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巨大津波と、世界最悪レベルの原発事故・・・多くの人の人生を一変させた東日本大震災から11年となりました。NHK奈良放送局からは今回、2人の職員が岩手県の沿岸部で取材を実施。私たちが出会った人たちの声に少し耳を傾けませんか。 (熊田千乃、及川佑子)。

11年目の大船渡

入局3年目、カメラマンの私(熊田)は、今回、大船渡市に入りました。

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(大船渡市の町並み)

大船渡市への応援は実は2年連続。今年の応援にも手を挙げたのは、会いたい人たちがいたからです。それは・・・

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去年、取材した「大船渡にオーケストラを作る会」の方たちです。 楽器の未経験者が中心となって結成された団体で、月に一度、東京からプロを招いて腕を磨いています。今はバイオリンとチェロのパートしかありませんが、フルオーケストラの演奏を目指して、現在、35人ほどが活動しています。

実は、私は元吹奏楽部。11年前の震災の揺れは、神奈川県の中学校で定期演奏会に向けた合奏の練習中に経験しました。

吹奏楽とオーケストラ・・・少し異なるものの、興味をもって、去年の発表会を取材していた私。その後、どうなっているのか、気になっていました。

訪れたときは、3月21日の2回目の発表会に向けた自主練習のまっただ中。 ことしの演奏曲、ヘンデルの「水上の音楽」やグループで演奏する「見上げてごらん夜の星を」を3人で練習しているところでした。去年は全体の合奏のみでしたが、今年はソロや、楽器ごとのグループ発表があることもあって、練習にもひときわ熱がこもっていました。

そんな中、話を聞かせていただいたのは、バイオリンを担当する田辺靖子さん(68)。東日本大震災では、大船渡市内の沿岸部にある自宅が津波で流され、内陸部にある家業の製餡工場も浸水被害にあいました。

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(バイオリン担当 田辺靖子さん)

出身は静岡県だという田辺さん。聞くと、津波から難を逃れたのは、これで2度目だと言います。

「自分は(1960年の)チリ地震津波も経験している。東日本大震災の5年前には、津波対策として工場を内陸側に移設した。震災で自宅は流されてしまったけれど仕事場が残っているだけで十分ありがたかった」。

様々な人からの助けがあり、家業を再開。11年たった今、ようやく音楽を楽しむ余裕が出てきたといいます。

「音楽活動に打ち込むようになってちょっと救われたと思う。音楽で津波のつらい思いが癒やされた。本当にいろんな人に助けてもらった。そのことも忘れたくない。そして災害はひとごとではなくみんなに起こりうるもの。震災の教訓も忘れてほしくない」。
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本番への意気込みを聞くと笑いながらこう話しました。

「コンサートまであと10日?寝ないで練習して、覚悟を決めてのぞむしかないかな。これまでの成果が出せたらいいな」。

約700キロ離れた場所でも

東日本大震災から11年目の3月11日。奈良県でも被災地に祈りをささげる人がいました。葛城市の職員、西川好彦さん(48)です。

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東日本大震災の1年後の2012年。葛城市から700キロ以上離れた陸前高田市に、およそ2か月間応援に行きました。

陸前高田市は、震災発生の数日後、記者をしている私(及川)が取材に入った場所です。西川さんが応援に行ったときも、まちにはがれきが散乱し、被害を受けた市役所は高台の仮設庁舎に移転していました。

当時、葛城市の活性化などに取り組む商工観光課に所属していた西川さん。陸前高田市では、全国から集まる支援物資の仕分けや交流イベントの実施などに携わりました。

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(陸前高田市に応援中の西川さん)

「震災から1年以上が経過した時期でしたが、依然としてまちには震災の爪痕が色濃く残されていました。遠方から派遣された者の使命として、被災地の様子を奈良に戻ってからも多くの人に伝えなければならないと考え、カメラでまちの様子を写真に収め、地元の人とのつながりを深めることに心を砕きました」。

ことしの3月11日は葛城市役所でふだん通りの仕事をしながら、地震発生の時刻に庁舎内で黙とうをささげました。

原点は1995年

西川さんが「被災地」を強く意識するようになったのは、1995年1月17日。

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(1995年 阪神・淡路大震災)

神戸市内の大学に通っていた3年生の冬、「阪神・淡路大震災」に見舞われました。職員など身近なひとの命が奪われ、一部の校舎も被害にあい使用不能に。キャンパスの体育館は避難所として使われ、身を寄せ合う住民たちの姿がありました。

「僕も、仮設の校舎で勉学に励み、通学途中にも多くのボランティアの方にお会いした。普通に大学生活を送ることができたのは、多くの方のご尽力のおかげだと思い、『今度は自分が恩返ししなければならない』とずっと思い続けてきました」。

卒業後、旧新庄町、現在の葛城市の職員となったあとは、被災地支援に関わりたいと、東日本大震災や、2018年に西日本を襲った豪雨被害の際にも、自ら応援の募集に手を挙げ、現地に足を運んできました。

縁つなぐ、観音様

西川さんと陸前高田市の縁は、応援期間を終えたあとも続いています。 趣味のマラソンで東北地方の大会に参加した後には、応援の際に出会った仲間のもとに立ち寄り、交流を重ねてきました。

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(2019年マラソン大会を終えて地元の仲間たちと)

また、2014年7月には、西川さんが中心となって、このようなものを贈っていました。

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(あゆみ観音)

高さ1メートル40センチほどの観音像です。材料は陸前高田市の名勝・高田松原の松の木。津波で流され、流木となっていたものを、現地で知り合った製材会社から譲り受け、葛城市の當麻寺の住職などの協力を得て完成させました。松原に現れた「天女」をイメージした姿の観音につけられた名前は「あゆみ観音」。復興に向けて歩みを進めようという願いが込められています。

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(お堂からの陸前高田市のまちなみ)

観音像が納められたお堂は、東日本大震災当時は今よりも海に近い、標高15メートルほどの場所にありました。「避難所」にも指定されていて、地震発生直後には住民たちがいったん逃げ込みましたが、その後、押し寄せた津波は、「避難所」を飲み込んでいきました。

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(あゆみ観音と大和田智広さん)

高台に再建されたお堂の中には、優しく微笑みながらまちの復興の歩みを見守る「あゆみ観音」の姿があります。 陸前高田市の職員で、お堂と観音像を管理する大和田智広さんは、奈良県などから寄せられたたくさんの好意が観音像という形になって実を結んだことに、深い感謝と縁を感じています。

「何千人という方たちがのみを入れて観音像が完成し、そのおかげでお堂も再建できました。思いの込められた観音像をこれからも責任を持って管理し、震災で大切な人を亡くした人たちの鎮魂、慰霊の場になればいいなと思います。海が見える場所に再建されたので、海に向かってお祈りする場所として、たくさんの方々に参拝に来てほしい」。

~忘れないで~伝承に課題も

東日本大震災から11年。今回、取材に応じてくれた方々が口にしていたのは、当時の記憶や教訓をいかに後世に伝えていけるか、についてです。

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(葛城市職員 西川好彦さん)

新型コロナの感染拡大により、この2年ほど陸前高田市への訪問がかなっていない西川さんは、11年という歳月が、確実に世間の関心を失わせていると、危機感を強めています。

「最近では、ウクライナ情勢の緊迫化もあって、ニュースで東日本大震災に関する話題を目にする機会が減っているので、そうすると皆さん、忘れていくのかなと感じる。しかし、防災や減災を考えるとき、いちばんよくないのは『無関心』。ひとりでも多くの人が被災した地域や被災した人について考え、感じることで、新たな行動のきっかけづくりができればいい。わたし自身が、葛城市を代表して派遣されたのだから、現地とのパイプ役・伝道師の立場だと思って、現地の方とともに声を上げていきたい」。
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(陸前高田市 奇跡の一本松)

一方、陸前高田市の大和田さん。この11年間、市役所の職員として地域の復興に力を注いできました。課題を解決しても、また新たな課題が立ちはだかるという怒とうの日々を過ごしてきた大和田さんに、3月11日とはどういう日なのか、そう問いかけると、まっすぐ前を見て力強く、こう、話してくれました。

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(陸前高田市の職員 大和田智広さん)

「忘れてはいけないし、『伝えなければならない記憶』という意味が、自分の中ではいちばん強いです。東日本大震災で、私たちは、これだけの被害を受けた。守れるはずの命があったはずです。大きな災害が起きてもいかにして人命を守れるか、という観点で、教訓はあると思う。そうしたものを、もれなく後世に伝えていくのが、われわれ生き残った者の使命です。微力ではあるが、津波被害を経験した者が、きちんと伝えていかなければならない。そして、皆さんには、いざ自分の身の回りで災害が起きたらどうすればいいか、1年に一度くらい、考えてもらえたらと思います」。

取材を終えて

3月11日の夕方。予定していた取材をすべて終えた私(熊田)は、もう少しこの日の大船渡を見たいと思い、港に向かいました。そこで偶然、海を見に来ていた親子と出会いました。話を聞くと小学2年生の息子・航平さんの祖母がまだ行方不明だというのです。

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(大船渡港で祈りを捧げる航平さん)

少し世間話などをした後、航平さんに震災のときの避難の仕方について尋ねると、彼はこう答えました。

「津波がきたら一歩でも高いところに逃げるように教えてもらっている。震災を忘れない大船渡でいてほしい」。

震災を知らない彼がしっかりと自分の言葉で話す姿を見て、これこそが教訓を伝えていくということだと、はっとさせられました。

一方、11年ぶりに、陸前高田市を取材した私(及川)。
街がきれいに整備されている姿にこれまで地域の人たちがどんな思いでここまでたどり着いたか、費やしてきた時間とエネルギー、そして前を向こうと「あゆみ」を進めてきた姿を想像し、本当に頭が下がる思いでした。取材でお話を伺った大和田さんも、「形としては、復興までほぼ9合目、もうちょっとで完結するところまで来ていると思う」と話していました。

ただ、その一方で、あまりにも悲惨な当時の記憶を、「忘れたい」という人もいました。11年という歳月が流れても癒えない心の傷の深さを、改めて痛感しました。

くしくも、ことし、行われた阪神・淡路大震災の追悼のつどいでは、「忘れてしまわないように」「忘れたい」「忘れられてしまう」といったさまざまな意味を込めた「忘」という文字が灯ろうで描かれていました。災害の教訓や記憶を次の世代にどうつないでいくか、そして、次に起きるかもしれない災害にどう備えていくかは問われ続けています。

そうした中、3月16日の深夜、最大震度6強の揺れが、東北地方を襲いました。
忘れない、そして、若い世代にも教訓をつなげていく。
東日本大震災は、決して、東北だけの、過去の出来事にしてはいけない。
現地に取材に入り、改めてそう強く思います。

及川
熊田千乃カメラマン 2019年入局
広島局から去年、奈良局に異動。神奈川県出身。
大船渡への応援は2年連続4回目。
現地で震災のことを学んでいます。

及川
及川佑子記者 2007年入局 
奈良局は4か所目の赴任地。岩手県出身。
関西では3.11が話題にのぼることが少ないと感じ、取材を志願。
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