西洋文明”シーボルトが日本に与えた影響力の大きさが知れる展示でした。

出島

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出島、東側ゲート。料金所になっているのは、プロテスタントの神学校として日本で建てられたうちで現存最古の建物(1878年築)

シーボルトが日本に滞在した時代は、オランダ以外のヨーロッパからの渡航が幕府によって制限され、長崎港に造られた約4000坪の人工島・出島が唯一のヨーロッパ通商の窓口の役割を果たしていました。

現在では周囲が埋め立てられ島ではなくなっていますが、出島町という地名は残っています。
発掘調査と建物の復元が続く出島を訪ねました。

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(左)出島。19世紀初頭の江戸の町並みが再現されたエリア。緑色の建物はカピタン部屋(オランダ商館長の住居)。(右)ヨーロッパから伝わったパイ料理「パスティ」。

まずは、明治期の社交場の面影を残す旧内外クラブでランチをいただきました。

「パスティ」という、肉にパイを重ねて焼いたオーブン料理です。
長崎はポルトガルや中国の影響がうかがえるお菓子や料理が有名ですが、パスティもヨーロッパから伝わったと言われ、江戸初期に出版された『南蛮料理書』にも掲載されています。
シーボルトらオランダ商館員たちの食卓にものぼったかもしれませんね。

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(左)出島の考古資料展示室。さまざまな国との交流を物語るモノたちが並ぶ。(右)ガラスの装身具。女性は遊女のみが出島への立ち入りが認められた。

場内の展示施設には、出島の歴史や、オランダ商館にまつわる様々な資料が展示されています。

ここでも、シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた出島の様子が目を引きました。異国情緒にあふれる景色が細部まで描かれ、強い臨場感です。
慶賀は、日本人の立ち入りが厳しく制限された出島を描くことを公的に許された「出島絵師」だったのです。

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(左)川原慶賀 「宴会図」。(右)カピタン部屋、大広間。

次は、カピタン部屋(オランダ商館長の住居)を訪ねました。

川原慶賀がオランダ商館員の日常を描いた「唐蘭館絵巻」には、オランダ商館員たちが食事をしている様子を描いた「宴会図」があります。
カピタン部屋の大広間では、「阿蘭陀冬至」(おらんだとうじ)と呼ばれたクリスマスの宴会を再現しています。

畳敷きの上に置かれたテーブルなど、和洋折衷のインテリアが出島独特の文化を感じさせます。
シーボルトも、パーティーの日にはここでテーブルを囲んだに違いありません。

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(左)カピタン部屋、15畳の部屋。商館長の執務室。(右)ケンペル、ツュンベリー記念碑。

シーボルトが自ら建立した石碑が現在も出島に残っています。

日本研究の基礎を築いたケンペルと植物学者ツュンベリー――オランダ商館医として、シーボルトの先輩にあたる彼らの業績をたたえる記念碑です。
そこに、シーボルトはラテン語でこう記しました。
「ケンペルよ、ツュンベリーよ、見られよ! ここに君らの植物、年ごとに緑そい、花咲きいでて、植えたる主をしのびつつ愛の花輪をささぐるを ドクトル・フォン・シーボルト」
研究の先輩たちへの敬意にあふれた碑文ですが、同時に、未知の国、日本の研究へのシーボルト自身の熱い想いを、この石碑は今も伝えています。

出島における江戸時代の建築物の一部は、幕末の安政の大火で失われました。残された建築も、次第に近代的なものに移り変わりました。
しかし、様々な資料に基づく復元作業は現在も続き、今年の10月には新たに6棟の建築物が公開される予定です。

シーボルトがいた時代にタイムスリップしたような町並みを散策しながら、その情熱に思いをはせてみるのはいかがでしょうか。

住所/交通

●長崎までの交通【飛行機】東京から長崎空港まで約90分/大阪から長崎空港まで約60分 空港から市内まで連絡バス
【鉄道】東京から新幹線と特急で約7時間30分/大阪から新幹線と特急で約5時間/福岡から特急で約90分

●シーボルト宅跡、シーボルト記念館 長崎市鳴滝2-7-40/路面電車新中川町電停から徒歩7分

●長崎歴史文化博物館 長崎市立山1-1-1/路面電車長崎駅前電停から徒歩10分

●出島 長崎市出島町/路面電車出島電停からすぐ