Special コラム  十勝晴れ

【第24回】絵を描くことは、生きること

農民として、画家として、十勝の大地に生きた天陽。
23週の放送で改めて見せた、畑と家族と、絵を描くことへの情熱。
畑を耕し絵を描く「農民画家」としての生き方は、土に生きる開拓者精神を表すものとして、今の時代を生きる私たちにも大きな気付きを与えてくれるものでした。

開拓時代の十勝に実在した「農民画家」としては、2人の画家の名が挙げられます。
広尾町に入植し、山や草花を描いた坂本直行(さかもと なおゆき)と、鹿追町に入植し、開拓農家として絵を描いた神田日勝(かんだ にっしょう)。いずれも、十勝の開拓者精神を伝える画家として知られています。


天陽の人物像を検討するうえでひとつの参考にしたとされる、神田日勝。
「農民である、画家である」と自らを称し、開拓営農のかたわら、油彩画を制作。1970年、病気のため32歳の若さで早世。
そのストーリーはドラマの中の天陽とも重なり、随所にその思想やエピソードが盛り込まれているようにも見えます。

今回は、農民画家・神田日勝について、イラストデザイナーYが紹介します。

日勝が家族とともに、戦時疎開で鹿追に移住したのは8歳の時。小さい頃から絵を描くことが好きで、中学校では美術部を創設。卒業後は農業を継ぎながら、東京芸大に進学した兄の影響を受け、油絵制作に取りかかりました。地元の青年団の一員として、演劇に出演し、その舞台装置を手がけたエピソードも残っています。19歳の頃から本格的に画家として活動を開始、以降帯広や札幌、東京などの公募展に出品し、発表の場を広げていきました。

25歳のときに、妻・ミサ子と結婚。厳しい開墾作業が続く中、ミサ子は2人の子どもを育てながら、日勝の創作活動を支えました。
ある時ミサ子が日勝に、「絵を描きたいって、どんな気持ち?」と尋ねたら、「僕にとっては生理現象かな」と答えたのだそう。
ミサ子は、そうであれば、我慢させるわけにはいかない、好きなだけ納得ゆくまで自由にさせてやりたい…と思ったといいます。(『神田日勝作品集成』より)

開拓農民として、家族に支えられ、畑を耕しながら絵を描いた日勝。
その作品は、鹿追町の「神田日勝記念美術館」に所蔵・展示されています。

学芸員の川岸真由子さんにお話を伺いました。

日勝が好んで描いたのは、生活をともにしていた農耕馬の姿。
その毛並みには、農機具をけん引してできる「胴引き跡(どうびきあと)」まで描かれており、 働く馬のたくましさや、開拓の暮らしの厳しさが表現されています。

日勝の絵は、キャンバスではなく、ベニヤ板にペインティングナイフを使って描かれているのも特徴。
その独自の画法は、日勝の作品の力強さとして表れています。

未完の作品となった『馬(絶筆・未完)』では、馬の前半身が描き出され、後半身や背景はベニヤ板のまま残されています。
余白を残した絵の様相は、農民として大地の上で生き、志半ばで亡くなった日勝の生き方にも重なります。

日勝のスタイルは、大きなベニヤ板に向かって、淡々と描き進めるもの。
公募展の締め切りに絵が間に合わないという画家仲間の悩みに対し、「一日に描ける量と残りの日数を計算して描けば、絵が間に合わないことはない」と語ったそうです。
こうした描き方は、広い畑を端から耕していく感覚と結びついているのではと、学芸員の川岸さんは話します。

広大な畑を開拓するには、力まずに淡々とその日できる量を重ねていくこと。
それは十勝の人々が受け継ぐ、開拓ならではのリズムなのかもしれませんね。


明るく快活な性格から、地元の人たちから親しまれていたという神田日勝。
地元の町民運動により建てられた美術館は、今年で開館26周年となります。
日勝の思想や作品に引かれ、十勝はもちろん全国から多くの人が訪れています。
日勝が生きた場所で作品を見ることで、絵のエネルギーを実感し、その風景を身近に感じることができます。 日勝がどんな作品を残したかは、ぜひ実際に美術館を訪れ、本物の絵を見て確かめてみてください!


天陽が教えてくれた、大地に根ざして生きることの豊かさ。
「なつぞら」の舞台・十勝は、そんな豊かな風景に出会うことができる場所です。

BACK NUMBER コラム 十勝晴れ