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ヒカルアヤノヒメ “国内最高齢競走馬”が残してくれたもの

  • 2023年12月27日

11月に19歳で命を落とした、名古屋競馬場のヒカルアヤノヒメ。
去年の夏、「名古屋競馬場に18歳の馬がいるらしい」と知った馬好きのディレクターは、「高齢の馬ってちゃんと走れるのかな?走るの辛くないのかな?」という軽い気持ちで取材を始めました。
生涯で300近いレースを走っていますが、そのうち勝利したのはたった14しかありません。勝つのが仕事である競走馬の世界で負け続けている馬、しかも高齢の馬がどうして走り続けているのか?
取材を進めていくと、1頭の馬に並々ならぬ思いを寄せる人たちがいるとわかったのです。
ディレクターの取材実感とともに、番組内で十分お伝えできなかったヒカルアヤノヒメに対する周囲の人々の思いを紹介します。
(NHK名古屋ディレクター 金久保遥)

取材の最初に知った 馬主・三原さんの思い

取材を始めたのは去年8月。
馬主の三原公子さんと調教師の井上哲さんに話を聞きにいきました。
1か月後に出走すれば最高齢出走の日本記録を樹立する、というタイミングでした。

ディレクターがまず驚いたのは、この馬に対する三原さんの強い思いでした。
いくら調教師が馬を維持し続けたいといっても、馬主が出資をやめれば実現できません。
当時75歳だった三原さんは、ヒカルアヤノヒメの維持費を捻出するために、週に5日会社の経理担当として勤務。さらに、空いた時間を利用して水泳のインストラクターまでしているというのです。
なぜそこまでして、高齢馬にお金を出し続けているのか不思議に思いました。

            馬主の三原公子さん

三原さんと競馬との出会いは50年以上前に遡ります。
三原さんの父・義高さんは金属加工業を営む技術屋で馬主。
一方で、母・しずゑさんは呉服店を経営するやり手の営業ウーマンで競馬に興味はなし。
趣味が違い仕事も忙しい2人は、すれ違いが多かったといいます。

しかし、父が80歳のころ、母が運転中に交通事故を起こし、助手席に座っていた父が車いす生活となります。
長女の三原さんが父の車いすを押し、母と3人で競馬場を訪れるようになりました。

父の馬が勝つと、2人とも大喜びし、その日は家族の会話も弾んだそうです。
当時は家族として半ば義務感で参加していたという三原さんですが、思い返せば、家族との笑顔の思い出のほとんどが、競走馬と競馬場に関することばかりだったそう。

2019年、ヒカルアヤノヒメが15歳のときに、当時馬主だった母が亡くなります。
この時、三原さんは73歳。調教師の井上さんに「きみちゃん(三原さん)が馬主になんなくちゃ、行き場がなくなっちゃう」と言われて悩んだといいます。
一方でこの時、三原さん自身が、家族を笑顔にしてくれたヒカルアヤノヒメを大切に思っていることを自覚していました。金銭面でどこまで続けられるか不安はありましたが、母から託されたと思って、 馬主になる決意をしました。

三原公子さん
アヤノヒメを私が手放したらあの子の命は無いと思って。
今までやってきたんだからなんとか今すぐダメにはしたくない。それで馬主の資格もとって。守りたいっていったら大げさだけど。

さらに、三原さんは馬主になることは、これまでとは違う自分への挑戦だったと振り返ります。

三原さん
私はね、母にもうほんとうについて回って、ついているだけ。
母にちょっとも反抗したことがないね。

気が強く、はっきり意見を言う性格だった三原さんの母。
三原さんの結婚相手も母の紹介で決まりました。
母の死後、受動的だった人生に思いがけなくふってきたのが、ヒカルアヤノヒメの命の責任。
馬主になる決断をしてから、自分の意思を貫き通すことができるようになったといいます。

三原さん
あんまり、自分の意見を言わなかったり、皆に合わせる方だったんだけど。アヤノヒメに関しては責任持たなきゃいけないなって自分でそう思って。
生き方が割と積極的になったかもわからないね。それが1番始めだね。

引退レースにむけてトレーニングの日々

三原さんと調教師の井上さんのもとに取材に通い、半年たったある日。井上さんから「来年の3月に引退レースを予定している」と聞きました。

走り続けた高齢馬に人々は何を感じるのだろう、ヒカルアヤノヒメが引退した後、井上さんや三原さんはどうするのだろう。
疑問を持ったディレクターは、最後のレースに向けて取材を続けようと決めました。

4月以降、足の不調でレースに出走できていなかったヒカルアヤノヒメ。
それでも引退レースにむけてトレーニングを続けていました。
トレーニングに騎乗していたのは、騎手見習いの望月洵輝さんです。

望月洵輝さん

中学校を卒業してすぐ、騎手学校に入学した望月さん。
騎手の資格をとる前の実習として、井上きゅう舎に住み込みで働きにきたのです。
ヒカルアヤノヒメに乗るのを、実習に来る前から楽しみにしていました。

1日に20頭以上の馬のトレーニングをする望月さん。
馬を操る技術が足りず、少しでも暴れると振り落とされてしまうこともあります。

しかし、人に慣れていて、落ち着いているヒカルアヤノヒメ。
望月さんは騎乗するうちに、騎手としてやっていく自信をもらっていたといいます。

望月洵輝さん
アヤノヒメは自分でもう、やること分かってるような感じがしました。
絶対暴れたりしないって信頼できるから、アヤノヒメじゃないとできないような思い切った乗り方とかができました。

そして、ヒカルアヤノヒメを通して、きゅう舎一丸となって競走馬を大切にする姿勢も学んでいました。

望月さん
アヤノヒメに携わる人たちの気持ちが一つになって、アヤノヒメを大事にするっていう方向性がみんな一致してたから、ここまでアヤノヒメが来れたんじゃないかなと思います。

度重なる不調・・・それでも諦めなかった馬と調教師

しかし、トレーニングを続けていた10月、不調だった右足をかばっていたからか、左足にも腫れが出ていたことが判明しました。

この日、レントゲン画像を持って現れたのは、獣医師の北村逸人さん。
井上さんの依頼でヒカルアヤノヒメの足のレントゲンを撮っていました。

獣医師の北村逸人さんと調教師の井上哲さん               
北村さん

やっぱり慢性的に状態としてはよくないっていうところは分かりますが。

井上さん

そうだよね。

もう今、何歳でしたっけ、アヤノヒメ。

19歳と何か月。

そうですよね。そこでこの状態っていうのはまあしょうがないのかなっていうふうには思います。

2年ほど前からヒカルアヤノヒメの診察をしている北村さん。
ヒカルアヤノヒメは井上さんの丁寧なケアに応えているかのように、我慢強く走り続けていると感じていました。

北村逸人さん
競争馬は負けん気とかも重要ですし、気持ちの部分が大事ななかであの子はすごい。
あの子自身が我慢して、痛みに耐えながら頑張ってるのかなというふうに思います。

ヒカルアヤノヒメとの別れ

その約1ヶ月後、トレーニング中の事故で骨盤骨折をしたヒカルアヤノヒメは、心不全で命を落としました。

死の翌日、厩舎には井上さんと三原さんの姿がありました。
井上さんは、遺体が運び出され空になった馬房の中で、涙を流しながら苦しい胸のうちを話してくれました。

井上哲さん
競走馬を続けさせるためにずっとやってたから。なんとか続けさせたかったけど。
(骨盤骨折してからは)自分の力じゃなんもしてやれないし、できるだけのことはしてあげるけど、それ以上のことはないと。

大事にしてあげてれば、本当にこのまま生きてるだけで、競馬場で競馬してる姿だけで人って癒やされるのかなと思いました。

インタビューを終えると、三原さんはヒカルアヤノヒメに別れの挨拶をしていました。

三原公子さん

アヤちゃん、ありがとう。本当にね。頑張った、頑張った。すごいよ。偉かったね。

私もアヤノを真似して頑張った。頑張って、負けるもんかっていって。本当にね。

取材を振り返って

なぜ1年以上にわたって、取材を続けることができたのか。
それはディレクター自身が「ヒカルアヤノヒメを羨んでいたから」にほかなりません。

ディレクターは20代で、これから年齢を重ねていくことに不安がありました。
今は若さで許してもらえることも年齢が上がればそうではなくなるし、自分の体力や能力が衰えて社会に必要とされなくなってしまうのではないか…常に青臭い不安にさいなまれています。

しかし、ヒカルアヤノヒメと周囲の人々を取材し、自分が年齢を重ねることに希望を抱けるようになっていきました。
この馬のように、勝てなくても自分ができることを精一杯やっていれば、自分の居場所はあり続けるのかもしれないと思うようになっていったのです。
そして、それを実現しているヒカルアヤノヒメのことを羨ましいと思っていました。

馬は自分の気持ちを教えてくれないので、ヒカルアヤノヒメが幸せだったのかはわかりません。
ただ、彼女の生き様が、勝ち負けではない“一生懸命”に生きることの価値を教えてくれたのだと思います。

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