ふるさと背負わなくても 福島 大熊町の少年の10年
「そこまで自分を縛ることもないかなと」
いつかふるさとに戻って町のために、と言い続けてきた彼が18歳になって口にした言葉に、私はハッとしました。小学生のころから見守ってきたその少年が、ずっと背負ってきた荷を降ろした瞬間だったのかもしれないと感じたのです。
「それでいい、等身大の自分でいいんだよ」と思わずかけたくなった言葉は、そのときはかけられませんでした。
(福島放送局記者 橋本央隆)
2020年6月に放送されたニュースに関連する記事です
坊主頭の元気な子
彼の名前は、舘内秀太くん。
私が出会ったのは6年前、小学6年生のときでした。
いつも元気で、最近では珍しい坊主頭が印象的な男の子でした。
秀太くんが生まれたのは、福島県の太平洋側にある大熊町です。
10年前、町に立地する東京電力福島第一原発は史上最悪レベルとも言われる事故を起こし、町の全域に避難指示が出されました。
大熊町の住民1万1000人はすべて避難。
その1人が、当時まだ小学2年生だった8歳の秀太くんでした。
避難先でふるさとを学ぶ
家族とともに一時は県外へ避難した秀太くん。
その後、避難先を福島県の会津若松市に移しました。
同じ県内でも、大熊町からは90キロ余り離れた内陸部です。
そこでは、町で通っていた小学校が「仮校舎」を設け授業を再開していました。
秀太くんが6年生になったとき、学校では新しい教育の取り組み「ふるさと創造学」が始まりました。
避難指示が続く中でも、大熊町の歴史や伝統を学び愛着を育むことで、将来、町を支える人材を育てようという授業。
私が取材に訪れ、秀太くんと出会うきっかけにもなりました。
授業ではじめに取り組んだのは、「自分」と「ふるさと」から連想する言葉を書き出す「イメージマップ」作りです。
このとき秀太くんが大熊町から思い浮かべた言葉は「放射線」と「帰らない」。
最初はまだ「自分」と「ふるさと」をつなぐ言葉がありませんでした。
「町に帰れないとか。やっぱり放射線があるからとか。怖いとかじゃないけど戻れないみたいな」
学びを深める子どもたち
福島出身で、震災の前から地元で取材を続けていた私は、子どもたちがふるさとの復興をどう学ぶのか知りたいと、何度も学校に通いました。
ある日の授業では、近くの仮設住宅で暮らす大熊町の大人たちから、夏祭りや伝統の踊り、盛んだった果樹栽培の歴史などを教わっていました。
また別の日の授業では、インターネットのストリートビュー機能で大熊町の画像を映し出し、パソコン画面を見つめて、興奮気味に思い出を話し合っていました。
見たものや聞いたことを素直に受け入れていく子どもたち。
「放射性物質の除染に取り組みたい」とか「警察官になって町の役に立ちたい」などと町への思いを語るようになっていました。
秀太くんも、1年間の学習のまとめでは「町に戻りたい」という思いを発表していました。
「はじめは放射線があるから戻れないという考えでしたが、戻れないけど戻りたいという意見に変わりました。町に戻るために大人の方々は頑張っている。自分たちにもできることはある、ということが見つかったことが、この学習の成果ではないかと思います」
大人の苦労を見てきた
力強く将来を語る子どもたちの姿。
頼もしくもありましたが、私にはどこかひっかかるものもありました。
それが何か、ある日の先生とのやりとりで気付かされます。
「子どもたちみんな、しっかりしてますよね」と話しかけた私に、当時、秀太くんの担任だった星輝伸先生がふと口にしたひと言です。
それを聞いて、思いました。
子どもたちの言葉はウソではないだろう。
でも心の底からの本当の言葉だったのだろうか。
震災、原発事故は人々の人生を変えた。
まだ自分で道を選択できない子どもたちにとって、その大きさはどれほどだろう。
私は、秀太くんの成長をできるところまで取材し続けたいと考えるようになりました。
ゴチャゴチャした人生
その後、中学校に入学した秀太くん。
避難先の会津若松市には、大熊町立中学校の仮設校舎もありましたが、秀太くんが進学したのは会津若松市立の中学校でした。
家族が町への帰還を諦め、会津若松市への定住を決めていたからです。
中学校の教室には、大熊町出身の生徒は秀太くんのほかに1人しかいませんでした。
ふるさと創造学の授業も、もうありません。
入学して1か月が過ぎたころに会ったときには、こうつぶやいていました。
「何で帰れないんだろうとか。なんか、ゴチャゴチャした人生だなって…」
ふるさとがわからない
私はその後、いったん福島県外へ転勤しましたが、子どもたちがどんな成長をとげるのか、ずっと気になっていました。
再び福島局の記者として戻り、秀太くんと再会したのは去年(2020年)6月。
それまでも母親を通じて電話で連絡をとったりしていましたが、久しぶりの再会です。
秀太くんは18歳、会津若松市にある商業高校の3年生になっていました。
中学時代から野球に打ち込み、仲間とともに暗くなるまでボールを追いかける毎日。
卒業後は大学進学を希望し、「早く1人暮らしがしてみたい」と口にしていました。
大学卒業後はどこで就職するのかな?県内に戻ってくるのかな?まだそれを聞くには早すぎるかと思いつつ、気になっていたことを質問してみました。
「ふるさとのことをいまはどう思っているの?」
返ってきたのは意外な言葉でした。
「ふるさとがいまいち分からないですね。それって何なんだろうなと。正直住んでる記憶も少ないし。昔みたいに、帰りたいという気持ちは、無いですね」
現実を知って
突き放したような言葉には、理由がありました。
大熊町では、2019年4月に、町の一部で避難指示が解除されていました。
秀太くんの自宅がある地区では避難指示が継続していますが、去年(2020年)3月からは、寝泊まりはできないものの立ち入りが自由になりました。
すぐに母親に頼んで、大熊町の自宅を訪れた秀太くん。
家と町の様子を目にしたとき、今までとは全く違う気持ちになったと言います。
当時のことを母親と一緒に振り返ってくれました。
秀太くん
「ホコリとか虫とかすごくて。お世辞にもきれいとは言えないですし。あれを見て帰りたいとは一切思わなかった」
母親
「(大熊の家を)壊しても大丈夫?」
秀太くん
「いいですね。必要ない。現実を知ると必要ないと思う。感情じゃ何も言えない。たぶん家を壊してしまえば完全にこだわりは無くなると思いますね」
小学2年で避難してから9年間ずっと願い続けた一時帰宅。
目の当たりにした現実は厳しいものでした。
自分を縛らない
秀太くんとふるさととの関わりはこのまま消えていってしまうのか。
私は少し寂しさを感じ始めましたが、秀太くんは投げやりになっていたわけではないようでした。
高校の担任、高橋政春先生がかけてくれた言葉で少し気持ちが楽になったそうです。
高橋先生はこのころ、大学入試に向けて秀太くんの面接の練習を担当。
練習でも判で押したように「将来は大熊町に戻って町に貢献したい」と答える秀太くんを見て、それが本当に本心なのかと気にかけ、無理はするなとアドバイスをくれたそうです。
「『どこかで仕事をするだけで何かしら町の貢献にはなるから無理にこじつける必要は無い』っていう話もされて。『直接町に関わらなくても貢献はできる』ということをおっしゃってたので。そこまで自分を縛ることもないかなと」
自分を縛ることもない。
気負うでも、突き放すでもない、淡々とした言葉が胸に残りました。
小学校のときからずっと、秀太くんは、町へ帰り町に貢献するということに、自分自身を縛っていたのかも。
その荷を、ようやく降ろすことができたのかもしれないと感じた瞬間でした。
秀太くんが高校を卒業し福島を離れるまで、あと7か月となっていました。
町と関わっていたい
ことし3月1日、高校の卒業式当日。
秀太くんはこの日をどんな風に迎えるのだろう。
会いにいくと、式を終えて校門の前で野球部の仲間やクラスメートと記念撮影をする秀太くんは、とても晴れやかな顔をしていました。
秀太くんは、この春から関東の大学へ進学します。
大学卒業後は首都圏で就職し、いつか起業したいという夢を持っています。
「自分のためでもありますけど、頑張ることでいろいろなことに貢献できるのかなと思います。生きていて生活を送っていれば、必ずどこかで町に関わることができると思うから」
震災と原発事故からのこの10年、ふるさと大熊町への秀太くんの思いは揺れ動いてきました。
門出の日の思いを、最後に聞きました。
「町の復興は自分にとってどういうこと?」
「小学生のころは子どもっぽいと言うか、前みたいな形になるのが復興だって思ってた。でも実際それは難しいので、新しく作っていくこともいいのかなって最近は思うんです。元に戻すというよりは、また作っていくという方がいいんじゃないかなと思いますね。元に戻るのは、10年もたってしまうと、なかなか難しいと思うので、その辺は変わりましたね」
秀太くん
「そこの町(大熊町)に住んでいたというのは、うそじゃないので。ちゃんと自分は記憶もありますし。その思い出もいろいろたくさんありますし。それはもう、本物なので。そういう、ふるさとを大事にしたいという気持ちもあります」
将来、大熊町へ帰るのかどうか、今はまだ秀太くんには分かりません。
でも、ふるさとと自分の関わりについて、卒業と進学を前に、改めて気付いたと教えてくれたのでした。
どんな道を歩んでも
10年前に巨大地震と津波、原発事故が襲った時、私は福島県沿岸部の南相馬支局の記者をしていました。
あの日が来るまで、実はいつまで記者を続けられるかあまり確信がありませんでしたが、被災した多くの地元の人たちが大切な人を亡くしたり、日々苦しんだりする姿を見て「自分の手で取材して伝え続けたい」という思いが強くなっていきました。
関心のあったテーマの1つが子どもたちです。
大きな災害の影響を最も受けやすく、そして、被災地の将来を担う子どもたち。
そんな子どもたちを取材をすると、みんな口々に「復興の役に立ちたい」とか「地元を盛り上げたい」などと話し、私も被災地を元気づける前向きな姿として伝えていました。
でもそこには、見た目ではわからない葛藤や悩み、矛盾、そしてもちろん強さや成長もあることが次第にわかってきたような気がします。
18歳になった秀太くんは、どこに住んでどんな仕事をしていても、頑張っていれば間接的にでも地元への貢献につながるという答えにたどり着きました。
これから先、秀太くんが、そして被災地出身の若者が、どんな道を歩んでも、私は彼らを応援していきたいと思います。
もちろんふるさとは大切にしてほしいけれど、彼らの人生は彼ら自身のもの。
ふるさとを背負わなくても、何より、1回しかない人生を自分のために生きてほしい。
「それでいい、等身大の自分でいいんだよ」
これまで、どこか気恥ずかしくて直接言えなかった言葉を、被災地出身の若者たちに贈りたいと思います。
- 福島放送局記者
- 橋本央隆
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