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名古屋にそびえる“神殿” その歴史を追うと…

  • 2023年07月14日

名古屋市中村区の公園に、ひときわ目立つ建物がある。
まるで古代ギリシャの神殿を思わせる荘厳なデザイン。

なぜ、公園に“神殿”が?

その歴史を追ってみると、市民の暮らしのために奔走した1人の技術者の生涯にたどりついた。
(名古屋放送局 記者 豊嶋真太郎)

公園に現れた“神殿”

きっかけは、視聴者から寄せられた投稿だった。

「名古屋市中村区に昔あった図書館は、とても変わった建物でした。調べてください」

いったいどのような建物だったのか。
今もその建物が残っているということで、6月下旬、実際に訪ねてみた。

地下鉄東山線「中村公園」駅を降りて、西に歩くこと15分。
緑あふれる公園の中に突然…。

巨大な建物が現れた。

中央に鎮座する太い筒状の構造と、それを囲むように並ぶ16本の円柱。
白一色の外観も相まって、かなり荘厳なオーラを放っている。

建物の管理者に尋ねてみると、1991年(平成3年)までは「中村図書館」として使われていたが、現在は「名古屋市演劇練習館」(通称「アクテノン」)となっているという。

ちなみに、通称の「アクテノン」は、古代ギリシャの「パルテノン神殿」に似ていることと、演劇の「アクト」をかけあわせた造語だという。

世界史で習った あのパルテノン神殿

中を案内してもらうと、建物は5階建て。
各階には、演技やダンスのレッスンが行える鏡張りの練習室が設けられている。
和室もあり、この日は三味線教室で利用されていた。

ところが、階段で4階まで上がっていくと…。

突然、巨大な管が、むき出しの状態で現れた。
いったいこれは…?
すると、館内を案内してくれていた館長がつぶやいた。

名古屋市演劇練習館 大矢英和 館長

「実はこの建物、初めは配水塔として建てられたんです」

なんと、もともと名古屋市の水道施設だったのだという。

ほかにもその名残があるということで、5階に案内してもらった。
こちらは「リハーサル室」として使われている部屋。

一見、何の違和感もないが、実はこの空間、かつては「水槽」だったという。
ちょうど天井のあたりまで水をためることが可能だったとか。

配水塔、図書館、そして文化施設へと、役割を変えながらも今も残っているこの建物。
ここで疑問が生じた。
そもそもなぜ市の水道施設が、神殿風のデザインなのだろうか。

名古屋の急成長を支えた“神殿”

秘密を探るために訪れたのは、名古屋市上下水道局。
担当者に話を聞くと、いきなりこう切り出した。

名古屋市上下水道局 水道計画課 諏訪俊輔 係長

「実はですね、もともとは神殿風のデザインになるはずではなかったんです」

そう言って取り出したのは、名古屋市の水道の歴史をまとめた『名古屋市水道百年史』。
それによれば、神殿風の建物「稲葉地配水塔」は1937年(昭和12年)に完成している。

配水塔は浄化した水をためておく施設で、名古屋駅周辺の地域に水を届けるために建てられた。

当初の設計では、水槽の大きさは590立方メートル。
絵にすると、こんなイメージだった。

市の資料をもとに推定した当初の設計イメージ

しかし、想定を超えるスピードで宅地開発が進み、水道水の需要が高まったことから、急きょ設計を変更。
水槽の大きさは、およそ7倍の4000立方メートルに拡大された。

巨大化した水槽をどのように支えるか。
そこで考案されたのが、16本の円柱で水槽を支える“神殿”のデザインだったという。

竣工当時の様子(写真提供:名古屋市上下水道局)

謎の“神殿”は、当時の水事情を背景に生まれた”偶然の産物”だったということになる。

図書館時代の映像はNHK名古屋にも残されていた

これで謎が解けた…。
そう思ったのもつかの間、さらに気になる事実を知らされた。
実はこの建物の設計者、当時の名古屋市役所に勤めていた職員だったのだという。

「え、有名な建築家とかじゃなくて?」。

謎の市職員を追う

この市職員が建てた別の水道塔が残されていると聞き、名古屋市千種区へ。
住宅街を歩いていると見えてきたのは…。

周辺の工事で立ち入り禁止だが 特別に近くで見せてもらった

今度は一転してかわいらしい“とんがり帽子”の水道塔だ。

「東山給水塔」と呼ばれるこの建物は1930年(昭和5年)に完成。
“とんがり帽子”の部分は当初の設計にはなかったが、のちに取り付けられ、展望台になっている。
その姿から「ムーミンの家に似ている」として市民に親しまれている。

公共の水道塔にしてはユニークすぎる2つの建物。
設計した市職員とは、いったい何者なのか。

東山給水塔のすぐそばにある「水の歴史資料館」に、その人物についての展示があると聞き、訪ねた。

それがこちらの人物、成瀬薫氏(1906~1990年)だ。

1906年(明治39年)に今の岐阜県瑞浪市の農家に生まれた成瀬氏は、名古屋の親戚を頼って愛知一中(今の旭丘高校)に進学。
その後、東京帝国大学工学部土木工学科に進み、大学の恩師の強い要請で、1929年(昭和4年)に地元にも近い名古屋市役所に入庁することになったという。

入庁してすぐに東山給水塔の設計を任され、翌年の1930年(昭和5年)にこの塔を完成させた。

完成当初の東山給水塔の模型

さらに1937年(昭和12年)には、あの神殿風の稲葉地配水塔が完成。
入庁から10年足らずのあいだに、個性的な2つの塔を造りあげていた。

彼が残した建物がほかにも残っているのではないかと、資料館の館長に尋ねてみると…。

名古屋市上下水道局 水の歴史資料館 大坪成生 館長

「実は成瀬氏が名古屋にいたのは10年ほどなんです。その後は長崎に移ったと聞いています」

成瀬氏は1939年(昭和14年)に名古屋市を退職したのち、内務省の要請で、日中戦争が始まっていた北京に渡り、現地の水道整備に携わった。

1938(昭和13年)ごろの成瀬氏

1年半ほどのちに帰国した成瀬氏が新たな職場として選んだのが、長崎市役所。
1941年(昭和16年)原爆投下の4年前のことだった。

“技術者”として生きた生涯

成瀬氏のその後を知る人物がみつかり、訪れたのは栃木県宇都宮市。

息子の滋さん(81)が、成瀬氏について話を聞かせてくれた。

滋さん
「本当に優しい父でしたね。どなるとか手を上げるとか、そういうことはまったくない、優しい父親でした」

中央左が滋さん 右隣が成瀬氏

滋さんが3歳のとき、長崎に原子爆弾が落とされた。

滋さん自身は記憶はほとんどないということだが、成瀬氏の残した自伝に当時の記録が残っていた。

成瀬氏が晩年にまとめた自伝『私の水道歳時記』

「ピカッと一閃、引き続いてゴーという音響と共に席の右手の窓枠が倒れた。(中略)外勤中の職員が帰ってきた。その姿たるや衣服はボロボロになり頭髪は抜け、露出した肌が真黒の者、一皮剥れて真赤の者、全く姓名の判別が出来なかった。(中略)一目、見ただけで助からないと直感されたが『大丈夫だ、しっかりせよ』とはげまし防空壕に送った」
(『私の水道歳時記』より)

戦時下、市の防衛本部長を務めていた成瀬氏自身も被爆。
頭から流血する傷を負ったが、包帯だけを巻き、情報収集や職員の指揮にあたったという。

滋さん
「長崎が完全にがれきの街になってしまいましたから、それを復興させないといけないという気持ちは強かったと思いますよ。特にずっと水道が専門だったので、それを何とか最初に復興・復旧しないといけないという思いがあったと思いますね」

滋さん

成瀬氏は戦後、復興局長や建設局長、さらに市の助役として長崎の街の復興に尽力した。
“技術者”として人々の役に立ちたいと、奔走した生涯だったという。

長崎市役所を退職後 長崎新聞の取材を受けた成瀬氏

そして、その公務員人生の原点が、名古屋に今も残る水道塔だった。

滋さんに、父が造った2つの水道塔が今も市民に愛されていることを伝えた。

滋さん
「それは親父感激しますよ。自分が設計・製作したものが、今も壊されなくて使われているということですから。造ってからずいぶん年数がたっていると思うんですけど、名古屋の方が一生懸命保存してくれて、大事にしていただいている。大変感謝していると思いますね。ここまで維持できているのは、そういった方々の努力だと思います」

取材を終えて

神殿風の稲葉地配水塔はのちに周囲が公園として整備され、取材で訪れた日も、子どもたちが遊び回る姿が見られた。
また、その独特な建造物を一目見ようと、建築を学ぶ大学生が訪れることもあるそうだ。

80年余りにわたって市民に親しまれてきた水道塔。
これからも、街の記憶に残り続けることを願うばかりだ。

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  • 豊嶋真太郎

    名古屋局 記者

    豊嶋真太郎

    2019年入局。横浜局、小田原支局を経て、2022年8月から名古屋局。主に名古屋市政の取材を担当している。

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